西田幾多郎

西田幾多郎(にしだきたろう)と日本哲学をわかりやすく|高校倫理3章4節⑪

このブログの目的は、倫理を身近なものにすることです。
高校倫理 新訂版 平成29年検定済み 実教出版株式会社)を教科書としてベースにしています。
今回は
高校倫理第3章
「日本人としての自覚」
第4節「西洋思想の受容と展開」
西田幾多郎と日本哲学
を扱っていきます。
(前回は平塚らいてうと大正デモクラシーをやりました。
>>⑩平塚らいてうと大正デモクラシー)
日本にはもともと「哲学」に対応する日本語がありませんでした。
西周(にしあまね、1829-1897)が訳語として「哲学」を作ったのです。
北宋の儒学者の書に「士希賢」(士は賢をこいねがう)という有名な文があり、希は省略、賢を哲として「哲学」です。
もともと、古典ギリシア語の哲学の語源「フィロソフィア」に知を愛するという意味があります。
「理学」と翻訳しようという案もあったらしい。
理⇒「自然に関する科学の総称」
西田幾多郎(にしだきたろう、1870-1945)は日本の最初の哲学者と言われています。
日本には「宗教」や「哲学」という概念が今までなく、その概念が生まれた後の哲学者が西田幾多郎だからです。
とはいえ、なぜ日本哲学者の最初の人と言われているのか。
西田幾多郎は何を説いたのかを見ていきます。
日本人が西洋から入ってきた思想を説いていると、「皮相上滑り」だとか、真似だとか言われてたよね。
そうではない日本哲学ってなんだろう
ブログ内容
  • 西田幾太郎と日本哲学
  • 西田幾多郎と時代背景
  • 西田幾多郎の絶対無とは

参考文献 禅の研究(西田幾多郎著)絶対矛盾的自己同一(西田幾多郎著、kindle版)西田幾多郎 無私の思想と日本人(佐伯啓思)反・幸福論(佐伯啓思)続・哲学用語図鑑

西田幾多郎と日本哲学

西田幾多郎は、西洋近代哲学を学ぶとともに、熱心に坐禅の修行にはげんでいたと言われています。

つまり、西洋哲学の思想と日本古来からの思想を合わせることで、「西田哲学」を作りあげました。

西田哲学⇒西洋近代哲学思想+仏教思想
なるほど、皮相上滑り感や真似ではなく、融合させることで独自の哲学ができたんだね
西田幾多郎は知と愛について論じています。
「知と愛は本来同一の精神作用である」
「善の研究」p259
なぜ「知識(知)」と「感情(愛)」のように区別されたのかといえば、心理学者が学問上の便宜のためにつくった抽象概念にすぎないと西田は述べます。
西田幾多郎の説く知
  • 普通の知⇒非人格的対象の知
  • 知(愛を含む)⇒人格的対象の知識

まず普通の知は、人格的対象であっても、非人格的にみる知です。

例えば、目の前の人をデータ的に捉えます。

女性・男性・20代・会社員・・・・とか、データとして一般化できる知だね

次に、愛を含む知は、非人格的対象であっても、人格的にみる知です。

例えば、私の母親、私の数学、私の子ども、というように無私となればなるほど深くなる知(愛)。

子どもを助けようとしてとっさに体が動いたり、数学をやっていたら時間があっという間に過ぎていたり、という経験です。

私がその対象に対して、没頭しているときに自己はなくなっている。
そのものを愛すれば愛するほど、そのときに自己を意識していない。
無我夢中になっているとき
普通の知と知(愛)は境目があいまいなので、包括的に知と表されます。
集中って途切れちゃうよね
学問上でただ勉強する西洋哲学思想は普通の知。
ですが、この知だけだとすれば、真似だと言われても反論できません。
哲学(知を愛する)ではありません。
その一方、無我夢中になっているときの知は、自己と知(愛)が一体化しているので、真似ではなくなります。
西田の哲学は日本での経験に基づいているから、西洋の真似ではない
さらに、当時に重視されていた学歴主義とか主義主義(感情や意志よりも知性・理性の働きに優位を認める立場)の批判につながる新たな視点でもある
西田幾多郎は「純粋経験」という言葉をつくりました。
知(愛)をわかりやすくするためのものが「純粋経験」という言葉だとして捉えると、理解しやすいかも

西田幾太郎の「純粋経験」とは

西洋の近代哲学は主観と客観、精神と物質という対立を前提にしていました。
近代哲学の祖はデカルト。
「我思う、ゆえに我あり」というように、主体(認識するもの)と客体(認識されるもの)に分けて考えたんだね
それに対して西田は、東洋思想(特に禅仏教)では、区別や対立以前の主客身分(しゅきゃくみぶん)の経験を問題にしていると考えました。

