現存在

ハイデガーの現存在-「死」を会話から考える

死について。

 

 

私は子どもと一緒に遊ぶことが苦手なんです。

だから、面倒は見るけれど、あまり一緒に遊べていない。

このことがわかっているんですよね。

そして、遊ばないのに私は子ども達に指示するんです。

宿題をやりなさい、早く寝なさい、食べなさい、といったように。

 

最近、こうやっていると3歳の娘にこう言われます。

ままこう(手をBADの形にされる)ママ死んで、と。

死といわれること

そういえば、人に向けて死ねというのは悪口だよなと思いつつ、おそらく死ねと口にするようなものに結構な確率で3歳にして触れてしまっているんですよね。

 

それに対して私はこう答えることが多くなっています。

「うん、ママはいつか死ぬから大丈夫」と。

あなたの言葉はいつか実現されるよって、真正面から答えます。

 

意外とこう答えると次の言葉が娘からでにくいんですよね。

 

そして、こう答えたときに私はなぜこういわれているのか考えます。

もう答えは初めに書いているんですけど、楽しくない相手なのに彼女の自由を奪う人として母親としてわたしがいるんですよね。

だから、娘としてはもっと自由でいたいんですよ。

その自由をうばう母親が憎くなる。

後は、それなのに遊んでくれない母親が憎くなる、といったところ。

 

それでも、人間は自由を求める一方で安全基地を求めます。

何を言っても許される存在。

甘えてもいい存在。

自由を制限する代償として、おそらく多くの母親はそれを与えているんですよね。

 

 

私は自分がよく思うのは母親と言う役割が苦手であること。

自分自身で不自由が苦手。

だから、娘の言い分もよくわかってしまう。

 

かつ、私はその言葉で「死」について考えることができます。

本来人は死ぬものだから、死にゆく存在ではかない存在だとわかっていることが貴い。

これを説いたのはパスカルです。

この死を見つめながら、わかっていて精いっぱい生きるのが本来の人間だと説いた哲学者がハイデガーだったりします。

ハイデガーの現存在

ハイデガーは人を現存在といったんです。

生き物はみんな存在しているんですけど、それを自覚できるのは人間だけ。その自覚出来る存在といういみで現存在(ダーザイン)だといいました。

 

でもこの現存在には二つのあり方があると言います。

現存在-非本来性と本来性

1つは非本来性

日常の出来事に気を奪われて、世間の中に埋没している。

みんなと同じ意見をいい、同じ行動をする誰でもない人のことを非本来性を生きる人間を世人(ダス・マン)といいました。

 

もう一方を本来性といって、いつかやってくる死を自覚して、その日が来るまで自分らしい生き方をする決意をしている人のことを実存と言いました。

死ぬまでの限られた時間を意識して自分の道を歩む人に対してです。

 

これらを踏まえて、自分の死を他者との関係で考えてみます。

娘との関係で考えると、これは悪口ではなくなるのかな、なんて思ったりもします。

 

なぜ私が、ママ死んで、といわれてこれを悪口だと捉えて怒ることがあるとするのか。

これってきっと私が周りにあわせているんですよ。

言葉遣いが汚いからそんなこと言わないで、とか、母親だからあなたのためにいろいろとして上げているという上から目線だったり。

もし、自分の死を自覚をしている。

しかも、みんなと同じ意見を思わないのだとしたら、死んでといわれても怒ることはないんだなと思ったんです。

 

 

いじめなどの場合だと悪意があっていっている場合がありますよね。

相手に悲しくなってほしくて。

おそらく、娘の場合もこの要素もあるかもしれません。

 

でも、不思議に思うのは、昔長男がこれをやっていたんですよ。

ママ死んで、と。

で、私はいつもいつかね、と言っていたんです。

そしたら、今6歳なんですけど、この言葉をあまり使わなくなりました。

私に対して言ってこなくなったんですよ。

もしかしたら、私はこう答えることによって子どもたちに死を考えさせているのかもしれないな、と思いました。

自由を獲得するとは人がいなくなること

そして、人がいなくなる、ということも。

それは自由を獲得することになる。

 

私は自由を求めていますけど、自由って怖いモノでもあるんですよね。

自由とは何かという議論をせずにイメージだけの自由なんですけど、自分で決めると言うことには自分への責任が付きまとってくる。

子どもにしてみれば、安全基地の母親がいなくなるということ。

 

自分の人生なんだから当たり前なんですけど、こういうことを自覚できないまま大人になったりします。

そして、それをハイデガーから世人(ダス・マン)と呼ばれてしまう。

自由でいることが恐くなる。

その場合に、何かに制限されることを心地よくなっていく感覚です。

 

母親業が苦手な私が教えられることは、こうした自由についてや死について考えさせることなのかな、と思いました。

私にとってこれは悪口でもなければ、言われてそこまで嫌な言葉ではないんですよね。

そして、こういう見方も多面性の一つかな、と思います。

 

意外と正面からこの「いつか死ぬからね」というとき、ちょっと悲しくなるんですよね。

私は自由は好きだけど、何をしていいのかわからない状態は困ることもあって、自由じゃない状態もほどほどには好きなんだろうなと思いました。

 

では、聞いていただいてありがとうございました。

 

 

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