ハーバーマス

ハーバーマスと対話的理性|高校倫理1章5節5

このブログの目的は、倫理を身近なものにすることです。
(高校倫理 新訂版 平成29年検定済み 実教出版株式会社)を教科書としてベースにしています。
今回は
高校倫理第1章
「現代に生きる人間の倫理」
第5節「人間への新たな問い」
5.ハーバーマスと対話的理性
を扱っていきます。
前回は「理性の働きへの反省」として、フランクフルト学派第一世代と「啓蒙の弁証法」を見てきました。

フランクフルト学派⇒ヨーロッパ文明をさまざまな角度から鋭く批判する思想家の集団。
特にファシズムやナチズムにいたった「新たな野蛮状態」がなぜうみだされたのか考察した。

今回はフランクフルト学派の第二世代であるハーバーマス(1929-)について扱っていきます。
まず要点のまとめ。
ハーバーマスは社会がゆらいだ原因を「生活世界の植民地化」であるとして、その対策として対話的理性が社会統合の基礎となると主張しました。
  • 生活世界(日常世界)⇒私たちが普通に生活している、発言の機会が平等に与えられた世界
    コミュニケーションによる合意のある世界
  • 生活世界の植民地化⇒経済システムが生活世界の合意よりも優先される。
    人格よりも経済システムでの身分が優先されて、コミュニケーションがなくなる
またフランクフルト学派第一世代が道具的理性を批判したのに対して、理性には対話的理性(コミュニケーション的理性)もあるとハーバーマスは説きました。
コミュニケーションも理性なのです。
  • 道具的理性⇒理性を自然や人間を支配するための道具にすぎないと考える
  • 対話的理性⇒お互いの合意に達する対話のための理性
コミュニケーションによって平和な世界にするってこと?
それがなかなか難しいって話をしていくよ
ブログ内容
  • ハーバーマスとフランクフルト学派
  • ハーバーマスと対話的理性

参考文献 「ハーバーマス」(小牧治・村上隆夫)、「フランクフルト学派」(細見和之)、「〈対話〉のない社会」(中島義道)、「社会学史」(大澤真幸)、「社会学用語図鑑」(田中正人、香月孝史)

ハーバーマスとフランクフルト学派

ハーバーマス(1929-)がフランクフルト学派第一世代と異なる点は、彼の父親はナチスの支持者だったことです。

彼が子どものときには、ヒトラー・ユーゲント(ドイツの青少年組織)に所属していました。

そのこと自体はドイツ人の少年としてごく普通なことだったのです。

大戦が終わったときハーバーマスは16歳。

「われわれ自身の歴史が突然に光のなかに浸され、その光はすべての本質的な側面を衝撃的なかたちで別様に見せた。

自分がそのなかで生きてきたものが政治的に犯罪的な体制であったということが、突然分かった。

そのことを私は決して想像してみたことがなかった。」
(ハーバーマスp12ハーバーマスの回想)

ドイツ人はまるで健忘症にかかったかのようだったとハーバーマスは語ります。

戦後、ヒトラーを熱烈に支持していた人々はどこかに消え、ナチス時代のことは語られなくなったそうです。

いわばフロイトの無意識みたいなものかな。
多くの人々はトラウマを負った
1945年に戦争が終わり、ドイツの領土は大きく三つに分割。
そこからアメリカとソ連のそれぞれの政策の為に、ドイツは西と東に分断されることになります。
新たに成立したドイツ連邦共和国(西ドイツ)は、ナチス・ドイツとの深い連続性がありました。
そして西ドイツにおいてナチス時代との決定的な断絶が起こらなかったことに対する失望と怒りが、ハーバーマスのその後の活動の政治的な方向を決定することになった。
(ハーバーマスp17)
例えば、ハーバーマスはハイデガーの著「形而上学入門」にある「この運動(ナチズム)の内面的な真理と偉大さを」という文章を批判したのです。
この批判は有名で、ハイデガーはインタビューでこの弁明をしている
その後、ハーバーマスは政治的な立場と哲学的な立場は不可分に関連していると考えました。
彼はナチズムあるいはファシズムと全面的に対決する哲学的伝統(フランクフルト学派)を探し求めたのです。

こうしてハーバーマスはフランクフルト学派の第二世代をになうことになりました。

ハーバーマス自身はフランクフルト学派に位置付けられることを好んでいなかったみたい。
フランクフルト学派自体が自称ではなく他称

フランクフルト学派

ユダヤ系のドイツ人にとって、ホロコースト(大量虐殺)の記憶はいつまでも残っていました。

なので、第一世代のホルクハイマーやアドルノは西ドイツ(ソ連支持)をいつも警戒していたのです。

かつフランクフルト学派はマルクスの哲学をベースにもしていたので、保護を受けているアメリカにそれを指摘されると危うい立場にいました。
(マルクス主義はソ連が支持する社会主義のベースにもなっていた)