主客身分⇒我を忘れて主観(私)と客観(対象)が一体となっている状態

デカルトはすべてを疑って、考えに考えていた時に「考えている自分の意識は疑えない!」とひらめきました。
しかし、ひらめく前(言語化する前)に、考えている状態を体験しています。
西田幾多郎は、デカルトでいえばその考えている(思っている)状態だけが実在していると考えたのです。
  • 何かをボーっと見ているとき、私と対象の区別はない
  • 何かに没頭しているとき、私と対象の区別はない
  • 美しいものに見とれているとき、私と風景の区別はない
  • ふいに良い香りをかいだ時、私と香りの区別はない

というように、この直接的な経験を純粋経験と呼びました。

勉強に集中している状態も、美しいものにボーっとなっている状態も、同じ経験として純粋経験と呼んだ
西洋思想も論理的に取り入れつつ、独自の西田哲学をうちたてていったのです。

善とは

西田幾多郎が純粋経験や主客未分を説いているのは『善の研究』という本の中です。

あなたは主客未分状態を考えたとき、ふと思うかもしれません。

「暇を持て余してボーっとしているときも純粋経験だけど、好きなことに打ち込んでいるときも純粋経験。

これって同じなの?」と。

西田幾多郎は各個人に合ったがあるとしました。

主客未分状態にも高い状態と低い状態があるって考えるといいかも!
自分にとっての最高な主客未分状態が善
善⇒感情・意志・知性の人格を実現すること

例えば、あなたは子どもが獣におそわれているときに足がすくんで動けなかったとします。

そこにヒーローが現れて子どもを助けました。

あなたは「ヒーローが善だ!子どもを助けられなかった私は善ではない」と、思い込むかもしれません。

しかし、西田哲学によれば、個々人にあった善があるのです。

子どもを無心で助けたヒーローの善は、そのヒーローにとっての善。

あなたはあなたの特性を知って、あなたが無我夢中になることをしたときに「あなたの善」が現れるのです。

自分の得意なことを伸ばそう、という論理。
得意と呼ばれるということは、この社会においてそれが求められているということだから善になりうる
つまり、あなたは動けなかったからといって、その出来なささをずっと後悔しなくても良いのです。
知(知性)と愛(感情)、それに意志も入ったものが最高の純粋経験!
個人に最高なものを善と呼んでるから、個々人がそれ(個人の善)を追求できる
知と愛の関係の他に、なぜ善に意志が入っているのかをさらに見ていきます。

西田幾多郎と時代背景

西田幾多郎(1870-1945)の生まれた時代は、戦争の時代です。

  • 1894年日清戦争
  • 1904年日露戦争
  • 1914年第一次世界大戦
  • 1939年第二次世界大戦

西田が亡くなった年に、戦争が終結しています。

人生全体を通して、西田は親しい人との別れが多かったそうです。

幼いころに姉、幼子を病で二人、妻に先立たれるとか、悲しみが多かったと言われている

日本の精神には、どうも人との別れや死の経験から「無常」を知り、「無常」を通して、「私」などをこともなげに翻弄する大きな運命を感じとり、そのまえに自らを消滅させてゆく、という心の動きがあります。
「西田幾多郎」p242

日本の精神で言われている「無常」は、死が「常」だから、生が「無常」になるのだと言います。
(「反・幸福論」p104参照)

つまり、死んでいる状態が普通(日常)ということ。

戦争に加えて、飢饉や大地震があったり、生きていくのが大変な時代だった。
末法思想もそんな時代に流行した
無常観には、生きていること自体に罪悪感を覚えるような心情が入り込むそうです。
悲痛の連続であった西田は、生きるために哲学をしました。

「哲学の『動機』は驚きではなくして深い人生の悲哀でなければならない」
「西田幾太郎」p36

なんで哲学の動機が人生の悲哀なのかな?
そこで出てくるのが先ほどの「意志」です。
  • あなたはなぜ親しい人に先立たれたら悲しいのか
  • あなたはなぜ「ヒーローは善だ!」と思い込んだのか
  • あなたはなぜ悲しいのにお腹が空いているのを感じたのか
これを「意志」だと考えてみます。
自分の意識ではどうしようもできないものです。
例えば、ヒーローのような人助けが出来ないのなら、初めからそれに理想を抱かなければいい。
でも抱いてしまう。
抱いてしまうから悲しい。
なぜ抱いてしまうのか、悲しんでしまうのか、ということを「意志」とした
人は何かになることに憧れます。
個性を発揮しようとして努力します。
そのとき純粋経験をするかもしれません。
けれど、その後には必ず我に返り、今はその純粋経験状態ではないことを自覚します。
没頭状態でないときには、思考が邪魔をして理想とは違うということを自覚させるよね
ある理想を抱いても、その理想にはたどりつけないことに気がつく。
以前の理想が無意識に変わっていることもある
ある像をイメージしたときに、そのイメージとそのものは、ぴったりと一致することはありません。
一致しないことで、必ず自己否定が起こります。
例えば、西田が理想の父親像をイメージしていても、幼子を亡くしてしまって理想ではなくなってしまう。
ずっと悲しんでいるのがこの父親像だとイメージしても、生きるためにお腹がすいて悲しみが継続しない。
人は何かを目指すんだけど、そのものにはなれないという自己否定。
そんな気持ちを西田は論理的に説明していったんだね
この体感的にも感じられる矛盾を、西田は論理的にうちたてていきます。

