J哲学

「J哲学」から不自由論を具体例にあてはめて考察。

おはようございます。けうです。

 

日本哲学の最前線」山口尚さんの本をよんでいます。
>>「日本哲学の最前線

 

山口さんが不自由論をテーマに6人の今主流の哲学者を述べています。

その6人をまとめて「J哲学」と呼んでいます。

「J哲学」を簡単に言えば、今の日本で活躍している日本の哲学者が発している哲学のことです。

昔ながらの日本だとか、日本の文化だとか、古風なイメージとは無縁です。

ただ日本人の著者が考えている、今日本でも取りざたされている哲学のことをこの本ではJ哲学と呼んでいます。

その中で1章と2章から、まとめと感想を話したいと思います。

 

1章は國分功一朗さんの中動態について。

2章は青山拓央さんの無自由論について。

この二つです。

 

難しい話を抜きにして、私の具体例に落とし込んだ解釈で語ってみます。

無自由論とは-人に自由意志はない

まず青山さんの説を主軸にして、人の自由意志はないことから無自由なのだということを説いていきます。

例えば、言い争いです。

 

人は現実的に人がいることでトラブルを発症します。

それは、私の考えがあって、あなたの考えがあるからです。

でも、その考えというのはどこから発生してきているのか、というと自分が意識できない領域から発生している、という自由意志のなさがあります。

 

夫婦間で子育てについて話し合ったとしましょう。

 

片方は子どもに微笑みかけて、一緒に遊んで、一緒にゲームをやって、楽しい日常をおくることが子育てだ、と考えたとします。

これはいろいろな制度ができる前。

保育園だとか、学校だとか、子育てでの規則を縛る前にでてくる価値観かもしれません。

そのようなルールができる前、人間のコミュニケーション的に必要なものだとも捉えることができます。

これは子育てをはずれて、人間を遊ぶ生き物だと見たときに、人間観が現れてきます。

人に笑顔や楽しさというのは必要ですね。

もう一方にいきます。

 

もう片方はルールを必要とする価値観に縛られます。

子どもを保育園や学校に行かせるのが規則であり、毎日の制度的な衣食住が整っていればそれで子育てになる。

法律にのっとって虐待はせず、その人の解釈の上での子どもへの心理的安全性を与えている。

子育てという制度はこの制度上にいれば問題はない、と考えているということ。

 

さて、両者の考え方はどちらが劣っていて、どちらが勝っているということは時代の思想を基盤にいれないならば、どちらも正論になってきます。

ある基盤の上にたって考える時に、どちらにも利があるのです。

では、どうして彼らはそんな考え方をするようになってきたのでしょうか。

 

自分でそれを考え出したのか?

いえ、違います。

というのが、國分さんや青山さんの言う自由意志に関わってきます。

人間は自分からそのような考え、自由に意志しているだろう考えを持つことができないのです。

私がその選択をしたきっかけが外部にあるのであり、私はそれを選択している。

本を読んだからかもしれないし、私の性格的な特性がそれを選んだのかもしれない。

では、何を自分とするのか、なんですが、この考えを決定している自己でさえただ一人ではない、ということ。

外部環境から作られた私、内部環境から作られた私の両方がいる。
(ただ内部環境を追求していくと、「私」がなくなるかもしれないということはあります。)

 

 

