レビット

社会的責任と資本主義‐レビットのマーケティング論から

おはようございます。けうです。

 

今日は社会的責任について考えてみました。

よかったらお付き合いください。

利益と社会的責任

レビットはいいます。

企業は利益を優先すべきだ、と。

 

最近は社会的責任(CSR)ばかりが語られている。

そして、口にする言葉はやがて信念になる、というように企業にとっても社会的責任を果たすことがもっとも良いことだと企業で思ってしまうようになると言います。

 

でも、企業は企業なので利益を優先させます。

例えば、会社先で品質がまったく同じなものに対して、一つは200円で仕入れる、一つは100円で仕入れられるとなったときに100円を仕入れるという原理が働くからです。

もし、200円で作った方は恵まれない人を集めて作ったとして、それを仕入れた方がその人たちが助かるとなった場合。

もし、その宣伝が出来るのならば200円のほうにするかもしれないけれど、基本的な利益を追うならば100円を選びます。

かたや、親しい人が200円の方を押しているから200円にする!

となれば、そこにはまた倫理的問題がでてきます。

一個人で物事の判断をした、と。

なので、利益を追うと言う目的を掲げることで、一個人でも契約の選択ができるようになる、というのが資本主義社会です。

「すべての活動は利益につながって初めて好ましいと言える」という理念があるから、その中の組織の1人として考えを持って活動ができます。

なので、その利益を超えた先でしか、本当の社会的責任は口にできないということになってきます。

密かに利益を追求しつつも、社会的責任を口にすることはまさしく論理や議論に長けただけの人(ソフィスト)になってしまうかもしれません。

 

でも、最近では、その社会的責任ばかりが取りざたされることによって、もしかしたらこれが資本主義の崩壊を招くのではないか、とレビットは言います。

社会的責任と資本主義

資本主義がどうやって出てきたのかを考えると、市民革命によって絶対王政とか、政府の権力に打ち勝つために、自由に競争するために出てきた原理です。

 

でも、その勝者が大きすぎる世の中になってきました。

GAFAに代表されるような。

もし、何かが強大な力を手にすると、それは人々を縛ることになります。

 

社会的責任だけがとりざたされることは、個人の自由を奪っていきます。

ボランティアとは

例えば、最近話題になっていた政府ボランティアの話。

ボランティアで募ると無料で働いてもらうのだけれど、そのボランティアの人たちを雇うと時給2000円をだすという話です。

率先してやるのと、いやいややることの違いとも言えますけど、そのお金で雇われた人も楽しんで率先してもやれますよね。

では、ここにどんな違いがあるか。

なにか私たちはこれを聞くと、ずるいと言う気持ちが起こるだろうし、無料ボランティアの人は減るかもしれませんよね。

これを中庸、真ん中をとる精神で考えてみます。

政府は利益を基準に考えていないので、政府がまずこれをやる分には肯定されます。

企業だとわからないですけど、政府は利益を追わないからです。

でも、賃金が発生する分に、そこには企業目線がされます。

企業だとすれば、そこに賃金の差を生じさせるのはひどいのではないか、と。

そうなれば、ボランティアをする側がどちらの側に立つのかという話になってきます。

政府にボランティアをしに行くならば、賃金以外の目的がそこに生じます。

自分で体験をしたいとか、実情を知りたいとか、役に立ちたいとか。

一方、賃金目的ならば、賃金が目標にはなってきます。

お金を得られる行動が目的になってきます。

 

そして、目的が違っているのがどんな役にたつのか、ということですけど、一つには自己発信です。

無料でボランティアに参加した信念を語ればモテルかもしれないですし、もしかしたらそれをブログに書いて発信することで、自分でさらなる利益を生み出せるかもしれない。

かたや、雇われている側にとっては自由に発信してはいけないような足かせがそこには生じるかもしれないですね。

私たちは2000円の差をひどいと思うようになること自体、自分で利益を得る資本主義の精神が個人に当てはまらなくなっているのかもしれないなと思いました。

社会的責任とパノプティコン

パノプティコンという監獄。

これは自分で自分を監獄にいれるように、自分すら監視するという意味です。

言っていることが信念になると言いました。

社会的責任を一人一人が持っていて、一人一人が正義の味方になってしまったような状態です。

でも、それだと多様性は失われていきます。

悪役が淘汰されてしまうように。

何事もいきすぎると善が悪に変わるようになります。

 

なので、宗教革命などは起きました。

教会の権威が強すぎたので、その強さを弱めるような動きです。

何かが巨大な力を持つと、それが分散する力が働きます。

私たちは今、その社会的責任が大きな宗教の一つとして組み込まれているのかもしれない。

 

レビットは言います。

「自分は正しい」とひたむきに信じるものが、強大な組織、とれわけ企業の強大な機構に支えられたなら、これほど危険なものはない。-、

数々のギリシア悲劇が示すように「自分は正しい」と考える者ほど、たちの悪いものはない。

 

これは言う方も刃として返ってきますけど、それほど自由競争は大事だし、多様性は大事にしたいというレビットの意思です。

社会的責任と資本主義ーまとめ

資本主義がなぜできたのかの元をたどって、そこに自由な精神が含まれているから、それを大事にしたいという意図が含まれています。

私たちは近年になって、資本主義を悪いものだとみなす風潮がでてきています。

社会的格差が広がっているからですね。

なので、新しい形は必要かもしれないのですけど、その自由精神は継続して欲しいなと私は思いました。

 

最近副業に目が向いてから、考える視野が広がったように思います。

今までは雇われていた人としての視点しか持っていなかったと思える点が多いです。

なので、視野を持つためにも、副業を始めてみるというのはいいかもしれませんね。

 

では、今日もお聞きいただいてありがとうございました。

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