「わかりあえない他者と生きる」(2022/マルクス・ガブリエル著)を読みました。
本のまとめとして、特に印象に残った部分はこちら。
わかりあえない他者と生きる
本のまとめ
- 他者性とは、人間の根本的な形相。
人間全体に共通する形相は「違うこと」。
他者からの訂正で心を持つ
「他者から孤立すると頭がおかしくなるのはそのため」 - 自由とは正しい束縛を選択する能力
「正しい束縛」を社会の中でいかに形成するのかを考える - 生きるとは他者に訂正されること
「他者とは、相手が自分と同じでなくても許すことをあなたが常に学ばなければならない存在」 - 普遍的な価値をめぐって意見の対立がおこる
「私が自分の所属集団に従って児童虐待はすべきでないという場合、それは私の価値判断ではない。」 - 定言命法は状況によって左右されるもの
「私の立場が善悪の間」
本の構成としては、対話形式になっているので読みやすい構成でした。
マルクス・ガブリエルは「対話」を重要視する哲学者です。
私たちは対話を学ぶべきだ、と。
では、どのように身につけたらよいのかと言えば、マルクス・ガブリエルはプラトンの対話を学ぶとよいと言っていました。
基本的に、私たちは皆プラトンの対話篇をもっと読むべきです。
プラトンが最高の手法を教えてくれているのですから。
人類最高の対話を書き残しているとも述べています。
プラトンの書き残した著書を読むと、マルクス・ガブリエルがそこを引用しているのだろう個所が出てきます。
本とプラトンの対話を比較しつつ、対話を学んでみましょう。
わかりあえない他者から見る対話
対話を学ぶためにプラトン著「饗宴」(久保勉 訳)を見てみます。
ある饗宴で、エロス(愛)の女神について賛美する演説をみんなでしてみよう、という話になりました。
何人かで右回りに演説していこうという試みです。
まずはファイドロスが演説。
ファイドロス
ファイドロス
「エロスは偉大な神!
一番のその理由はその発生(ゲネシス)。
エロスは神々のうちでもっとも古くからいて、両親がいない。
一番初めのカオス(混沌)の次にエロスがでてきた。
そのうえ、愛はもっとも魂に関係している。
両親や友達にみられて何も感じないものも、愛する人にみられたらもっともたまらなく恥ずかしくなる。
愛する人のためになら死すら恐れない。
つまり、エロスは最年長者であり、もっとも崇敬すべきものであり、徳と幸福の獲得にあたってもっとも権威ある指導者である。」
これを受けて、何番目かにバゥサニヤスが演説します。
バゥサニヤス
バゥサニヤスの演説
バゥサニヤス
「エロスを無差別に賞賛しなきゃいけないという主題は好ましくない。
というのは、エロスは唯一ではない。
ならば、どの種類のエロスを賞賛しておくか決めておこう。
女神アフロディティは愛と美の女神だ。
愛も美も持っている。
その女神の行動がどのようにされるかによって、愛や美が決まってくるのだ。
エロスは肉体的に感じることもあれば、精神的に感じることもある。
またあからさまに愛するのはひそかに愛するよりも美しく、たとえ顔面が醜くても高貴で優秀なものを愛するのは特に美しいと言われている。
もし愛がなくその行為をお金によってやるとすれば、もっとも恥辱なものになるけれど、愛ゆえにした仕事は許される。
愛する者にはあらゆる自由を賦与している。
それ自体において美しいとか、醜いがあるわけではなく、美しい仕方でされたことが美しく、醜い仕方でされたことが醜いのだ。
肉体を愛するものは卑俗なる愛者だが、気高き性格を愛する者は生涯を通じて変わることがない。
徳のために行為を示すことはいかなる場合にも美しい。」
バゥサニヤスは愛を種類分けして、その種類分けは行為によって分けられると演説しました。
次に、エリュキシマコス。
エリュキシマコス
エリュキシマコスの演説。
エリュキシマコス
「思うにバゥサニヤスがエロスを二種類あるといったことは的を得ているが、私はほかのものにも、ありとあらゆるものに存在すると考える。
例えば、肉体の性質には2種類のエロスがある。
肉体の健康状態と病弱状態があり、これは別種のもの。
だが、どちらの状態であっても健康状態を欲求し、かつ愛好する。
その場合のエロスは同じものを欲したとしても様々だ。
医者が求める健康状態と、病人が求める健康状態というように。
患者も医者も健康状態を知っているけれど、医者のほうがより健康を医学として知っている。
これと同じように、天文学にも、ト占術(マンテイケー)にも、自然にも、あらゆるものにおいてそれぞれの愛がみられる。
エロスは全体にある。