人は自由意志を持つとき、人との関わりの中でその選択を迫られます。

コミュニケーションがなければ、自由意志というような自分で決めようというような決定がおこらないのです。

そして、コミュニケーションになるという時点で、ある思想の土台の上に自らを立たせます。

その考えの中に立つことで、自ら何か自分の意識しているものとは別なところで無意識的に考え方を選択しています。

ここがポイントで、私は選ばなければいけないのですが、この選ぶという行為はまた無意識的なものに影響を受けている。

そして、無理やり決定したとしても、それは過去の私の思いの断絶になる。

コミュニケーションという土台に立たなければ、私はその思想をその基盤の上にのせることがなかったからです。

それまではただ自由になんとなく思っていたし、ただなんとなく考えていたということ。

その上に自分の思想をのせて、それに値しない思想を断絶したり、無視したり、忘れたりすることを今まではしなかったのだ、ということ。

意志することはそれに合うような形で自分の考えを整えていくことになります。

自由意志の不自由さ

私はなぜ子供達と笑顔で遊ぶことが苦手なのかの理由を言葉で尽くしたとしても、それは外れているのかもしれない。

なぜなら、笑顔というのは自然にでるものだという認識があるからです。

そして、もしその理由がわかったとしても、それは意志しつつ行動しなければ私にはできないし、実は意志することで出来なくなることでもあります。

無意識の時点でできていなかったものを意識したとして、それは自然にできることではないからです。

例えば、私は人をいじめたくないと思っているのに無理やりいじめることは難しいとか、私は恋をしていないのに無理やり恋するのは難しいといった例です。

 

それを私には難しく思われるという無意識を乗り越えて、意識的になにかをやるという大変さがそこには含まれているということ。

ただ、自分で笑顔になるという選択の他に、普通に会話していたら笑顔になっていたということはあり得るのですが、それだったら価値観の違いを話し合う前にできていたことになります。

そのコミュニケーションは意識してもできない、自由意志ではどうしようもない、という点に人間の不自由さがでてきます。

 

おそらく、青山さんの不自由論はこの人間の徹底的な不自由さをといているのだと私は解釈しました。

人が現れることで人は自由を意識する。

意識するのですが、その自由はなかった、と。

そして、人が自由だと思うものが特に無意識によってなされていることだと論じている。

不自由の中で出来る責任

そして、この論を受けて國分さんの中動態にうつります。

國分さんはこの選択する前、思考が私にある状態を考えています。

まだ決定する前の段階ですね。

では、思慮することで何が起こるのかと言えば、私にとっての反省とか責任とかが生じてくるのだと言います。

私が思慮することによって、子育ての違いが私の頭に入ってきます。

私はそれらを考え、もしそこに起こしてしまった行動があるとするならば、その責任をそこで引き受けます。

決断によって責任を引き受けるのではなくて、私の中にその考え方をとどめることによって、私がその責任を取りたいと思えるように仕向けるというもの。

私はそのような思慮する人になりたいとか、立派な人になりたいだとか、そのなりたいものに向けての責任を持ちたいものにする、というもの。

私が自分でなりたい人を決定したり、自分の中でなりたい人があることを自覚します。

 

國分さんが中動態を実践的なものにするとき、例えば、犯罪者に両局面の思考を持たせます。

あなたがやってしまって相手が苦しんでいる事。

あなたがやらされてしまって、自分が苦しんでいる事。

両方を自分で受け入れることによって、思慮的な反省を促せるのではないかという実践的な哲学を國分さんは説いています。

かっとなってしてしまっことに相手は傷つけられ、かっとなって無意識にしてしまったことに自分も傷つけられる。

そして、その両面はすべての人にあるというもの。

 

哲学を日常におとしこむとすれば、私が何かを悩んでいる。

なぜ悩むのかと言えば、多くはコミュニケーションにおいて人と意見が合わないから。

人の悩みの多くは人間関係によるものという統計があるそうです。

その意見が合わないのはどうしてなのか、という思慮ができます。

そして、思慮することでどうしても無意識的に支配を受けているところを発見します。

なぜその支配を受けているのかの考察はできます。

考察をして、またそれに対して責任は引き受けることができるのだということ。

ただし、その無意識にたいしてのアプローチはまた無意識に左右されていくので、自分の思考の域をでることは難しいか、他の議論を必要とするのかもしれません。

実践に移すときは哲学から心理学とか医療になるのかな、ということを私は考えています。

 

この2章を読んで私が具体例に落とし込んだので、また違った解釈がでているのかもしれません。

私は國分さんの本はよく読んでいるのですが、青山さんの本を読んだことがなかったので読んでみたいな、と思いました。

では、お聞きいただいてありがとうございました。

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