「日本人としての自覚」
第4節「西洋思想の受容と展開」
⑭丸山眞男(まるやままさお)の思想
でも、考え方がユーモアにあふれていて、とても刺激的!
- 丸山眞男の「無責任の体系」
- 丸山眞男の思想
参考文献 日本の思想(丸山眞男)、超国家主義の論理と心理(丸山眞男著・古矢旬編)、自由とは何か(佐伯啓思)、従属国家論(佐伯啓思)、銀河鉄道の夜(宮沢賢治)、日本文化のかくれた形「原型・古層・執拗低音」(丸山真男)
丸山眞男の「無責任の体系」
丸山眞男を有名にした論文は「超国家主義の論理と心理」です。
1946年5月戦後、自身の復員からわずか半年あまりで執筆されて、雑誌に載りました。
「呆れるほど広い反響を呼んだ」
と、丸山自身が言うほどの影響を世間に及ぼしたのです。
この一見難解な論文が、にもかかわらず広範な読者層の心をとらえた理由は、おそらく「昨日までの」丸山の天皇制経験が、まさに国民的な共通経験に通底していたこと、そして丸山のいう自己説得の試みが、敗戦経験に戸惑う人々に、一つの明快な自己認識への道筋を示し、彼らが自由な政治的主体として再生する正当性と可能性を照らし出したことにあったと思われる。
「超国家主義の論理と心理」解説p532
ブログも自己認識論を中心に解説!
超国家主義の論理と心理
日本人を戦争に駆り立てたイデオロギーを、連合国は超国家主義(定義があいまい)だと述べました。
丸山眞男は連合国で言われている超国家主義を独自に解読していきます。
北一輝(きたいっき)「日本改造法案大綱」がよく引用される。
その言葉を理解すれば、丸山が何を言わんとしていたのか理解しやすいよ
西洋思想では「私が認識できるものだけを探求するべき」という考え方が広まっていったよ
従って国家的秩序の形式的性格が自覚されない場合は凡そ国家秩序によって捕捉されない私的領域というものは本来一切存在しないこととなる。我が国では私的なものが端的に私的なものとして承認されたことが未だかつてないのである。‐従って私的なものは、すなわち悪であるか、もしくは悪に近いものとして、何程かのうしろめたさを絶えず伴っていた。
「超国家主義の論理と心理」p18
- 国家主義⇒形式
- 超国家主義⇒形式+道徳
「勝つた方がええ」というイデオロギーが「正義が勝つ」というイデオロギーと微妙に交錯しているところに日本の国家主義論理の特質が露呈している。それ自体「真善美の極致」たる日本帝国は、本質的に悪を為し能わざるが故に、いかなる暴虐なる振舞も、いかなる背信的行動も許容されるのである!
