丸山眞男

丸山眞男(まるやままさお)の思想をわかりやすく解説|高校倫理3章4節14

このブログの目的は、倫理を身近なものにすることです。
高校倫理 新訂版 平成29年検定済み 実教出版株式会社)を教科書としてベースにしています。
今回は
高校倫理第3章
「日本人としての自覚」
第4節「西洋思想の受容と展開」
丸山眞男(まるやままさお)の思想
を扱っていきます。
丸山眞男(まるやままさお、1914-1996)は世界的に知られた「日本政治思想史」の学者です。
戦後には、なぜ日本が超国家主義に傾いたのかを論文で発表し、いちやく有名になりました。
丸山眞男の文章は、論文形式で書いたものと、講演を文章にしたものでは特徴が違っています。
このブログでは、講演を中心に丸山が語った思想をわかりやすく解説します。
丸山眞男はよく批判もされる人。
でも、考え方がユーモアにあふれていて、とても刺激的!
ブログ構成
  • 丸山眞男の「無責任の体系」
  • 丸山眞男の思想

参考文献 日本の思想(丸山眞男)超国家主義の論理と心理(丸山眞男著・古矢旬編)自由とは何か(佐伯啓思)従属国家論(佐伯啓思)銀河鉄道の夜(宮沢賢治)日本文化のかくれた形「原型・古層・執拗低音」(丸山真男)

丸山眞男の「無責任の体系」

丸山眞男を有名にした論文は「超国家主義の論理と心理」です。

1946年5月戦後、自身の復員からわずか半年あまりで執筆されて、雑誌に載りました。

「呆れるほど広い反響を呼んだ」

と、丸山自身が言うほどの影響を世間に及ぼしたのです。

この一見難解な論文が、にもかかわらず広範な読者層の心をとらえた理由は、おそらく「昨日までの」丸山の天皇制経験が、まさに国民的な共通経験に通底していたこと、そして丸山のいう自己説得の試みが、敗戦経験に戸惑う人々に、一つの明快な自己認識への道筋を示し、彼らが自由な政治的主体として再生する正当性と可能性を照らし出したことにあったと思われる。
「超国家主義の論理と心理」解説p532

みんなが自己認識の一つにした理論。
ブログも自己認識論を中心に解説!

超国家主義の論理と心理

日本人を戦争に駆り立てたイデオロギーを、連合国は超国家主義(定義があいまい)だと述べました。

丸山眞男は連合国で言われている超国家主義を独自に解読していきます。

超国家主義⇒昭和の戦時体制時、強権的な政治で国民を国家に従わせようとする思想
北一輝(きたいっき)「日本改造法案大綱」がよく引用される。
超国家主義という言葉を、丸山の造語とする理解がある
丸山は造語が多い。
その言葉を理解すれば、丸山が何を言わんとしていたのか理解しやすいよ
丸山は国家主義と超国家主義を分けることによって、理解を明確にしました。
まずは国家主義。
国家主義⇒国家の利益を個人の利益に優先させる思想(明治期)
国家主義は、特にヨーロッパ近代国家によって輸入されてきた思想です。
この思想の特徴は、形式的(論理的)だということ。
つまり、西洋思想では、哲学(論理)と宗教(道徳)をはっきり分けて考えていました。
例えば、神学と哲学を完全に切り離したオッカムのカミソリ
西洋思想では「私が認識できるものだけを探求するべき」という考え方が広まっていったよ
ヨーロッパ近代国家では、形式と道徳的なものは分けて考えていたのですが、日本には「分ける」という考え方が入ってきませんでした。
なので日本には、形式も道徳も一緒になって、国家主義が入ってきたのです。
従って国家的秩序の形式的性格が自覚されない場合は凡そ国家秩序によって捕捉されない私的領域というものは本来一切存在しないこととなる。
我が国では私的なものが端的に私的なものとして承認されたことが未だかつてないのである。
従って私的なものは、すなわち悪であるか、もしくは悪に近いものとして、何程かのうしろめたさを絶えず伴っていた。
「超国家主義の論理と心理」p18
日本では国体に尽くすことが道徳とされて立派と思われてきた
例えば、勤続数十年で会社に忠義を尽くしている人に、尊敬のまなざしが向けられるようなもの
つまり、超国家主義とは形式と道徳が一緒になった形のこと。
  • 国家主義⇒形式
  • 超国家主義⇒形式+道徳
ずっと忠義を尽くしている、と聞けば善い人物に思われるかもしれませんが、そこには落とし穴があります。
「勝つた方がええ」というイデオロギーが「正義が勝つ」というイデオロギーと微妙に交錯しているところに日本の国家主義論理の特質が露呈している。
それ自体「真善美の極致」たる日本帝国は、本質的に悪を為し能わざるが故に、いかなる暴虐なる振舞も、いかなる背信的行動も許容されるのである!
「超国家主義の論理と心理」p21
例えば、これは悪だからと「一般的な悪」を決めつけて、そこで残虐なことをしても平気になってしまうこと
さらに言えば、いくら論理的に説明したとしても話が通じることはなく、ゲンコツ(暴力)によって決まってしまうことを言います。
論理的説明だったとしても、生意気とか、お遊び・空想とか、そのようにしか受け取られないことも…