しかし、ハーバーマスはマルクス主義思想について公然と論じました。

ハーバーマスの公然と論じる態度は、その後の彼の対話的理性につながるものがある。
彼は対話の人でもあり、さまざまな人と討議(おたがいの主張の妥当性を吟味しあう)した
ホルクハイマーはそんなハーバーマスを危惧していた
ハーバーマスの恐れを知らない論文は高評価を得て、彼は33歳の若さでハイデンブルグ大学教授に就任。
1960年代の学生運動では、ハーバーマスは理論的指導者の役割もひきうけています。

ハーバーマスの運動

「…ドイツにおいてこそ我々は、ドイツ人の手で殺された人々への苦悩への追憶を…目覚めさせておく義務がある」と彼は主張する。

そして彼によれば、アウシュビッツ以後のドイツ人は、自国民が陥った道徳的破局を見据え続けることを通してしか、伝統をわがものとすることはできないのである。
(ハーバーマスp67)

ハーバーマスの活動や学生運動の成果は、1969年に成立した政権に影響を与えています。

ナチスによる戦争と虐殺の責任に正面から向き合おうとする努力が、この政権のもとで行われました。

「責任」をどう考えていくか。
ナチズムを背景に、このことが哲学的にも大きな意味を持っていく
1989年にはベルリンの壁(ドイツ東西をへだてる壁)が崩壊。
「西ドイツの経済的豊かさのうちに東ドイツ市民を飲み込むような形で併合」してしまったことも、ハーバーマスは批判しました。
そんなハーバーマスは3つの顔を持っています。
  1. アカデミックな正統的研究者
  2. 鋭敏な社会時評価・批評家
  3. 論争相手から必ず何ごとかをくみ取ろうとする果敢な論争家
    (「フランクフルト学派」参照)

彼の論文は多く、社会学や哲学分野の多岐にまでわたります。

把握しきれなかったので、今回は教科書で取り上げられている対話的理性に焦点を当てて紹介していきます。

ハーバーマスと対話的理性

まず冒頭で取り上げた生活世界を詳しくみていきます。
ハーバーマスは18世紀のイギリス、フランスで広まったコーヒーハウスに着目しました。
(社会学用語図鑑p182参照)
コーヒーハウスでは異なった階層の人々が対等に議論する公共圏(市民的公共圏)が生れていたと指摘します。
コーヒーハウスでの討論は新聞や活字メディアでも取り上げられ、公権力に批判的な意見が形成されていました。
公共圏の成立⇒公衆が公権力に批判的な力を持てるようになった
公共圏というのは、人々のコミュニケーションによって成立したとハーバーマスは考えます。
生活世界(日常世界)の中で、発言の機会が平等に与えられて公共圏が育ってきたのです。
例えば、自由・平等・平和という理念もここで育ってきていた
しかし、一方で世界は経済システムによって急速に発展してきました。
代表されるのが資本主義社会。
生活世界にも経済システムの考え方が根付き、合意よりも経済の発展が優先されるようになってしまったとハーバーマスは考えます。
効率が悪いとか、それは役に立たないとか、それは損だとかいう考え方が支配的になってきた
経済システムが決めた身分が人格よりも優先されて、コミュニケーションがなくなってしまったのです。
例えば、「戦争プロパガンダ10の法則」では人々に意見をすりこむ、という考え方が紹介されていた
大衆という考え方は、メディアが発達してきた頃に危機感がもたれた
公共放送は一方的に考えを宣伝し、その放送は広告という経済システムによって支配されています。
この過程を「生活世界の植民地化」とハーバーマスは考えました。
こうして、育ってきていた公共圏は廃れてしまったのです。
しかし、ハーバーマスは近代社会が本来目指していた公共圏を確立することが重要であると考えます。
最近ではインターネットが公共圏の代わりに登場してきたと言える。
ただし、顔が見えないから公共的な討論の場とは言えないという見解がある
ハーバーマスは理想的な公共圏の確立を掲げるので、近代はまだ完成していない「未完のプロジェクト」にいると述べるのです。

ハーバーマスと真理

「未完のプロジェクト」とは理想的な公共圏を確立することが目的です。

ここで、フランクフルト学派第一世代との違いが浮かび上がります。

アドルノの有名な言葉。

「生それ自体が偽りであるとき、正しい生などありえない」

‐つまり、社会全体が間違っているなかで、個人が正しい生き方を選択することなど不可能だ、ということです。
(フランクフルト学派p179)

