「現代に生きる人間の倫理」
第5節「人間への新たな問い」
5.ハーバーマスと対話的理性
フランクフルト学派⇒ヨーロッパ文明をさまざまな角度から鋭く批判する思想家の集団。
特にファシズムやナチズムにいたった「新たな野蛮状態」がなぜうみだされたのか考察した。
- 生活世界(日常世界)⇒私たちが普通に生活している、発言の機会が平等に与えられた世界
コミュニケーションによる合意のある世界 - 生活世界の植民地化⇒経済システムが生活世界の合意よりも優先される。
人格よりも経済システムでの身分が優先されて、コミュニケーションがなくなる
- 道具的理性⇒理性を自然や人間を支配するための道具にすぎないと考える
- 対話的理性⇒お互いの合意に達する対話のための理性
- ハーバーマスとフランクフルト学派
- ハーバーマスと対話的理性
参考文献 「ハーバーマス」(小牧治・村上隆夫)、「フランクフルト学派」(細見和之)、「〈対話〉のない社会」(中島義道)、「社会学史」(大澤真幸)、「社会学用語図鑑」(田中正人、香月孝史)
ハーバーマスとフランクフルト学派
ハーバーマス(1929-)がフランクフルト学派第一世代と異なる点は、彼の父親はナチスの支持者だったことです。
彼が子どものときには、ヒトラー・ユーゲント(ドイツの青少年組織)に所属していました。
そのこと自体はドイツ人の少年としてごく普通なことだったのです。
大戦が終わったときハーバーマスは16歳。
「われわれ自身の歴史が突然に光のなかに浸され、その光はすべての本質的な側面を衝撃的なかたちで別様に見せた。
自分がそのなかで生きてきたものが政治的に犯罪的な体制であったということが、突然分かった。
そのことを私は決して想像してみたことがなかった。」
(ハーバーマスp12ハーバーマスの回想)
ドイツ人はまるで健忘症にかかったかのようだったとハーバーマスは語ります。
戦後、ヒトラーを熱烈に支持していた人々はどこかに消え、ナチス時代のことは語られなくなったそうです。
多くの人々はトラウマを負った
そして西ドイツにおいてナチス時代との決定的な断絶が起こらなかったことに対する失望と怒りが、ハーバーマスのその後の活動の政治的な方向を決定することになった。
(ハーバーマスp17)
こうしてハーバーマスはフランクフルト学派の第二世代をになうことになりました。
フランクフルト学派自体が自称ではなく他称
フランクフルト学派
ユダヤ系のドイツ人にとって、ホロコースト(大量虐殺)の記憶はいつまでも残っていました。
なので、第一世代のホルクハイマーやアドルノは西ドイツ(ソ連支持)をいつも警戒していたのです。
かつフランクフルト学派はマルクスの哲学をベースにもしていたので、保護を受けているアメリカにそれを指摘されると危うい立場にいました。
(マルクス主義はソ連が支持する社会主義のベースにもなっていた)
しかし、ハーバーマスはマルクス主義思想について公然と論じました。
彼は対話の人でもあり、さまざまな人と討議(おたがいの主張の妥当性を吟味しあう)した
ハーバーマスの運動
「…ドイツにおいてこそ我々は、ドイツ人の手で殺された人々への苦悩への追憶を…目覚めさせておく義務がある」と彼は主張する。
そして彼によれば、アウシュビッツ以後のドイツ人は、自国民が陥った道徳的破局を見据え続けることを通してしか、伝統をわがものとすることはできないのである。
(ハーバーマスp67)
ハーバーマスの活動や学生運動の成果は、1969年に成立した政権に影響を与えています。
ナチスによる戦争と虐殺の責任に正面から向き合おうとする努力が、この政権のもとで行われました。
ナチズムを背景に、このことが哲学的にも大きな意味を持っていく
- アカデミックな正統的研究者
- 鋭敏な社会時評価・批評家
- 論争相手から必ず何ごとかをくみ取ろうとする果敢な論争家
(「フランクフルト学派」参照)
彼の論文は多く、社会学や哲学分野の多岐にまでわたります。
把握しきれなかったので、今回は教科書で取り上げられている対話的理性に焦点を当てて紹介していきます。
ハーバーマスと対話的理性
(社会学用語図鑑p182参照)
ただし、顔が見えないから公共的な討論の場とは言えないという見解がある
ハーバーマスと真理
「未完のプロジェクト」とは理想的な公共圏を確立することが目的です。
ここで、フランクフルト学派第一世代との違いが浮かび上がります。
アドルノの有名な言葉。
「生それ自体が偽りであるとき、正しい生などありえない」
‐つまり、社会全体が間違っているなかで、個人が正しい生き方を選択することなど不可能だ、ということです。
(フランクフルト学派p179)
ハーバーマスはアドルノの「矛盾を矛盾として捉える」という事は評価しました。
しかし、真理に対しては批判。
近代において、理性の道具化だけが進展したのではなく、対話的理性(コミュニケーション的理性)も発展してきたのだとハーバーマスは考えます。
その発展において、社会全体が間違っていたとしても正義にかなった公共圏は目指していけると考えるのです。
ハーバーマスと合理化された生活世界
ハーバーマスは生活世界が合理化されることによって、生活世界のコミュニケーションそれ自体が「合理化」されることを積極的に肯定しました。
