おはようございます。けうです。
今日は技術から科学への主役交代、という話をしたいと思います。
売れる商品というのは移り変わります。
レビットはずっと売れ続ける商品はないって過去回で話しています。
なぜかというと、蒸気機関の発明だったり、互換部品の発明と応用があったり、自動車の開発であったり、今までの商品と変えがきくような科学技術が発明されているからです。
パラダイムシフトとは
天日干しと自動乾燥機だったら、乾燥機の方が手間がかかりません。
時代としては大きく言えば、科学技術の応用に向かうということです。
でも、特徴としてその応用が家庭に向かうのはゆっくりなのか、早いのかわからないという点です。
例えば、自動食洗器があったり、全自動乾燥機があったりしますが、家庭に浸透するまでは長い時間がかかったりします。
もっといえば、天動説から地動説に移るまで何百年もかかったというとおり、なにが移り変わるきっかけがないと変わらないということです。
これはだんだん山のようにゆるやかにみんなに浸透する、というわけではなくて、いきなり浸透していきます。
なので、パラダイムシフト、価値観の変容がおとずれる、なんて言ったりします。
そして、そのパラダイムシフトが起こるのは科学技術に基づいています。
いきなり変わる要素がその中に含まれているからです。
なので、哲学も科学の発明のあとに、新しい発想が生れたりもします。
逆の場合も実はあったりしますけど、例えば、カントのものの見方ですね。
これは科学で証明される前に考え方によってその証拠を示すことができていたという例があります。
今は人間が見る世界、動物がみる世界、Aさんの見る世界、Bさんの見る世界といったように、一人一人の世界が違うことが常識にもなっていますが、以前はこの思想は当たり前のことではなかったということです。
そういう思想が科学技術を発達させるということがあるんですが、みんなに幅広く広がるには見てわかるような証拠が示されて、みんなに広く伝わることでパラダイムシフトが起こるということです。
パラダイムシフトと認識論的切断
さらに言えば、現代の哲学もこのパラダイムシフトの上に成り立っています。
昔の天才たちはその当時の時点で考えられうることをほとんど考え切っているからです。なので、その考えに今の変化を加えたものが新しい発想や新しい哲学となって登場してきます。
パラダイムシフトの次におこるのが認識論的切断、と言ったりします。
これはパラダイムシフトは世間全般におこるんですけど、認識論的切断は個人におこります。
個人の考え方が急に変わる場合を言います。
何かを学んだとして、その学んだことが基礎になるような感じです。
そして、この科学の広がり方が急であるからこそ、その商品を作ることはイノベーションになり、みんなに受け入れられないことだったりします。
パラダイムシフトとマーケティング
レビットは言います。
自動車メーカーも、新しい分野への多角化を進めてきましたが、デトロイトを拠点に活動するあるコンサルタントによれば、その裏には「仕方なくやっている」という意識があるそうです。
それでもレビットは語ります。
よい製品がなければ、あるいはよい製品でも時代遅れであれば、どの企業も長く存続できません。―技術や機械に精通したデトロイトの逸材は、馬車産業を衰退へと追いやりました。これは意図的なものでも、無駄な破壊活動でもなく、創造的破壊だったのです。と。
どんな製品が社会に流行るのかは予想ができません。
でも、一度広がるとそれが根付く可能性があります。
となると、企業もパラダイムシフトを意識しなければいけない、となってきます。
そして、それは個人においてもなんですけど、その分、個人なら転換はそこまで難しくないですよね。
なので、レビットはさらにつづけてこう言います。
ただ私が伝えたいのは、将来の成長と繁栄を目指すのであれば、現在とは違うとりくみをするというよりも、現在やっていることに加えて、ほかのこともしなくてはならない、ということです。
ずっとこれさえやっていればいい、というものはなくて、いつでもその取り組む内容プラス他の取り組みも意識しなければいけないということのようです。
ここまで書いてきて、これを個人に当てはめるとなれば意識することはPDCAのずっとDoばかりに捉われるのではなくて、全体としても戦略をところどころで持たなければいけないということなのかな、と思いました。
パラダイムシフトと認識論的切断の差
私たちは変わることを嫌うというのは強く意識します。
どんなに自動食洗器や自動乾燥機がよいものだとわかっていても、値段で躊躇したり、そこに導入するまでの手間によって躊躇したりするからです。
日常生活でもそうかもしれないなと思いました。
トラブルを起こすよりは、ここは黙ってやりすごそうと思ったり。
こういう考え方で、認識論的切断が個人になかなか起こってこないという現実はあるだろうなと。
ただ、一度それが起こると今までの考え方に戻れなくなる、ということは置きます。
パラダイムシフトは山を登る感じではなくて、段差を急に飛び越える感じです。
飛び越えるので、戻れなくなります。
もし自動乾燥機の便利さを知ったなら、わざわざ洗濯物を干す手間に戻ったりはしません。
なので、考え方が一度変わってしまうと、その部分は昔の自分というわけにはいかないという現実はあります。
もし、昔の目線を取り戻すとしても、その昔の目線にプラスアルファがあるということでもあります。
パラダイムシフトが起こると変わった!と意識しますが、普段やるような山登りのような段階を踏んでいると、実は変わっていたということに気がつきにくいのかもしれないな、とも思いました。
では、今日もお聞きいただいてありがとうございました。