おはようございます。けうです。
「Tレビットマーケティング論」の一章、マーケティング近視眼を読みました。
私は副業に取り組んでいるので、その基礎となる知識を得たいなと思ったからです。
私が今まで勘違いしていた点を強調している文章がこちらの一文。
「販売とマーケティングは違う。―
販売では、顧客とはどこか外側にいる見知らぬ人であり、うまい手を使えば、その小銭を吐き出させることができる相手にすぎない。」
マーケティングは、顧客ニーズを発見し、創造し、触発し、満足させるといった一連の努力こそ事業活動のすべてである。
販売は売り手のニーズに、マーケティングは買い手のニーズに重点が置かれている。
と、これだけ違うみたいです。
本で説かれてる他にこれは覚えておきたいことをさらに述べていきますね。
①創造的破壊
自分は実は存在しない方がいいのではないかと考える。
例えば、ガソリンスタンドはガソリンがなくなったから仕方がなくいくのであって、実際はないほうが顧客にとっていい。
そのための製品を作っていく。
②消費者の嗜好の変化を事実が起こる前に発見するのが、消費者調査の目的。
消費者の意見を一般化しない、ということ。
③代替品が現れない製品はない
遺言状で、市電事業にだけ投資するようにと書いた百万長者がいたらしい。
でも、時代が移り変わり新しいものがでてくると、そうはいかない。
④成長産業など存在しない
いつも代替品は登場するという3の考えを進めるとこうなります。
⑤事業衰退の原因は経営の失敗にある。
例えば、映画会社が衰退したケースを語る。
映画と言う製品は、他のものでは代替などできない特殊な製品だと思い込んでしまうと、その外側にある消費者ニーズに目が向けられなくなって近視眼になってしまう。
映画産業をエンターテイメント産業と捉えればよかったのに、映画を製作する産業だと考えてしまったからである。
ただ一つの論文なんですけど、私に足りない発想がこれだけありました。
それを記述的に抜粋してみました。
私は今まで哲学を勉強してきました。
その中では人にとって変わらないものは何か、を考えることが多かったんです。
「真理」とはなにか。というような。
でも、マーケティングは変わるものは何かを考えるみたいですね。
ここに発想の転換を私も強いられるんだろうなと思います。
具体例として、私は消費者ニーズって同じようなものだと思い込んでいました。
本にある、経営者が失敗する思考です。
消費者の感想をそこまで重要視していなかったんですよね。
なぜかというと、同じようなことを言うに違いないからという発想です。
例えば、新製品があったとしてその感想を求めたとします。
私は感想を求めるんですけど、その感想の答えを想定してしまっていたんですよね。
きっとおいしいっていうだろう。
きっとデザインがいいっていうだろう。
またはちょっとここが良くないからそこをついてくるかもしれない、と言ったように。
だから、私は議論の重要性や会話の重要性をそこまで考えていなかったところがあります。
人間一般という枠組みで必要な商品という考え方ですね。
でも、マーケティングは創造的破壊を必要とするみたいです。
その当たり前を疑っていきます。
そして、そのように言っていて、哲学にも二つの道はあるんですよ。
まず一つが土台はこうだと決めて、それについて「真理」を求めていく点が1つ。
誰誰の哲学といったものがそれにあたります。
これは哲学を勉強する立場です。
自分が哲学をしているわけではなくて、哲学を学んでいる立ち場といったほうがいいかもしれません。
もう一つは自分が哲学をする立場。
これは土台を疑ってかかるんですよね。
こちらの哲学は創造的破壊をします。
いくら有名な哲学理論があったとしても、実は元を疑うことでそれって崩壊してしまうんですよ。
例えば、会話の必要性をといた哲学でその全体を築いたとすれば、その会話が必要かというそのもの自体を疑うことで、その全体は崩れる、といったような。
人はその二つをいったりきたりはしていますよね。
学んで、身につけたら、それを疑っていく、というような。
哲学的にはその二つがくっついています。
だから、マーケティング哲学がそこにはあるんだろうなって思いました。
マーケティングの元祖の一人がこのT・レビットさんだと言われています。
1925年生まれの方で、年代的には近い事なんだなと思いました。
この発想はいまだに通じますよね。
そこには古くからの学びがある。
でも、その学びの中にすでに創造的破壊はとりあげている。
矛盾しているようでいて、きっといつも創造的破壊をすると思うので、矛盾ではないんですよね。
そして、副業をやる私に必要なことは、顧客一人一人の意見を真摯に考えるということ。
自分が思っている思い込みと別なことを見つける。
この人が伝えたいことはほんとに私と同じなのか。
違うことを言っているのではないのか、と疑うことなのかな、と思いました。
宣伝が嫌われているのなら、その嫌われていることをなくすにはどうしたらいいのか。
私の存在がなくなるとしたら、他にどんな案が考えられるか。
提供したい価値があったとして、その手段に固執していないか。
でも、元の教科書の意味をきちんとつかめているか。
なんて疑問がどんどん浮かんできますよね。
哲学的に元を疑っていく。
かつ、疑ったとしてもその土台を顧客に置く。
それがマーケティングなんだろうな、と。
何かの学問というのは、一つの土台があるんです。
マーケティングを学問とみなすかどうかはいろんな意見があるらしいんですけど、学問だとみなした場合は顧客を基礎におくということですよね。
その土台から構築していく。
なので、T・レビットさんの文章には本質を突く部分がおおくて、変わらずに存在する格言というものがあるんだろうなって思いました。
今日はマーケティングの近視眼という論文を考察してみました。
最後までお聞きいただいてありがとうございました。