西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」

純粋経験の状態は、自己がいない状態です。

西田の哲学は、人生の悲痛や苦痛や楽しみに一喜一憂している自己を消し去ってしまう、という様子がみてとれます。

その「自我」を捨てなければならない。

「無」の方へ押しやらなければならない。

そして、「無」こそが本当に「私」がいる場所なのです。

‐純粋経験の方が、根本的実在(真実在)なのであって、「私」などというものは根本的には存在しない、あるのは、ただ様々な経験だけだ、というのです。
「西田幾太郎」p64

なんで「自我」を捨て去らなければいけないのかな?
先ほどの論理から言えば、感情・知性・意志が一体となって、善という最高の純粋経験の状態になります。
その状態には「自我」が邪魔なのです。
純粋経験でないときに、その善状態ではないことを私は自覚しています。
つまり、論理的にも自己否定的になる状態です。
我々の生命は自己の作ったものに毒せられて死に行くのである。
「絶対矛盾的自己同一」p19
例えば、私がある理想をずっとえがいているとする。
スーパーヒーローとか超美人とか!
もしその理想が変化しないとしたら、私は自分が惨めな状態にずっとなっていくだけ
だから、西田哲学では、その理想にも個々人にあったものを設定した!
その理想は自分にとって違う、というように、自己が目指せて流動的なものを設定。
作ったものがある状態は毒です。
人は作られたもの(理想やイメージ)に押しつぶされていきます。
西田幾多郎は、作られたものから作るものへという動きを重視しました。
生きるためです。
自分が押しつぶされないように、作られたものを作るものへと変えていきました。
私たちもどうしようもないとき、その概念を変えることで生きやすくなる。
例えば、仕事時間を削るのは怠けてるのではなくて、自己を守るためだとか。
またそれでも苦しくなる時は、またその設定を作りかえたりする

さらに、西田幾多郎は純粋経験が真実在だとする理論をうちたてるために、「絶対無」という概念をうちたてます。

西田幾多郎の絶対無とは

西田の「絶対無」という概念の登場は、日本哲学の幕をあけることになりました。

抽象的な概念のため、さまざまな哲学者が自分の理論をうちたてたのです。

京都学派と呼ばれる哲学

今回はその一つである、西谷啓治が述べたという一文から「絶対無」にせまってみます。

「眼は眼をみず、火は火を焼かず」と。

眼が眼を見れば眼はほかのものを見ることはできない。

つまり、眼ではなくなる。

だから眼が眼であるのは、根本に「見ない」(不見)があるからである。

すなわち「眼は、眼でないがゆえに眼である」ということになるでしょう。
「西田幾多郎」p211

火の場合も、火はものを焼くという作用があるけれど、火自身は焼かない。

「火は、火でないがゆえに火である」

この論理を私にもあてはめます。

「私は、私でないがゆえに私である」

詳しく述べれば「私は社会的な役割をもっているときは私ではない、けれど、私でなければその役割をできないから私である」となります。

例えば、僕は子どもだけど、その一方で子どもじゃない僕でもある。
僕は子どもじゃない!って言いたくなる時ある。
でも、子どもという属性なくして今の僕ではないということ。
子どもという属性をはがすと、それは僕なの?なんか違うよねってなる
西田哲学では、「私」の否定を通して「私」を生成します。
私自身の自己意識を否定して、外部の役割(例えば、母親・子ども・男・女・先生など)に関わり、ようやく私になっていきます。
否定があるからこそ、私を感じられるという論理です。
それになるために、否定も必要だったという肯定に変わっていく
西田哲学は「無常」(常ではない世)を生きる哲学として、日本的精神が根付いています。
また、この考えから個性を考えてみます。

個性とは

西田幾多郎は私に属する「個性」と「個物」を分けて考えます。

個性が大事、と聞くけど、その個性って実は社会的な役割のこと
  • 個性⇒社会的な役割
  • 個物⇒もの

西田は個性を社会的意識に現れる多様なる変化にすぎない、と述べます。

そして、社会的な役割がない自己はただの「個物」です。
しかし、その個物が実在でもあり、「なにものでもない状態(純粋経験)」です。
「私は日本文化の特色と云うのは……何処までも自分自身を否定して物となる、物となって見、物となって行うと云うにあるのではないかと思う。」
「西田幾多郎」西田幾多郎の言葉の抜粋からp172
「物となって考え、物となって行う」ことが、日本精神の神髄ではないかと本で述べられています。
つまり、純粋経験である没頭している状態(物)が実在。
その状態が私であり、その私は私であって私(個性を持つ私)ではなく、そのような物状態の私でなければ純粋経験は得られないのです。
哲学は論理的(知)でなくてはいけないし、感情的(愛)でなければいけないと西田幾多郎はいう
西田幾多郎と日本哲学についてやりました。
次回は和辻哲郎と倫理学について取り扱います。
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