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法哲学から責任を考える。「どうして人を殺してはいけないのか」

おはようございます。けうです。

 

危ない法哲学、住吉雅美(すみよしまさみ)さんの本を読みました。

昨日はこの本から功利主義を紹介したのですが、今日は法の出来上がり方と責任について考えたことを述べたいと思います。

法の成り立ち

法がいつからできたのか。

日本で言うと戦後になります。

では、なぜ法に従わなければいけないのか。

いろいろな理由があるそうですが、根本規範というのが一番に働いているそうです。

例えば、子どもが親の命令を疑問視したとします。

 

親が子どもに学校へ行けと命令する。

すると子どもがなぜ親の言うことを聞かないといけないのかと問う。

親は「神様が、親の言うことを聞かなければならないと命じているからだよ」と。

すると子どもは、どうして神様の命令に従わないといけないの?と疑問にする。

最終的な親の答え。

「神を信じる者ならば、神の命令にしたがわなければならないからだよ」

 

根本規範というのは、何かを信じているから従う

だから、法律はその内容が正しいか正しくないかには関係していないと言います。

 

例えば、旧優生保護法の撤廃だとか、現代に合わないと感じられる法は撤廃されるということ。

人を殺してはなぜいけなのか、と同じように、法にも答えがないということ。

法の答えを私たちが作るということ。

法の起源は暴力である、ということも言われているそうです。

意味付けが暴力と言われているのと似たところがありますね。

 

法から責任を考える

私は最近、責任について考えることがあります。

人の自由意志を否定するのならば、その責任はどこにあるのか。

責任が発生するのは、自分で選択したときですよね。

でも、自由意志を否定した場合に、その責任はどこにあるのか明確に言えない。

 

例えば、人を殺してしまった。

それに対して責任から攻められる。

すると、その人は逆にそれを反省しなくなったそうです。

でも、逆に環境によってそれをやらされてしまったのだろうと言われる。

すると、その人はその罪を反省するようになる。

そんな逆説的なことが起こると言います。

他から言うことで、責任を感じるようになる。

 

責任によって反省するのではなく、やったこと自体を認めることによって反省するという過程です。

私の中にその行為自体を考えさせるものがずっととどまっている状態ですね。

殺された側はずっと罪の意識を感じてもらう方が目的にかなっています。

 

責任問題の激化とは

法ができたから責任問題が激化するということがあります。

 

法哲学では、ある仲良しの二組の夫婦がいて、一方が片方の親に子どもを預けました。

ところが預けているときに、預けた子どもが死んでしまった。

その責任を追及するために預けた夫婦は裁判を起こしたといいます。

そして、賠償金を勝ち取ったと言いますが、その後に周りの人からの批判がすごかったそうです。

好意で預かってくれたのに、悪気がなかったのに、お金をとるなんてどういうことだ!と。

それを受けて、その夫婦が裁判を取りやめます。

すると、今度は預けられた夫婦のほうに非難が集中したそうです。

預かっている間にきちんと子どもをみられないなんてひどい!と。

 

とくに悪意があったわけではないのに、この夫婦間の関係は悪くなってしまいました。

責任というものが外部からできて、それに対して外部の人たちが意見を持つ。

その構造がよく見えます。

 

以前、ネットが炎上するのは自分が悪いことをしたと認めた時も原因の一つだと聞いたことがあります。

人は善悪の基準を明確に持っているわけではないけれど、それを一方が認めたならばそれはその人にとって悪になり、周りにとっても悪い事だという思いこみが生じます。

「どうして人を殺してはいけないのか」を法から考える

そう考えていくと、そもそもどうして人を殺してはいけないのか。

この問い自体が成立した背景に法があるのかもしれないですよね。

この問いを出した人は法で殺人が裁かれているのを知っているし、いけないことだとわかっているから問いにしている。

この問題は自分に説いてもいいというわけです。

どうして自分はこの問いをいけないと思っているのか。

それは法によるのか。

それとも人が生まれながらに持っている性質(アプリオリ)のせいなのか。

 

文化をたどっていくと、殺人が許容されている文化もあるんですよね。

だから、もしかすると私がそこに生まれていれば、どうして人を殺してはいけないのかという問いが出なかったのかもしれない。

当たり前にあるからです。

日本で言うと戦国時代などはその問いがでなかったのかもしれません。

 

でも、その当たり前にあるところから、日本に来たとします。

そして、法律を知ったとするとまた「どうして人を殺してはいけないのか」という問いがでてきますが、今回は出所が正確です。

法律を知ったからその問いがでてきたということ。

これは構造主義的な考え方ですね。

 

私たちは監獄に入れられているといいますが、その一つが規律とかルールとか法です。

哲学はどうしてもその根本に目が行きがちなんですけど、でも、私はその法が前提となって生活をしています。

それなのに、私は法に詳しくないな、と思いました。

人間の本質が自由だと仮定する。

でも、何かに縛られている。

その一つが法。

となれば、もっと縛られている法を勉強したほうがいいのかもしれない。

そんなことを思うようにもなってきています。

 

もちろん、法を学んで、その上でそれを哲学することは今の時代にあった住みよいルールを作ることにもなってくるのではないかと思います。

 

では、今日もお聞きいただいてありがとうございました。

 

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