ハーバーマスはアドルノの「矛盾を矛盾として捉える」という事は評価しました。

しかし、真理に対しては批判。

近代において、理性の道具化だけが進展したのではなく、対話的理性(コミュニケーション的理性)も発展してきたのだとハーバーマスは考えます。

その発展において、社会全体が間違っていたとしても正義にかなった公共圏は目指していけると考えるのです。

確かに、学問は思想を紡いでいるし、人々は福祉を充実させようとしている
そもそも発展するからこそ、生活世界の植民地支配(ある特定の人の支配)が発生したということも考えられます。
それに対抗する手段として、ハーバーマスは「合理化された生活世界という難しい概念」を焦点に置きました。

ハーバーマスと合理化された生活世界

ハーバーマスは生活世界が合理化されることによって、生活世界のコミュニケーションそれ自体が「合理化」されることを積極的に肯定しました。

えっ、道具的理性の合理化は危険視されてきたのに、対話的理性の合理化はいいの?
ハーバーマスは生活世界の合理化を3つの文化領域に分けて説明しました。
3つの文化領域
  • 客観的世界⇒世界の客観的事実に関わる言明、「真理性」
  • 道徳的世界⇒こうすべきだという倫理的・道徳的世界に関わる言明、「正当性」
  • 主観的世界⇒自分の好悪や感情に関わる審美的な言明、「誠実性」

それぞれが妥当性の基準として設定されるとハーバーマスは考えます。

例えば、「ナチスは「良いこと」もしたのか?」という本では、歴史的事実をめぐる問題では〈事実〉〈解釈〉〈意見〉の三層に分けて検討すると良いと述べていました。(p8)

歴史的にホロコーストがあった。

では、なぜホロコーストがあり、そこでの正当性はどのようなものがあったのか。

私はどう思うのだろうか。

相手はどう思うのだろうか。

歴史には切り取られてきたという事実があり、その妥当性を検討するには少なくとも3つの領域が必要なのです。

他にも例えば、哲学のアフォリズム(簡潔鋭利な評言)はよく誤解されることがある。
一言で伝えられるものは本三冊でも伝えられるし、拡張された内容にはその3つの領域が入ってくる
道具的理性が発達してきた結果として「生活世界の植民地化」が生じたのだとしたら、それに対抗する手段は一つに「生活世界の合理化」だとハーバーマスは考えます。
いずれにしろ、愛情にしろ、友情にしろ、私たちが積極的に価値と考えているもの―それらはまた、あらゆる専門科学者の伝記が否定していないものです―は、生活世界のなかにしかありえません
それらの価値をシステムによる植民地化から守ってゆくこと。
すでに三十年以上前に提示されたハーバーマスのこのアイディアは、私にはいまも基本的に有効な気がします。
(フランクフルト学派p188)
哲学が「幸福」や「愛」などの価値を求めるものとしたとき、システムに対抗する対話的理性になる。
ヤスパース(1883-1969)も哲学は意義を求めるものだと話していた
道具的理性に支配されることへの対抗手段は、対話的理性(コミュニケーション的合理性)の発展なのです。

ハーバーマスの思想

ハーバーマスは討義の人でした。

ハイデガーの批評をして有名にもなれば、社会学者ルーマンと討論をして彼を有名にしたりもしました。

ハーバーマスの思想の中で、印象に残った部分を紹介します。

ハーバーマスによれば、「飢餓と苦労からの解放は隷属と屈従からの解放と必ずしも一致はしない」のである。
(ハーバーマスp98)

ハーバーマスは道具的理性が飢餓と苦労からの解放をさせてくれるものだとしても、隷属と屈従とが一致するわけではないと考えます。

そして、学生運動が民主主義を深化させるような合理化を行うのではないか、と考えていました。(学生反乱は挫折)

また解放された世界を想定し、そこにおいて万人が万人と自由に対話することによって合意に達することのできる社会を想定したのです。

なぜその社会を目指したのか。

‐彼によれば、正当性要求を含めて一般に妥当性要求が満たされぬままに行なわれるコミュニケーション的行為は、必ずや個人の人格構造に破壊的影響を及ぼし、その生活世界を荒廃させて狂気や孤独や死に到る精神病理的現象をもたらすのである。
(ハーバーマスp143)

「私は何らかの関心や欲望をもって対象に対している存在だ」というのがヘーゲルの哲学にあった。
人には妥当性要求という欲望があり、「理性とは討論そのもの」(ハーバーマスp148)

ハーバーマスの思想を見てきました。

と、ここで日本にはコーヒーハウスのようなものはあったのか?
日本文化に対話的理性はあったのか?
という疑問が浮かび上がってきたので、日本文化と対話的理性の関わりも紹介します。