「超国家主義の論理と心理」p21
無責任の体系
個人の内面的な倫理が「無力」かつ「無価値」とされることによって、国家的な倫理になっていきます。
丸山眞男はこの意味で東条英機(戦時中の首相)を日本的政治のシンボルと言いました。
東条英機首相が述べた言葉。
「独裁政治ということがよく言われるが、これを明確にしておきたい。
‐東条というものは一個の草莽(そうもう、民間にあって地位を求めずに国家的危機の際に国家への忠誠心に基づく行動に出る人)の臣である。
あなた方と一つも変わりはない。
ただ私は総理大臣という職務を与えられている。
ここで違う。
これは陛下の後光を受けてはじめて光る。
陛下の後光がなかったら石ころにも等しいものだ。」
「超国家主義の論理と心理」p31
日本社会では、認められた役職がなければ石ころに等しい。
それほど国家的な倫理が強いことを示しています。
丸山眞男はこれを「無責任の体系」と呼びました。
然るに我が国の場合はこれだけの大戦争を起こしながら、我こそ戦争を起こしたという意識がこれまでの所、どこにも見当たらないのである。なんとなく何者かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するか。‐そうした主体的責任意識の成立を困難なら占めたことは否定できない。
「超国家主義の論理と心理」p30
「なる」神
国体に着目すれば、天皇の祖先を考察することになります。
>>聖徳太子と和の精神
これは、幕末明治以来外国人によって書かれた日本観を見ると一番よくわかるのですけれども、日本ぐらいいつも最新流行の文化を追い求めて変化を好む国はないという見方と、日本ほど頑強に自分の生活様式や宗教意識(あるいは非宗教意識)を変えない国民はないという全く正反対の見方とがある。これは両方正しいわけです。絶えず新しいメッセージを求めるということと、新しい刺激を求めながら、あるいはその故にか根本的にはおどろくほど変わらないということ‐この両面がやはり思想史的な問題としても重要なものになってくるのではないか。
「日本文化のかくれた形」(原型・古層・執拗低音)p121
日本は「古層」の上に外来思想が堆積するけれど、底辺には「古層」が続いているというイメージ
>>カエルの楽園を紹介
>>「J哲学の最前線」
丸山眞男の現代批判
丸山眞男の作品は高校の教科書に載っていることが多いので、多くの人はなんとなく懐かしい感じを受けるかもしれません。
- タコツボ型社会
- 「である」ことと「する」こと
この2つはとても有名です。
タコツボ型社会
丸山眞男は近代日本の学問とか文化とか社会の組織形態が、ササラ型ではなく、タコツボ型であると言いました。
- ササラ型⇨元のところが共通していてそこから指がわかれでている型
長い共通の文化的伝統が根にあって末端がたくさんに分化している - タコツボ型⇨孤立したタコツボが並列している型
共通の根にぶつからずに、共通の言葉が乏しい
丸山は現代の日本をタコツボ型だと述べます。
タコツボ型の特徴
- 専門家同士の理解が食い違っている
- それぞれがマイノリティ意識(被害者意識)を持つ
- 無限に細分化される
- タコツボの中で階級的な力を強めやすい
- 「うち」ではこう、という内部だけで通用する価値基準を持つ
「である」ことと「する」こと
丸山は「である」ことと「する」ことという造語によって、日本人理解を深めました。
- 「である」こと⇨身分、アイデンティティ
- 「する」こと⇨行動する
例えば、江戸時代は身分制度があり、「武士である」ことや、「皇族である」ことなど、〇〇であることが重視されました。
明治になって身分制度が廃止されるようになると、「〇〇する」ことの方に価値がでてきます。
- なにもしないことを怠惰とみなされる。
- 目的の手段化(例:能率をあげることに最大価値を見いだす)
- ニヒリズム(虚無主義、何事にも価値を見いだせないこと)
丸山は、そもそも「である」ことと「する」ことの関係性を指摘しました。
私たちの社会が自由だ自由だといって、自由であることを祝福している間に、いつの間にかその自由の実質はカラッポになっていないとも限らない。
自由は置き物のようにそこにあるのでなく、現実の行使によってだけ守られる、いいかえれば日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうるということなのです。
「日本の思想」p159
つまり、「〇〇することによって、〇〇である」、または「〇〇であるので、〇〇する」が生まれると説いたのです。
一例
- 請求することによって、債権(金銭の返却を請求する権利)がある。
(「権利の上にねむる者」
