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中島岳志の「利他はどこからやってくるのか」まとめと感想

おはようございます。けうです。

 

昨日に引き続き、利他とは何かを考察していきたいと思います。

参考文献「利他とは何か」

 

今日は2章中島岳志さんの「利他はどこからやってくるのか」について取り扱いたいと思います。

 

中島さんの章を読んで思った事。

以前ニコニコ動画でも同じ話題を取り上げていました。

なので、この章は総復習といったまとめになっていて、短い文章に利他を考える要素が詰まっていると感じました。

中島さんの結論はこうです。

利他はどこからやってくるのか

「利他はどこからやってくるのかという問いに対して、利他は私たちのなかにあるものではない、利他を所有することはできない、常に不確かな未来によって規定されるものであるというのが、ここまでの議論を通じてお伝えしたかったことです。」

と、まとめとして述べられていました。

昨日紹介した伊藤さんに引き続き、ここでも不確かさがキーワードになります。

安心と信頼を分けたときに、信頼には不確実性が付きまとっている。

けれど、この不確実性を意識していない利他は、押し付けであり、暴力になる場合もある、と。

 

では、なぜ不確かさが重要になってくるのかを見ていきます。

利他には不確かさが必要な理由

中島さんは冒頭で志賀直哉の「小僧の神様」という小説を紹介します。

大枠を説明すると、ある貧乏な小僧がどうしてもマグロのお寿司が食べたくなってしまう。

お店に入って食べようとするけれど、マグロのお寿司を一つ買うお金も小僧はもっていない。

手にお寿司を掴むものの、払えないのでその手をひっこめて帰ってしまう。

それを見ていたのが貴族院議員のAさん。

彼はそれを不憫に思うけれど、その場で声がかけられなかった。

数日たって小僧に出会う。

Aさんは小僧にお寿司を振舞ってあげることにする。

小僧はとてもよろこび、Aさんを神様のようだと思う。

ところが、Aさんの心に「変に寂しい、いやな気持」が生じたと言う。

 

「もしかしたら、自分のしたことが善事だという変な意識があって、それを本統の心から批判され、裏切られ、嘲られているのが、こうした寂しい感じで感ぜられるのかしら?」

 

このような物語で利他の複雑さを説明していました。

なぜいやな気持になったのかというと、中島さんは利他には支配と絡まってくる問題が含まれて来ると述べます。

Aさんは利他の心からお寿司を小僧に振舞いますが、上下関係で言えば小僧はAさんを神様だと思っています。

この支配や上下関係と言う側面に嫌な気持ちを抱くのではないかと推測しているのです。

ピティーとコンパッションを分ける

中島さんはピティー(哀れみ)とコンパッション(哀れみ)を分けて解説します。

 

・ピティーでの利他

「哀れみによって利他的な行為をすると、その対象に対して一種の支配的な立場が生まれてしまう」

Aさんのやった利他的行為です。

 

・コンパッションでの利他

コンパッションは慈愛という要素がさらに強い哀れみを表す言葉。

尊厳とセットで使われます。

 

コンパッションが本当の利他だと語ります。

 

でも、分けたのはいいけれど私たちはコンパッションでの利他を意識的にできるのだろうか?という問いが立ちます。

結論で言えば、できません。

意識を伴ったコンパッションはピティーになってしまうからです。

これが利他的行動だと思って意識したとたんに、それは利他ではなくなってしまうのです。

 

どういうことかというと、例えば子どもをとっさに助けることを想像してみて下さい。

私たちは子どもが窓から落ちそうで危ない!と思ったときに自動的に子どもを助けようとします。

このとっさの行動は思慮せずに行われることが多いのです。

けれど、この行動に意識が入ったとしましょう。

「こどもが危ないから助けよう」

このような意識です。

 

すると、その時点で私たちはこの行為をする理由を考えてしまいます。

・子どもを助けないと後々みんなから非難されてしまうだろう。

・私が嫌な気持ちにならないために助けるのだ。

このように自分の利点になることを考え出してしまうのです。

 

哲学者ショーペンハウアーや哲学者ルソーは言います。

意識することは自己愛になってしまう、と。

その通りで、意識してその理由を考えるとどうしても自己弁明がはいってしまうのです。

すると、私たちはその利他に対して見返りを考えてしまいます。

本でも親鸞の言葉を例に中島さんもこう述べます。

「誰かを助けたいという意思を持って行うことは、尊いけれど不完全な慈悲であり、常に不純な自己愛に変容することがある」

 

ただしここで説くような意識が入り込まなかった場合。

ただオートマティカル(機械的)に助けた場合に、利他が成立するのだと中島さんは語ります。

これが親鸞も説くような、見返りを求めない一方的な慈悲の心が利他なのだ、と。

そして結論として、利他は私たちのなかにはない、と述べます。

 

利他は自動的なもの、止まらないもの、仕方のないもの、どうしようもないもの。

「不可抗力としてやってくる、人間の意志の外部によって成立している力。」

これが利他なのだと語ります。

利他はどこからやってくるのか‐まとめ

私たちは意図的に他人のために何かやろうというような利他主義に立つことは、利他にならないということです。

なので、利他主義という言葉は変な言葉です。

主義というのは、継続的にもっている思想上の立場です。

利他という側面を意識すると、中島さんのいう利他にはならないのです。

 

ピティーとコンパッションを分けましたが、自意識のあるところではコンパッションは成立しないことになります。

私たちはなんでも意識的に行動しようとしていますけど、昔は自意識という言葉がありませんでした。

今はなぜか私たちが意識しないことによって行動させられていると言うことが支配的な側面や悪い事として捉えられがちです。

それは、「人間は自由意志なんてない。ただ動かされているだけなんだ」とよく聞くような側面です。

しかし、この利点に目を向けます。

ただ動かされたときに、利他が働くのです。

私たちは自意識を良いものだと意識しすぎていて、自分の意識の及ばずにやったことを否定的に見るようになってしまったけれど、逆の面があるということです。

 

では、お聞きいただいてありがとうございました。

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