おはようございます。けうです。
今日はおしゃべりについて考えてみました。
私が会話が苦手な傾向にあるんですが、それは相手が一言いったことに対して一言返すといったリズムのある会話が苦手なだけで、こうやって長文を書いたり、それを伝えたりすることに関してはおそらく苦手意識ではないんです。
ただちょっとコミュニケーションの形態がちがっているというか。
一方的に話すとか、一方的に話されるといった理解から、またそうやって話していくというコミュニケーションの方がとりやすいといったことです。
では、その場合はどういった仕組みで動いているんだろうと思ったんです。
おしゃべりとは
「脳には妙なクセがある」でおしゃべりについてはなしてある個所がありました。
コミュニケーションの主導権は基本的に情報の受け手にあります。-受け手が主導権を握ることは、対人関係における普遍的な原理です。
どういうことかというと、これはどうですか?という言葉に対して、ある判断をする「良い」「悪い」を判断すること。
受け手側が選択を持っていること。
このように述べた後に、「文字通り」に受け取る場合と、「文字通りでない」場合と二つにわけられるとも述べられていました。
①文字通り
②文字通りでない
受け手が主導権をにぎる話し方は、そのまま「文字通り」に会話を受け取らせる方法にあるといいます。
相手は言葉を信じているので、あえてそれ以上踏み込みません。
私の言った事に対してそのまま受け取って、判断してくれます。
この場合は主導権はやはり受け手側にあると言えます。
メタファーとは
しかし、主導権を自分で獲たい場合には、「文字通りではない」メタファーを引用しながら使えば立場が一方的にならずに済むといいます。
メタファーというのは、何かに直接例えることです。
例えば、人生は旅であるとか、目覚まし時計は拷問だ、といったメタファーです。
○○は○○だ。
というように直接例えてそのイメージを膨らませることをいいます。
その場合、文字通りの正解が存在するわけではなく、私の中の脳のイメージを想像して欲しいということを表しています。
そして、さらにメタファーで理解したときの脳活動の分野がそのまま文字通り理解したときと違っていることが実験で明らかになったそうです。
言葉をそのまま解釈したときには左脳が働くだけだそうです。
しかし、メタファーはその左脳に加えて前頭葉の一部など脳の広い範囲が活動するそうです。
イメージを理解しようとするからだと思われます。
本には
「メタファーを解釈することは、単語と文脈を統合し、真の意味を推定するという高次機能が関わっている」と推測されています。
と、ありました。
メタファーとベルクソン
そして、私がここでメタファーときいて、メタファーに関して述べていた哲学者ベルクソンを思い出しました。
ベルクソンはメタファーを使用すると、人はそのものについて考えようとするといいます。
人生は旅だ、といわれればその中でいろいろなイメージをすると考えられているのです。
けれど、ただこれだけでいいのか、というのが次にくる話です。
実は哲学者というのは既存の言葉がなんであるかを深く考える癖があります。
意志、理性、人間、メタファーもなんですけど、その文字の意味がなんなのかわからなくなって細かくわけるという癖があるんですよね。
カントの場合だと理性という言葉を矛盾されないように二つに分けました。
おそらく、なんでも普通の人が文字通り受け取る言葉を分ける癖がついているということ。
常識を疑うと言います。
なので、これは普通はメタファーではない言葉をメタファーとして受け取ってしまうと言うこと。
おそらく、場面によってはそのまま文字通りで受け取ることはあると思います。
例えば、人が楽しかったと言う場合、その人独自の正解があって、それによって楽しかったといっているので、文字通りうけとっても構わないのかな、と判断したりといった感じです。
しかし、私が世界は表象だという文字を受け取った時。
それをそのまま文字通り受け取る場合と、メタファーだと判断してそのことをイメージする場合とにわけられるということが起きます。
人によってこれはメタファー、これは文字通りといった差が生じているというわけです。
感情をメタファーと捉える人。
文字をメタファーと捉える人
このパターンも存在します。
そしてそれならば、もし文字通りの意味で捉えて欲しくないのなら、そこにそのような趣旨をつけといいのだろうなと思いました。
人は理性だ。
これは文字通りに見えるけれど、カントによっては文字通りではなくメタファーだった。
なぜなら、理性という言葉をさらに分析して二つの意味に捉えなおし、かつその理性について分厚い本を書き上げたからです。
この一文から、とてつもない量の思考量が生れています。
そして、思ったのは、もしかしたら私は人から楽しかったとそのまま受けた文章もかんがえていくことによっては一冊の本ができあがるということ。
「文字通り」と「文字通りでない」の境界もあやふやにできてしまうんだなと思いました。
そしてこれが脳科学では判断できないことでもあります。
人によっては言葉をメタファーと受け取る哲学者傾向の人がいるからです。
では、今日もお聞きいただいてありがとうございました。