ルターと宗教改革

ルターと宗教改革|高校倫理1章1節3

このブログの目的は、倫理を身近なものにすることです。
高校倫理 新訂版 平成29年検定済み 実教出版株式会社)を教科書としてベースにしています。
今回は
高校倫理第1章
「現代に生きる人間の倫理」
第1節「人間の尊厳」
3.ルターと宗教改革
を扱っていきます。
前回は人間中心主義と人間観の移り変わりを見てきました。
>>1.ルネサンスと人文主義
>>2.人間中心主義と人間観の移り変わり
今回は宗教改革について、特にルターの思想を中心に見てきます。
宗教改革⇒16世紀のヨーロッパで展開された一連のキリスト教改革運動
ルネサンスの人間や個人の発見は、宗教改革にもつながっていきました。
>>ルネサンスと人文主義
ルネサンスでのオッカム(1285-1347)の考え方は、ルターに影響を与えています。
宗教改革といえばルター。
彼がどうして宗教改革の先駆者になったのかを見ていくよ
ブログ構成
  • ルターが宗教改革の先駆者になった理由
  • ルターの思想

参考文献 「マルティン・ルター ことばに生きた改革者」(徳善義和)

ルターが宗教改革の先駆者になった理由

ルター(1483-1546)が宗教改革の先駆者になった理由には、聖書の解釈が当時の一般的解釈と異なったことがあげられます。

当時は聖書の言葉は一般的には広まらずに、律法だけ守らせる傾向がありました。

しかし、ルターはキリストの言葉(福音)の方が大事だと思ったのです。

なぜ一般的解釈と違ったことが革命を起こしたのでしょうか。

まずはルターの聖書理解

ルター修道士になる

ルター(1483-1546)は、もともとはキリスト者になる予定はありませんでした。

生まれは農民で、教育熱心な父親の元に育ちます。

法律者になろうとしていたところ、ルターに雷が直撃!

この事件を機に、ルターは「修道士になります」と心に誓いました。

当時は、命の危機を感じた時に神に祈って助けをこう。
そして、助かったのは神のおかげだと実感して、人生を転換させる。
この頃の人々には、こういう反応がよくあったみたい
ルターは修道院に入り、熱心に聖書を読みました。

ルターの聖書理解

ルターの在籍していた大学は、オッカムの学風で知られていました。

オッカムと言えば主意主義と唯名論。

  • オッカムの主意主義⇒正しいことだから神はそれを人間に命じるのではない。
    神が何かを命じるから、それを為すのが正しいということになる
  • 唯名論⇒個物のみ実在すると説く。「人間」という呼び方はあるが、実在はしない
まず、ルターは唯名論になじんでいきました。
ルターの在籍したエルフルト大学はオッカムの学風で知られる。
ルターは教育学部の頃から哲学を学んでおり、個体こそ実在して、その実在は意志と能力によって確認されるというオッカムの唯名論になじんでいた。
「マルティン・ルター」p36
当時の解釈によれば、キリスト者は個人の意志と能力によって神の解放や救いを得る。
ルターは当初、この理解によって、ひたすら厳しい苦行のような生活をおくりました。
しかし、苦行の果てに「神は自分を「正しい」と受け入れてくれたという確信がどうしても得られない」(p46)という確信に変わります。
聖書に忠実であろうとしても、ふいに頭に浮かぶ愚痴とか、差別とか、忠実には絶対なれないと悟った。
親鸞の悪人正機説みたいだね
そして、解釈を転換します。
ルターは、ラテン語でなく、もとのギリシア語に立ち戻って聖書を読み、イエスが「悔い改めなさい」と言ったのは、自分たち人間に日々時々刻々、悔い改めを望んでいるからだと理解した。
「いくら罪を犯したくないと思っていても、罪を犯さずにはいられない。人間とはそういうものだ。
しかし、毎日のひと時ひと時を心から悔い改めるならば、私がいる」
とイエスは言っている。
ルターは聖書のことばをそう受け止めた。
「マルティン・ルター」p80
ルターは当初、エラスムス(1466-1536、最大の人文主義者)の翻訳した聖書などで勉強していた。
エラスムスの解釈との転換とも取れる
人間の自由意志という観点から、この転換を見てみます。
  • 当初の自由意志解釈⇒人間自らが望みさえすれば地位も才能も獲得できる存在
  • ルターの自由意志解釈⇒人間の自由意志とは罪の中での意志であり、自由意志にもとづくと、人間は悪しか選ばない。
    なので、神(イエス・キリストの受難と十字架)が人間に与える「義(正しさ)」を、人間が受け入れることでのみ救われる

つまり、人間はもともと悪しか選ばない。

キリスト者でないと、どんな偉人も地獄に行くと言われている

でも、神の悔い改めの呼びかけがあれば、救われる。

この理解によって、ルターは自分の解釈にそった聖書の翻訳をしました。
翻訳者の自由意志理解によって、訳し方も変わってくる

ルターの翻訳

当時、教会はラテン語で統一されていました。

しかし、聖書を聞く民衆はドイツ語を話します。

民衆は教父が何を説いているのか、その意味を理解する必要がありませんでした。

民衆はいわば「立ち見の観客」であり、礼拝やミサが執りおこなわれる間、ただ立って見ていればよかった。
「マルティン・ルター」p13

ルターの転換によって起こった聖書理解は、民衆の理解によって福音を重視させるように仕向けるものです。

それは、今まで「〇〇すべし」という形だけをとっていたのに対して、「〇〇すべし、に至る心の持ちようが大事」という価値転換(律法から福音)です。

ルターは行動よりも言葉を大事にしたから、教会を破門になったし、神父としては禁止されていた結婚もした
ちなみに、活版印刷本が発明されたのは15世紀半ば。
ルターの書いた本は印刷され、当時に印刷された本の半分を占めていたほどの「ベストセラー」だったと言われています。
ルターは「ことばに生きた人」であった。
‐そして、その聖書のことばを、民衆のために、民衆のわかる言葉で説きつづけた。
宗教改革とは、そのルターが、聖書のことばによってキリスト教を再形成した出来事であった。
「マルティン・ルター」p10