無責任の体系

個人の内面的な倫理が「無力」かつ「無価値」とされることによって、国家的な倫理になっていきます。

丸山眞男はこの意味で東条英機(戦時中の首相)を日本的政治のシンボルと言いました。

東条英機首相が述べた言葉。

「独裁政治ということがよく言われるが、これを明確にしておきたい。

‐東条というものは一個の草莽(そうもう、民間にあって地位を求めずに国家的危機の際に国家への忠誠心に基づく行動に出る人)の臣である。

あなた方と一つも変わりはない。

ただ私は総理大臣という職務を与えられている。

ここで違う。

これは陛下の後光を受けてはじめて光る。

陛下の後光がなかったら石ころにも等しいものだ。
「超国家主義の論理と心理」p31

日本社会では、認められた役職がなければ石ころに等しい。

それほど国家的な倫理が強いことを示しています。

丸山眞男はこれを「無責任の体系」と呼びました。

総理大臣でさえある理念に従って、お国のために尽くしているのみ、という意識を持っていたんだね
然るに我が国の場合はこれだけの大戦争を起こしながら、我こそ戦争を起こしたという意識がこれまでの所、どこにも見当たらないのである。
なんとなく何者かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するか。
‐そうした主体的責任意識の成立を困難なら占めたことは否定できない。
「超国家主義の論理と心理」p30
みんなが国体に従っていた、ともいえる状況です。
国体⇨臣民は先祖や天皇に忠孝を示し、天皇は天皇の祖先に孝を示すという形式。
みんながみんなイメージによって道徳を形成して、それに従っていた
だれも主体性をもって現実にかかわることのない「無責任の体系」が成立していた、と丸山は述べています。

「なる」神

国体に着目すれば、天皇の祖先を考察することになります。

天皇は祖先に孝を尽くすから、そもそもの成り立ちが気になるよね
丸山眞男は日本神話において、神が原初の混沌からおのずから次々と「なる」神として書かれている点に着目しました。
つまり、日本においては今の「なりゆき」が重視されると丸山は論じたのです。
日本には神道・仏教・儒教などの思想はありますが、「そもそもの〇〇」という思想的座標軸がありません。
日本に仏教が入ってきたときも、聖徳太子は「神・仏・儒教を一つにするんじゃなくて、それぞれとして3つが併存し得る」という日本的論理を打ち立てた
>>聖徳太子と和の精神
これは、幕末明治以来外国人によって書かれた日本観を見ると一番よくわかるのですけれども、日本ぐらいいつも最新流行の文化を追い求めて変化を好む国はないという見方と、日本ほど頑強に自分の生活様式や宗教意識(あるいは非宗教意識)を変えない国民はないという全く正反対の見方とがある。
これは両方正しいわけです。
絶えず新しいメッセージを求めるということと、新しい刺激を求めながら、あるいはその故にか根本的にはおどろくほど変わらないということ
‐この両面がやはり思想史的な問題としても重要なものになってくるのではないか。
「日本文化のかくれた形」(原型・古層・執拗低音)p121
日本はいまの「なりゆき」を重視し、主体性の確立をはばむような思考パターン(古層)があることを丸山は論じました。
古層⇨地質学的な比喩の意味。
日本は「古層」の上に外来思想が堆積するけれど、底辺には「古層」が続いているというイメージ
丸山は生涯を通じて、日本人の主体性の確立という課題と格闘し続けたと言われています。
日本人は主体性がない、というのは政治においても問題になっていたよね
>>カエルの楽園を紹介
さらには今の日本哲学でも、主体性や責任などを論じているよ
>>「J哲学の最前線」