- 客観的世界⇒世界の客観的事実に関わる言明、「真理性」
- 道徳的世界⇒こうすべきだという倫理的・道徳的世界に関わる言明、「正当性」
- 主観的世界⇒自分の好悪や感情に関わる審美的な言明、「誠実性」
それぞれが妥当性の基準として設定されるとハーバーマスは考えます。
例えば、「ナチスは「良いこと」もしたのか?」という本では、歴史的事実をめぐる問題では〈事実〉〈解釈〉〈意見〉の三層に分けて検討すると良いと述べていました。(p8)
歴史的にホロコーストがあった。
では、なぜホロコーストがあり、そこでの正当性はどのようなものがあったのか。
私はどう思うのだろうか。
相手はどう思うのだろうか。
歴史には切り取られてきたという事実があり、その妥当性を検討するには少なくとも3つの領域が必要なのです。
一言で伝えられるものは本三冊でも伝えられるし、拡張された内容にはその3つの領域が入ってくる
いずれにしろ、愛情にしろ、友情にしろ、私たちが積極的に価値と考えているもの―それらはまた、あらゆる専門科学者の伝記が否定していないものです―は、生活世界のなかにしかありえません。それらの価値をシステムによる植民地化から守ってゆくこと。すでに三十年以上前に提示されたハーバーマスのこのアイディアは、私にはいまも基本的に有効な気がします。
(フランクフルト学派p188)
ヤスパース(1883-1969)も哲学は意義を求めるものだと話していた
ハーバーマスの思想
ハーバーマスは討義の人でした。
ハイデガーの批評をして有名にもなれば、社会学者ルーマンと討論をして彼を有名にしたりもしました。
ハーバーマスの思想の中で、印象に残った部分を紹介します。
ハーバーマスによれば、「飢餓と苦労からの解放は隷属と屈従からの解放と必ずしも一致はしない」のである。
(ハーバーマスp98)
ハーバーマスは道具的理性が飢餓と苦労からの解放をさせてくれるものだとしても、隷属と屈従とが一致するわけではないと考えます。
そして、学生運動が民主主義を深化させるような合理化を行うのではないか、と考えていました。(学生反乱は挫折)
また解放された世界を想定し、そこにおいて万人が万人と自由に対話することによって合意に達することのできる社会を想定したのです。
なぜその社会を目指したのか。
‐彼によれば、正当性要求を含めて一般に妥当性要求が満たされぬままに行なわれるコミュニケーション的行為は、必ずや個人の人格構造に破壊的影響を及ぼし、その生活世界を荒廃させて狂気や孤独や死に到る精神病理的現象をもたらすのである。
(ハーバーマスp143)
人には妥当性要求という欲望があり、「理性とは討論そのもの」(ハーバーマスp148)
ハーバーマスの思想を見てきました。
対話的理性と日本文化
- 日本では、公共の場で個人を特定して評価すること、特に批判することを嫌う
(みんなの前で個人を叱ることは悪いこととされている) - 日本では「和の精神」がより尊重され、個人の意見は尊重されない
- 公共空間において「お上」が一方的に不特定多数の者に対してメッセージを送る
(例:きたときよりも美しく、思いやりを大事になどの看板や放送) - 日本人は「お上」の言葉に疑問をもたないように、みずからを鍛えあげる
つまり、日本文化は個人よりも「和」や「お上」が尊重される風土なのです。
例えば、西洋でも日本でもルールを守らない人は同じようにいますが、そのルールの破り方に違いがあると述べられます。
西洋は個人がルールを破る。
その一方、日本人はみんながルールを破っているから、その破っている方のルールに従うという違いがあるそうです。
- 西洋近代型の状況倫理⇒個人がみずから自己決定し自己責任をもつという原理に貫かれている
- 日本型の状況倫理⇒個人で判断して動くのではなく、周りの人々をよく観察して、周りの人々のしているようにルールを変形する
(〈対話〉のない社会p89)
- 言葉の内実よりも言葉を投げあう雰囲気の中で、漠然とかつ微妙に互いの「人間性」を理解し合う
- 「会話」を操る作法は、日本人の美意識の基本にもなっている
- 言葉の裏を了解するコミュニケーションが日本的会話には含まれている
(あうんの呼吸、さっする、ググるなど) - 「思いやり」を尊重して真実を語らない
- 各個人が自分固有の実感・体験・信条・価値観にもとづいて何ごとかを語ること
- 真理を求めるという共通了解をもった個人と個人とが、対等の立場でただ「言葉」という武器だけを用いて戦う
- 「相手に勝つ」のではなく、「新しい展開」を求めてゆく
- あくまでも一対一の関係であること
- 相手との違い(小さなものでも)を大切にして、それを発展させること
私は祖国を現在の欧米の一国(訴訟が多い社会)のように変革したいわけでは毛頭ない。私は、言葉を、〈対話〉を圧殺するこの国の文化にあと数パーセント西洋的な言語観を採用すれば、もっと風通しのよい社会が、弱者が泣き寝入りすることのない社会が、個人が自律しみずからの責任を引き受ける社会が実現するのになあ、と思うだけなのだ。しかし、それが至難の業であることも知っている。だからこそ、私は声を大いにして、わが同胞よ、もう少し言葉を信じるように、〈対話〉を信じるように、〈対話〉を尊重するように、と叫んでいるのである。
(〈対話〉のない社会p203)