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哲学は役に立つのか?フィロソフィーは有用性や実用性を重視していた。

おはようございます。けうです。

 

しばしば哲学は「暇」な人がやる学問と見なされてきました。

古代ギリシャに返れば、衣食住がととのった状態で特に仕事がない。

生きるのに精いっぱいにならなくてもよい。

そうした暇なときに気が付く疑問。

常識を疑いだすと、疑っていってそれで忙しくなってしまう思考。

そういったものが哲学の一面にはあります。

そんな哲学は役に立つのか?

この観点を捉えなおしてみようと思います。

哲学は役に立つのか?

よく、哲学は役に立つのか?

という問いがあります。

もし、初めに述べた起源を立ち返ってみれば、暇なことを暇じゃなくしたという点で、役にたっています。

しかし、私は忙しくても哲学をしてしまう。

日常の仕事はいっぱいあるのに、暇ではないのに、哲学に時間を割いているのはなぜか。

一つに、知を愛するという作業が好きになってしまったから、それをせずにはいられないということがあると思われます。

人は依存する。

なぜそれを繰り返すのかわからなくなるくらいに、それが好きになるとそれにのめり込む。

また他には好きを好きにさせることの一つとして、それをすることで認められる。

他の人も哲学をしているのであり、その中で一緒に哲学をすることは仲間を増やす行為になる。

では、ここで哲学は役に立つのか?

という問いを繰り返したとき、違った側面でてきます。

哲学を学問として好きになってしまって、それによって認められようとしたときに、その仲間に役立つ学問としての側面を持ちうるのではないか。

純粋な学問としての域を超えて、役に立つための学問としての見方をしだしているのではないか。

実学としての哲学

このようにして哲学は他の学問になってきたという見解があると私は考えます。

例えば、精神分析学の祖、フロイトは元々哲学者だったけれど、精神分析をきわめていったときに、心理学者になった。

心理学には人間を物質として捉える面もある。

このようにしたら、人間はこう動くだろう。

このような普遍性を兼ね備えた役にたつ学問。

今の時代は特に、心理学は重要視されています。

アフィリエイトや広告販売では人の心理を操って、その商品を買ってもらう。

人にはそのような特性があり、そう動きやすい。

確実ではなく確率の問題になってくるけれども、それを学ぶことによって自分に利益が返ってくる。

商品が売れることでその利益の数パーセントが返ってくるようになる。

もし、心理学が哲学から分離していなかったとしたら、哲学にこの稼ぐという面が見いだされるようになります。

そして、稼ぐということは自分の生活に返ってきます。

人は何かをしないと生きていけない。

そんな資本主義の世界に私たちは生きているからです。

哲学と資本主義

昔は資本主義の世界ではありませんでした。

なので、ソクラテスは弁論術で生計を立てることを批判した。

ただし、ソクラテスは自身の問答法で食事をもらったりはしていた。

もらったというならば、何も与えてくれなかった人もいるだろう。

今の世の中は特に、金銭はすぐに流通するけれど、もらうという行為はその人にとって良いのか悪いのかといった判断が含まれています。

資本主義の世界にいる私たちの思考からすれば、自分が良いと思ったものでもあげるといったときには、嫌がられるかもしれない。

道端である人が飴をくれた時、その飴が私にとってはいらないものや恐怖に映るものになるかもしれない。

そのような考えから、人は恩を受けたとしてもその恩を返さないかもしれません。

ここには人の多様性を見るからこその、一定したシステムが作り上げられています。

 

金銭の流れができていればそこに自動的な交換のシステムが働いてきます。

その交換のシステムにのっとるとき、人はその人の個別性を見なくなる。

人はこういうもので、こういうことをすればその見返りが返ってくる。

このような多様性をみない視点で人をみるようになり、世の中のシステムが回るようになります。

昔で言うソクラテスの金銭をもらうことの批判は、現代社会では通じなく、生きていけなくなるという側面を持ち合わせます。
(福祉に頼れば別ですが)

 

