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磯崎憲一郎「作家、作品に先行する、小説の歴史」-利他との関係

おはようございます。けうです。

 

「利他とは何か」を読み終えました。

今日は最終章、磯崎憲一郎さんの「作家、作品に先行する、小説の歴史」という5章を紹介していきます。

 

磯崎さんは言います。

「小説の歴史や流れのようなものがまず先にあって、そこにたまたま一人の作家がデビューし、作品を書き始める、そしてある時期が来たら舞台からは去って、次の世代の作家にバトンを繋いでいくように思えたのです。
まず作家ありき、作品ありきではなく、先行して存在する小説の歴史や系譜の中に、後から作家が入り込む、もしくは投げ込まれる」

このように小説を紹介していました。

そして、このような本人が思っていない歴史の流れのようなものが、利他という問題と関わっているのではないか、と語るのです。

小説の歴史の流れとは

磯崎さんは小説の歴史の流れで小説を紹介していました。

小説を解説していくと、本人は意識していないところで、評論家が言うようなその時代にあったマジック・リアリズムが書かれていた、ということを磯崎さんは述べます。

「楡家の人々」という北杜夫さんの作品では立派な病院をまずは描写しています。

「あきらかに幻の宮殿」「地上の脅威」「異国の風景さながらにそそりたっていた」など。

けれど、実際に病院にいって描写をすると、天才的な見掛け倒しの精神があって、堂々と人目を奪っていただけだったと述べられています。

立派なのは外見だけで、それもよく見ると中身は張りぼてだった、と。

この作品が好きな人は、日常でどんなにめちゃくちゃなことが起こっても、この世の中全体が存続し続けることだけは肯定する、という世界観を持つといいます。

何か利他を意識するというか、不思議な感覚があります。

小説を通して、その歴史にあったものが自然と書かれている、そしてそれを受け取った人がいるという印象をまずは受けました。

 

さらにもう一つ作品を紹介します。

小島信夫の「馬」-「気味悪い」とは

さらに、三島由紀夫が「気味悪い」と表現していた小島信夫さんの「馬」という作品の紹介をしていました。

磯崎さんや他の作家さんも同じく「気味悪い」と思った小説のようなのです。

あらすじはこうです。

 

主人公はある日家の前に木材が積まれているのを発見します。

妻のトキ子に聞くと、あなたが立ててあなたが住むのよ、と言います。

主人公は深く聞くこともせずに建物が立っていくのに任せます。

毎日電車でその立てている風景を主人公は見ていました。

その建物が「今日も立っているか、まだ立っているか」。

そんなふうに見ながら通勤していると、ふと隣にトキ子がいることに気がつきます。

その主人公の様子をトキ子はなじるらしいのです。

主人公は家の建築がどんどん進んでいくことに戸惑っているのですが、家は出来上がっていきます。

そして出来上がった家に対してトキ子は馬小屋にしましょう、と言います。

結局は、何が起こっているのかわからないまま、主人公は精神科病院に入れられてしまう。

それでも、病院から抜け出して新しい家の主人である馬を追い出そうとして馬に飛び乗るのですが、すぐに馬に振り落とされてしまう。

そこへトキ子がやってきて、夫への愛の言葉をささやく、という小説らしいのです。

 

この作品から磯崎さんは夢の中で感じる無力感が描きだされているといいます。

そして、この作品はカフカの「変身」に通じるものがある、と。

夢の中の無力感、あるいは小説の全能感に通じている、と。

 

一部、村上春樹さんの書評を抜粋します。

「別の言い方をすればその『変さ』は、小説的な装置というよりも、小島信夫という作家個人の中に本来的に普遍的に、一種の源泉として内在しているものではあるかまいか、そのように感じるわけです。」

 

そして、磯崎さんも述べます。

「書いているうちに、どんどん予期せぬ流れが作られていって、違う方向に行ってしまった。-書き手はその獣道へ入り込む誘惑に抗えない。しかし、そういう冒険をしながら書き上げた作品にこそ、大きな力が宿っている気がしてならないのです。」

 

利他と小説

この磯崎さんの章では、利他について触れられているのは冒頭について紹介した、この小説の無意識的な流れが利他と関わっているのではないかという示唆だけです。

後は終始、作品の紹介に触れられていました。

 

読み終わった後、馬という作品の「気味悪さ」に触れた私は、それと結びつけて「利他」ってなんだろうとまた考えさせられました。

今まで5章を通して無意識である「利他」が良いと私は紹介してきました。

意識的だと「利他」にならない、と。

それを今度は私が「利他」を受けさせられた感じがしました。

この「気味悪さ」という感覚を味わうと言う「利他」。

おそらく、無意識が伝えようとしている利他があるとすれば、受け手にとってもただの「気味悪さ」という意識的なものがある。

この感じを受け取ることが「利他」。

私にとって何に役立つかもわからない「利」。

私は磯崎さんからの紹介に「利他」をうけたことになるのではないかと考えました。

3章の若松さんの解釈でいけば、「他」というのは私と他という二つが二つのまま一つになったようなもの。

だから、意識的には「気味悪い」、もう一人的には何かを受け取っているということになります。

それが「利」されている。

利は何か良いモノという解釈でした。

 

ここでは、小説の紹介によって私が「利他」を受けていることが浮かび上がってきたのですが、普段私たちが本を読むときには「利他」を感じません。

ただ言われて初めてこれが「利他」だったのだ、と気がつくことしかできなかったのです。

ということは、私たちは普段から「利他」をたくさん受けているのかもしれない。

私は本を読むたびにも、「利他」を受けている。

そして、ただ私も「利他」をしようとすると「利他」ではなくなってしまうので、私の「利他」もそのようなものであるんだろうな、と。

 

ただの無意識だけではなくて、「他」という私が少し気がつく。

私がなんとなく良いものがそこにあると感じているような何か。

そんなものが「利他」なのかな、と感じていました。

 

さっき走りに行こうと思って外を見たら雨でした。

それでもと思って傘をさして散歩しました。

すると、傘の一部が透明になっている。

目の前が見える。

こういう私が気がつくことでものに内在しているような利他に気がつくことになるのかな、とも思いました。

私は気がつかないうちにたくさんの利他をうけているのかもしれない、と。

そして、小学一年生の息子を学校に送り出したとき、息子の傘にも透明な部分があることに私は気がつきました。

けれど、息子は気がついていないようで、そのまま進みます。

隣に透明な部分がない傘を差した女の子が通っていくのを見て、私は息子に声をかけるのをやめました。

意識的に教えることは利他ではない、というのは、息子にとって今は必要ないのかな、と。

 

では、お聞きいただいてありがとうございました。

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