丸山眞男の現代批判

丸山眞男の作品は高校の教科書に載っていることが多いので、多くの人はなんとなく懐かしい感じを受けるかもしれません。

  • タコツボ型社会
  • 「である」ことと「する」こと

この2つはとても有名です。

タコツボ型社会

丸山眞男は近代日本の学問とか文化とか社会の組織形態が、ササラ型ではなく、タコツボ型であると言いました。

  • ササラ型⇨元のところが共通していてそこから指がわかれでている型
    長い共通の文化的伝統が根にあって末端がたくさんに分化している
  • タコツボ型⇨孤立したタコツボが並列している型
    共通の根にぶつからずに、共通の言葉が乏しい

丸山は現代の日本をタコツボ型だと述べます。

タコツボ型の特徴

  • 専門家同士の理解が食い違っている
  • それぞれがマイノリティ意識(被害者意識)を持つ
  • 無限に細分化される
  • タコツボの中で階級的な力を強めやすい
  • 「うち」ではこう、という内部だけで通用する価値基準を持つ
日本人はマジョリティがマイノリティ意識を持ちやすいという矛盾を持っている
丸山自身もタコツボ型をどうにかしようとして、わかりやすい造語(タコツボ型という言葉も)をたくさん作ったんじゃないかな
タコツボの紐が以前は国体。
戦後とともにその紐が解体され、マスコミやマスメディアがその紐の役割を果たしているのではないか、と丸山は述べます。
日本人がマスメディアによって思考や感情や趣味の画一化、平均化を進行させつつも、独自の内文化(タコツボ)を存在させる傾向がある、と。
人と対話できない理由の一つとしてタコツボ型イメージは役立ちそう!
自己理解の一つとして、「タコツボ型」は人々の思考に残りやすい言葉です。

「である」ことと「する」こと

丸山は「である」ことと「する」ことという造語によって、日本人理解を深めました。

  • 「である」こと⇨身分、アイデンティティ
  • 「する」こと⇨行動する

例えば、江戸時代は身分制度があり、「武士である」ことや、「皇族である」ことなど、〇〇であることが重視されました。

明治になって身分制度が廃止されるようになると、「〇〇する」ことの方に価値がでてきます。

終身雇用よりも能力や成果主義が重視されているのは、「〇〇である」ことよりも「〇〇する」ことに価値がでてきたから
しかし、現代は「〇〇する」ことが価値を持ちすぎた弊害がある、と述べています。
「〇〇する」ことが価値を持ちすぎた弊害
  • なにもしないことを怠惰とみなされる。
  • 目的の手段化(例:能率をあげることに最大価値を見いだす)
  • ニヒリズム(虚無主義、何事にも価値を見いだせないこと)

丸山は、そもそも「である」ことと「する」ことの関係性を指摘しました。

私たちの社会が自由だ自由だといって、自由であることを祝福している間に、いつの間にかその自由の実質はカラッポになっていないとも限らない。

自由は置き物のようにそこにあるのでなく、現実の行使によってだけ守られる、いいかえれば日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうるということなのです
「日本の思想」p159

つまり、「〇〇することによって、〇〇である」、または「〇〇であるので、〇〇する」が生まれると説いたのです。

一例

  • 請求することによって、債権(金銭の返却を請求する権利)がある
    (「権利の上にねむる者」
    請求する行為によって時効を中断しない限り、たんに自分は債権者(貸し手)であるという位置に安住していると、ついには債権を喪失するというロジック。)
  • 明治維新は、江戸時代の身分制度があったのに対して、多くの人々が自由を求めた
  • 戦後は、戦争中における道徳や規則があったので、多くの人々が自由を求めた
今は何かに対して自由を求めているのかな?
僕は親からの自由が欲しい