では、もう一度問いに立ち返ってみます。

哲学は役に立つのか。

この資本主義の世の中で。

哲学は普遍性(ここでは不変?)を追い求める学問でもあります。

多様性は認めるものの、その多様性を認めていない一般だとか、不変だとか、そのようなものを追い求める視点がある。

このように捉えたとき、まだ他の学問になっていない哲学というのは、他の今の世の普遍的なものを導き出す学問として有益に働いてきました。

マーケティングと哲学

例えば、脳科学で言えば人間の脳の特性としてこのような働き方をしやすいとわかってきます。

勉強をするには、動いたり、5官を働かせたり、随時思い出すようにすれば海馬(記憶の回路)に蓄積しやすいと分かってくる。

これに応用を加えて、心理学のハロー効果を使ってみましょう。

これは何度も単純接触すると好感度が増すというもの。

おそらく、この記憶しやすいというメカニズムと好感を持ちやすいというメカニズムを使用すれば、人間心理がもっと動かしやすくなるのかもしれません。

この脳科学と心理学を掛け合わせたような学問。

もし、それに名前がついていないのだとしたら、それは哲学として取り扱われる可能性があります。

定義されていないけれど、掛け合わせることでさらに役に立つ学問として。

ただ、今ではマーケティングという学問が生まれています。

それは哲学ではなく、マーケティングという名前になっている、と。

おそらく、この概念はソクラテスとソフィストの対立の頃から哲学の内部にあったのだろうと思われます。

そして、資本主義だからはっきりとマーケティングが確立したとも言えます。

哲学をフィロソフィーとしてみる。

哲学は役に立つのか。

私はこの視点にたって考え始めている時、純粋な常識を問う学問としての哲学が出来なくなっている可能性があります。

心に忙しさが生じて、その中でも哲学をしたいという気持ちになっているからです。

その場合、知を愛するという側面が強くなっているのかもしれない。

 

フィロソフィーという知を愛すると言う語源はソクラテスに遡る。

哲学とお金が絡むことをよく思わなかったソクラテスではあるけれど、そもそも彼は哲学を有用性・実用性を重視したとも言われています。

実学を好んだ人物として描かれている本があるのです。

プラトンの著作ではそのような面は強調されないけれど、クセノポンが書くソクラテスはその面が強調されていたといわれています。

哲学と脳科学と実用性

脳科学から見てみよう。

人は結果がでると楽しくなる。

ソクラテスも問答法によって人の考えが変わるという実践を得た。

それはその人にとって役だったとソクラテス自身が有益に感じていたから行ってきたことだった。

そこには有用性や実用性があると判断できる面があります。

哲学が役に立つという側面でみたときに、様々な理由がでてくる。

そもそも普遍性を追い求めている面がある哲学は、人はそのように動きやすい、という特徴を掴みやすいと考えることが出来る。

忙しい中での哲学

なぜ私はこの議題「哲学は役に立つのか?」を取り扱ったのか。

最近、心が忙しく、昔のように「考えるを考える」という昔ながらの問いが一番の主題に上がってきません。

その周辺の日常生活で疑問になるような物事が頭をしめるようになる。

このような経過があり、それでも私は哲学をしているのだろうか?

と疑問になってきました。

そして、根本に立ち返っていくと、知を愛すると言う側面。

それには脳で言う報酬や依存回路が併発している。

かつ、ソクラテスのクセノポン訳から言えば、有用性や実用性を求めている面がある。

私は考えをブログなどによって残そうとしている。

すぐ忘れてしまう面があるからですが、おそらくこの考えていることは何かに役に立つかもしれないという思想を元に残しているのだろうとも考えられます。

そして、これは現代の哲学本を出版する人にも言えることで、何か本に残すことは有用性や実用性を兼ね備える面が出てきます。

本とは何か、文章とは何かという問いになってくるかもしれません。

 

現代は忙しい。

忙しくなろうとすれば、誰でも忙しくなれる。

心を亡くすと書く忙しい。

けれど、捉え方によればその暇をなくそうとする行為は忙しくなるための行為ともいえます。

忙しくても哲学をしてしまう自信を振り返って、もう一度フィロソフィーという側面を見てみました。

では、お聞きいただいてありがとうございました。

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