宗教改革運動とルター

当時、贖宥状(しょくゆうじょう、免罪符)が教会によって販売されていました。

贖宥状は悪いことをしても、それを購入すれば許しをもらえるもの。

お金を集める目的で贖宥状を売る神父や、贖宥状を持つことで罪の意識を持たない人々に、ルターは憤りを感じていました。

贖宥状には「自分自身をチェックする機能がなかった」という欠点があった

なので、ルターは聖書を翻訳して、民衆が読めるようにしたのです。

特に有名なのが1517年にかかげた「95か条の意見書」(贖宥状を批判する文書)で、初めはラテン語でしたがすぐに翻訳されました。

しかし、困ったのが教会。

一人ひとりが聖書のことばと向き合い、ただ神の儀をうけいれることでのみ救われるのだとしたら、教会の教えや恵みは何も意味をもたなくなるどころか、神に背くものになってしまう。
「マルティン・ルター」p89

教会側はルターを破門。

それでも、ルターは言葉によって思想を伝え続けました。

ルターの運動は、ドイツ全土に広がっていきます。

1525年、大規模なドイツ農民戦争が勃発。

ルターの思想をバックボーンとして蜂起した農民ですが、当のルターは反乱を鎮めようとしました。

!?
ルターは味方じゃないの?
ルターは世俗権力には興味がなかったから、熱狂的な農民には教説が間違って伝わってしまったと嘆いていたみたい。
ルターは「〇〇すべし」という行動よりも、心持ちを大事にしてたから、蜂起には反対だった
さらに、歴史的にナチスのユダヤ人虐殺にも悪用されたと言われています。
わかりやすさの弊害は、文脈で思想が異なって伝わってしまった場合、それが正しいと信じられてしまうこと。
農民は世俗権力からの現実での平等を重視したけど、ルターは福音(罪からの救済の知らせ)の精神的平等を説いていた
ルターは時期によって、現実に作用するような言葉を書いていて、擁護できない現実があると本では述べられています。
ルターの地動説批判も有名。
地動説が認められるまで、迫害を受けた人も多い

ルターの思想

ルターの主要な思想を、教科書から抜粋します。

ルターの思想

  • 信仰義認説⇒神への信仰のみによって、人間は神から義(正しき者)とされる
  • 聖書中心主義⇒信仰によって神とむすばれるためには、聖書のみをよりどころとすべき
  • 万人司祭説⇒神を信じる者はすべて司祭であり、人間は教会から自立しており、神の元では平等
  • 職業召命観(しょうめいかん)⇒職業には聖俗の区別はなく、すべての職業は神から与えられた使命
これらの主張は、ローマ・カトリック教会に支配されてきたドイツの貴族や民衆に支持されました。

ルターの自由

とくに押さえておきたいルターの一節。
『キリスト者の自由』より
「キリスト者は、すべてのものの上にたつ自由な主人であって、だれにも従属してない。
キリスト者はすべてのものに奉仕する僕(しもべ)であって、だれにも従属している。」
矛盾してるように感じるけど、どう解釈したらいいんだろう…
ルターの解釈よれば、キリスト者の自由は行動的な制限(行動で罰されない)がないことや、精神的な自由があること。
「キリスト者は信仰だけで充分であり、義(正しき者)とされるのにいかなる行いをも要しない」(信仰のみ)と説くことで、実際にルターは結婚もしています。
信仰のみだから、贖宥状も否定される
じゃあ何をしてもいいの?
次に、キリスト者はすべてのものに奉仕する僕(しもべ)というのは、キリストがしたように隣人を愛し、隣人に奉仕すれば救われる、ということ。
ルターの礼拝改革の中心は、「神の奉仕」という理解の仕方にもとづく。
ここで、「神への奉仕」ではないことに注意が必要である。
ルターの考える礼拝は、英語で言えば「サービス」に当たる。
そこで、人間が神に奉仕することだと考えられがちだが、そうではない。
まったく逆に、神が人間に奉仕すると考えるのがルターの考える礼拝なのである。
「マルティン・ルター」p156

つまり、キリストが私たちにサービスをしてくれてるから、その教えに従うのが救済を得るのに正しいという立場かな

接客サービスって私たちは意図せずにもらってるし、それを受けている
精神的な自由があっても、この世にいるという制限を受けていると解釈します。
他にも、自由(ドイツ語のフライハイト)という概念には「共同体への愛と忠誠」という意味が入っています。(「マルティン・ルター」p152)
一見矛盾する言葉は、人を考えさせる…
今回はルターと宗教改革をやりました。
次回は、カルヴァンとプロテスタンティズムを取り扱います。
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