また、日本人が「である」行動様式と「する」行動様式とのゴッタ返しのなかで、多少ともノイローゼ症状を呈していることも丸山は指摘しています。

タコツボ論と一緒に考えると、隣のタコツボに行くには隣のタコツボでの「である」を意識して行動、またその隣のタコツボへ、と往復する感じ

例えば、宮沢賢治(みやざわけんじ、1896-1933)の世界にそれらを見てみましょう。

宮沢賢治の世界と、ほんとうの幸福

宮沢賢治の代表作の一つは「銀河鉄道の夜」です。

孤独な少年ジョバンニが、友人カムパネルラと銀河鉄道の旅をする物語。

これもよく学校の教科書に載っています。

ジョバンニは気が付くとカムパネルラと銀河鉄道に乗っていました。

旅の途中、ジョバンニはそこで鴈(ガン、鳥のこと)捕りに出会い、鴈をお食べと差し出されました。

なんだ、やっぱりこいつはお菓子だ。

チョコレートよりも、もっとおいしいけれども、こんな鴈が飛んでいるもんか。

この男は、どこかそこらの野原の菓子屋だ。

けれどもぼくは、このひとをばかにしながら、この人のお菓子をたべているのは、たいへんきのどくだ。
銀河鉄道の夜p33

例えば、鳥捕りであるけれども、本当の鳥(お菓子でない鳥)捕りでないことで鳥捕りを軽蔑する。

しかし、その人のすることには(美味しいお菓子を食べられた)恩恵を受けている。

よくわからない心情がジョバンニをおそいます。

サソリの物語

銀河鉄道ではあるサソリの物語が語られます。

小さな虫をたくさん食べてきたサソリが、イタチから逃げていたところ、井戸に落ちてしまいました。

井戸から出られそうにありません。

サソリは思います。

どうしてわたしはわたしのからだを、だまってイタチにくれてやらなかったろう。

そしたらイタチも一日生きのびたろうに。

どうか神さま。

私の心をごらんください。

こんなにむなしく命をすてず、どうかこの次には、まことのみんなの幸い(さいわい)のために私のからだをおつかいください。
「銀河鉄道の夜」p62

サソリは何がみんなの幸福かわかっているようでした。

このサソリの話をふまえて、ジョバンニとカムパネルラは語ります。

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねぇ、どこまでもどこまでもいっしょに行こう。

僕はもう、あのサソリのように、ほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺんやいてもかまわない」

「うん、僕だってそうだ」

カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。

「けれどもほんとうのさいわいはいったいなんだろう」ジョバンニは言いました。

「僕わからない」カムパネルラがぼんやり言いました。

「僕たちしっかりやろうねぇ」
銀河鉄道の夜p67

幸福がわからないからこそ、みんなの幸福を求めます。

物語の最後で、カムパネルラは川で溺れそうになった友人を助けようとして亡くなっていたことが明らかになる。
「僕わからない」と言ったカムパネルラは、行動を起こしていたんだね

宮沢賢治の作品は、「法華経」信仰にもとづき、「すべてのいきもののほんとうの幸福」を願うものだと言われています。

他にも、聖徳太子や、最澄日蓮なども法華経を重要視していました。

丸山眞男批判の一例

冒頭に丸山眞男は批判を受けることが多い人物だと述べました。

例えば「隷属国家論」(佐伯啓思著)では、このような一文があります。

丸山眞男を初めとする戦後期の左翼リベラル派、いわゆる進歩的知識人といわれた学者や知識人は、自由や民主主義、人権思想などの普遍性、世界性を唱えるアメリカの価値をそのまま受け入れた。
「隷属国家論」p196

戦後は自由や民主主義、人権思想の価値をそのまま受け入れた。

それが今の私たちの価値観を形成し、「自由や民主主義、人権が善いものという価値感」を形成したのです。

確かに、それらは「善いものという前提」があったかも。
でも、どうしてそれがダメなの?
例えば、「どうして人を殺してはならないのか」という問いが世間を騒がせたことがあります。
ここでは、欲望を満たすという「自由」が、「道徳」もしくは「禁止」より優位に立っている。
「どうして人を殺してはならないか」という問いの意味するところは、「道徳」に対する「自由」の優位がもはや説明を要しない、ということなのである。
自由とは何かp59
つまり、自由な個人という概念が上位価値になることによって、今までの「道徳」や「法」という社会的な拘束は個人の自由に対する束縛としか見えなくなってしまったことをいいます。
アメリカ思想の価値の流入
  • 「自由>道徳」になった
個人主義という考え方が、今までの「道徳(何か善いもの)」を「道徳(押し付けられたもの)」という見方に変えた
それは、自由にせよ、平等にせよ、本来、何か価値あることを生み出すための手段であり条件であったはずのものが、その目的を見失ってしまったために、それ自体が自己目的化してしまったからである。
手段の目的化が生じたのである。
「自由とはなにか」p234
丸山眞男はわかりやすく思想を人々に伝えていきました。
人々はそれを善いものとして無条件に受け入れます。
すると、そのイメージが幻想を作り上げ、またそこに固定化された価値感を植えつけます。
「同じ考えを現わそうとやっきになっているくせに言葉の上でたがいに真向から反対しあっているのに気がつくことが少なくない。」
「日本の思想」丸山眞男p128
また、「人は何かを共同で信じなければ、社会的な意味を与える価値の基準がなくなってしまう」と佐伯啓思は述べます。
いろんな見方があって、批判かと思えば批判でもない。
考え方を知ることは、自己認識を深める
今回は丸山眞男の思想をやりました。
次回は、小林秀雄について扱います。
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