対話的理性と日本文化

「〈対話〉のない社会」(中島義道)では、日本文化には〈対話〉がない、と述べます。
ハーバーマスの定義の一つでいえば、対話とは発言の機会が平等に与えられた世界でのコミュニケーションでの合意です。
なぜないのでしょうか?
原因を本からあげていきます。
日本に対話文化がない例
  • 日本では、公共の場で個人を特定して評価すること、特に批判することを嫌う
    (みんなの前で個人を叱ることは悪いこととされている)
  • 日本では「和の精神」がより尊重され、個人の意見は尊重されない
  • 公共空間において「お上」が一方的に不特定多数の者に対してメッセージを送る
    (例:きたときよりも美しく、思いやりを大事になどの看板や放送)
  • 日本人は「お上」の言葉に疑問をもたないように、みずからを鍛えあげる

つまり、日本文化は個人よりも「和」や「お上」が尊重される風土なのです。

例えば、西洋でも日本でもルールを守らない人は同じようにいますが、そのルールの破り方に違いがあると述べられます。

西洋は個人がルールを破る。

その一方、日本人はみんながルールを破っているから、その破っている方のルールに従うという違いがあるそうです。

  • 西洋近代型の状況倫理⇒個人がみずから自己決定し自己責任をもつという原理に貫かれている
  • 日本型の状況倫理⇒個人で判断して動くのではなく、周りの人々をよく観察して、周りの人々のしているようにルールを変形する
    (〈対話〉のない社会p89)
そうなると、日本は個人の反省が発達するような生活空間にいないということ?
もちろん、「和の精神」ということもあり日本はコミュニケーションを重視する文化です。
しかし、日本の生活世界では対話ではなく会話が求められている、と本では述べられています。
会話の例
  • 言葉の内実よりも言葉を投げあう雰囲気の中で、漠然とかつ微妙に互いの「人間性」を理解し合う
  • 「会話」を操る作法は、日本人の美意識の基本にもなっている
  • 言葉の裏を了解するコミュニケーションが日本的会話には含まれている
    (あうんの呼吸、さっする、ググるなど)
  • 「思いやり」を尊重して真実を語らない
うん、相手のことを考えつつ会話している気がする
会話とは違うのが対話です。
対話の例
  • 各個人が自分固有の実感・体験・信条・価値観にもとづいて何ごとかを語ること
  • 真理を求めるという共通了解をもった個人と個人とが、対等の立場でただ「言葉」という武器だけを用いて戦う
  • 「相手に勝つ」のではなく、「新しい展開」を求めてゆく
  • あくまでも一対一の関係であること
  • 相手との違い(小さなものでも)を大切にして、それを発展させること
でも、これだと人を傷つけるかもしれないよ?
真実を語るとき、それは時に人を傷つけます。
日本の文化には〈対話〉を嫌う風土があります。
けれど、それよりも責任をとることを選ぶとき、人は真実を語るのです。
〈対話〉によって、自分の考えをもったり自分の責任をもったりすることができるのだと、本では述べられています。
とはいえ、本では日本文化そのものを非難しているわけではありません。
日本の「おもてなし」は各国に賞賛もされた
私は祖国を現在の欧米の一国(訴訟が多い社会)のように変革したいわけでは毛頭ない。
私は、言葉を、〈対話〉を圧殺するこの国の文化にあと数パーセント西洋的な言語観を採用すれば、もっと風通しのよい社会が、弱者が泣き寝入りすることのない社会が、個人が自律しみずからの責任を引き受ける社会が実現するのになあ、と思うだけなのだ。
しかし、それが至難の業であることも知っている。
だからこそ、私は声を大いにして、わが同胞よ、もう少し言葉を信じるように、〈対話〉を信じるように、〈対話〉を尊重するように、と叫んでいるのである。
(〈対話〉のない社会p203)
訴訟大国では逆に日本の文化が見直されるように説かれていそう
本では〈対話〉そのものが難しいのだと語られます。
議論が飛び交う国では、〈対話〉よりも個人の権利の主張が強くでてしまい、対話になっていないと述べています。
論破は対話ではないのです。
また、日本には「水をさす」という日常用語があり、言葉を多くは語らないにしても、心の中で考えているという国民性もあります。

対話と哲学

対話といえばソクラテスですが、ソクラテスは〈対話〉を徹底した結果として裁判で処刑判決がでてしまいました。
対話は何を目的としているのか?
その一つの目的は、対話を消滅させることです。
人は相手を認め合い共通了解をしたと思ったときに、言葉を消滅させることで満足します。
人は「幸せ」を目指すために道具的理性を使うという構造と同じだね
自己矛盾を抱えた人間がハーバーマスの「未完のプロジェクト」を遂行するにはどうするのか?
というのは課題になってきます。
今回はハーバーマスと対話的理性をやりました。
次回はレヴィ=ストロースを取り扱います。
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