請求する行為によって時効を中断しない限り、たんに自分は債権者(貸し手)であるという位置に安住していると、ついには債権を喪失するというロジック。) - 明治維新は、江戸時代の身分制度があったのに対して、多くの人々が自由を求めた。
- 戦後は、戦争中における道徳や規則があったので、多くの人々が自由を求めた。
また、日本人が「である」行動様式と「する」行動様式とのゴッタ返しのなかで、多少ともノイローゼ症状を呈していることも丸山は指摘しています。
例えば、宮沢賢治(みやざわけんじ、1896-1933)の世界にそれらを見てみましょう。
宮沢賢治の世界と、ほんとうの幸福
宮沢賢治の代表作の一つは「銀河鉄道の夜」です。
孤独な少年ジョバンニが、友人カムパネルラと銀河鉄道の旅をする物語。
これもよく学校の教科書に載っています。
ジョバンニは気が付くとカムパネルラと銀河鉄道に乗っていました。
旅の途中、ジョバンニはそこで鴈(ガン、鳥のこと)捕りに出会い、鴈をお食べと差し出されました。
なんだ、やっぱりこいつはお菓子だ。
チョコレートよりも、もっとおいしいけれども、こんな鴈が飛んでいるもんか。
この男は、どこかそこらの野原の菓子屋だ。
けれどもぼくは、このひとをばかにしながら、この人のお菓子をたべているのは、たいへんきのどくだ。
銀河鉄道の夜p33
例えば、鳥捕りであるけれども、本当の鳥(お菓子でない鳥)捕りでないことで鳥捕りを軽蔑する。
しかし、その人のすることには(美味しいお菓子を食べられた)恩恵を受けている。
よくわからない心情がジョバンニをおそいます。
サソリの物語
銀河鉄道ではあるサソリの物語が語られます。
小さな虫をたくさん食べてきたサソリが、イタチから逃げていたところ、井戸に落ちてしまいました。
井戸から出られそうにありません。
サソリは思います。
どうしてわたしはわたしのからだを、だまってイタチにくれてやらなかったろう。
そしたらイタチも一日生きのびたろうに。
どうか神さま。
私の心をごらんください。
こんなにむなしく命をすてず、どうかこの次には、まことのみんなの幸い(さいわい)のために私のからだをおつかいください。
「銀河鉄道の夜」p62
サソリは何がみんなの幸福かわかっているようでした。
このサソリの話をふまえて、ジョバンニとカムパネルラは語ります。
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねぇ、どこまでもどこまでもいっしょに行こう。
僕はもう、あのサソリのように、ほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺんやいてもかまわない」
「うん、僕だってそうだ」
カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいはいったいなんだろう」ジョバンニは言いました。
「僕わからない」カムパネルラがぼんやり言いました。
「僕たちしっかりやろうねぇ」
銀河鉄道の夜p67
幸福がわからないからこそ、みんなの幸福を求めます。
「僕わからない」と言ったカムパネルラは、行動を起こしていたんだね
宮沢賢治の作品は、「法華経」信仰にもとづき、「すべてのいきもののほんとうの幸福」を願うものだと言われています。
他にも、聖徳太子や、最澄、日蓮なども法華経を重要視していました。
丸山眞男批判の一例
冒頭に丸山眞男は批判を受けることが多い人物だと述べました。
例えば「隷属国家論」(佐伯啓思著)では、このような一文があります。
丸山眞男を初めとする戦後期の左翼リベラル派、いわゆる進歩的知識人といわれた学者や知識人は、自由や民主主義、人権思想などの普遍性、世界性を唱えるアメリカの価値をそのまま受け入れた。
「隷属国家論」p196
戦後は自由や民主主義、人権思想の価値をそのまま受け入れた。
それが今の私たちの価値観を形成し、「自由や民主主義、人権が善いものという価値感」を形成したのです。
でも、どうしてそれがダメなの?
ここでは、欲望を満たすという「自由」が、「道徳」もしくは「禁止」より優位に立っている。「どうして人を殺してはならないか」という問いの意味するところは、「道徳」に対する「自由」の優位がもはや説明を要しない、ということなのである。
自由とは何かp59
- 「自由>道徳」になった
それは、自由にせよ、平等にせよ、本来、何か価値あることを生み出すための手段であり条件であったはずのものが、その目的を見失ってしまったために、それ自体が自己目的化してしまったからである。手段の目的化が生じたのである。
「自由とはなにか」p234
「日本の思想」丸山眞男p128
考え方を知ることは、自己認識を深める