しかも、善事のために尽力するエロスこそ最大の偉力を持ち、人間を神々とも交わしめ、これと友となることが出来るようにする。」
エリュキシマコスはエロスはあらゆるものに存在するとして、それぞれに持っている段階のエロスは違うと説きました。
またいろいろはあるけれど、善事のために行うエロスはもっとも良いと述べます。
次にアリストファネス。
アリストファネス
アリストファネスの演説
アリストファネス
「世人はエロスの威力をまるっきり理解していないように見える。
他の何事にもおいてこのエロス神をまつるべきなのに、実際にエロスは神々のうち人間の最大の友だ。
原始、人間には性が3種あった。
男女の両性の他に、それを結合させた第3の「男女(おめ)」があったのだ。
男女の形態
- 球状
- 背と脇腹が球状の周囲にある
- 4本の手と4本の脚、同じ形の顔が2つ
- 背中合わせの二つの顔に一つの頭
- 頭に耳が4つ、隠しどころが2つ
- 他はこれに合わせて想像するような形態
- あるく場合は8本の手足に支えられて輪を描きながら前進
- 月と地球と太陽になぞらえて球状
このような男女は恐ろしき力と強さを持ち、気高さもあったので神々に挑戦するに至った。
そこで、他の神々は男女の脅威を消し去ることにした。
男女をこのまま生かしておきながら凶暴性を失わせる手段として、彼らを一人残らず真っ二つに切ろうと神々は決定したのだ。
原型が切断されて、いずれの半身も他の半身にあこがれた。
昔から相互の愛は人間に植え付けられるようになった。
人間は昔ながらの本性を再合せしめて、二つの者から一つの者を造ることが、人間の性質に治癒をもたらすことになった。
男女がいるように、男男、女女もいたからその場合はそれらの半身を求める。
彼らは自分に似たものを愛重するのである。
つまり、エロス神は人の指導者であり将師なのだ。
人はエロスの神の友となり、エロスと結合しているときにわれわれは本来われわれ自身のものとなる愛人を発見することも、これに出会うこともできる。
エロス神をまつるのではなく、友となることで人間のエロスがかなえられる。」
人間の原型を神話から解説し、だから人は相手(自分の半身)を求めると論じます。
さらに、エロス神はまつるのではなく友となることを人は望むと述べるのです。
次にアガトン。
アガトン
アガトンの演説
アガトン
「ファイドロスはエロスが二番目の古い神だというけれど、私はエロスは神々中の最年少者であり、永遠に若い神だと考えている。
この神は若いので、似た若いものに近づく。(アリストファネスが愛は似たものに近づくと述べた)
そして、若いうえに詩にあるように柔軟だ。
詩の引用
『その足はげにやさし、そは絶えて地に触れで、ただ緒人の頭の上ゆけばなり』
エロスは花が無いところには留まらないけれど、花豊かでかぐわしき所に腰をおろそうとして留まる。
エロスは留まろうとするけれど、エロスは不正を加えもせずまた加えられることもない。
強制はエロスに手を触れることができない。
強制されたとたん、エロスではなくなる。
万人が進んでエロスに奉仕する。
エロスは自制にも関与する。
自制が快楽と情欲との支配を意味することと、エロス以上に強烈な快楽は一つとして存在せぬことについて万人の意見は一致するからだ。
エロスは支配者だ。
またエロスはあらゆる芸術的創作においても創造者である。
例えば、射術、医術や予言術などをアポロンが発明したのは、欲求と愛に導かれたからだ。
神々の世界にもエロスが入り込んできたので、初めて秩序だった。
エロスは自らもっとも美しく最も優れたる者、同じような長所を賦与する者と思われる。」
アガトンはエロスを賛美するあらゆる言葉を述べていました。
美しさを語りつくしたように。
次にソクラテスの番です。
ソクラテスまでにエロスに関する賛美はすでに言い尽くされている状態。
ここで出てくるソクラテスの引用文には、マルクス・ガブリエルの哲学に関係するような用語がでてきます。
わかりあえない他者と生きる|ソクラテスから対話を学ぶ
ソクラテスはみんながエロスについて語りつくした後で演説を始めます。
まず、ソクラテスは演説者に対して皮肉を言います。
それが実際そうなのかどうかは問題外で、むしろただその対象に考えられるかぎりのもっとも大きく、もっとも美しい性質をくっつければいい。
もしそれが間違いでも、そんなことは構いはしない。
見受けるところ最初から話は決まっていたのだ。
次に、アガトンに対話を仕掛けました。
ソクラテスとアガトンの対話
アガトンの演説(書いてある他にも、前の人の演説をくっつけたもの)にたいして、ソクラテスは対話を仕掛けます。
ソクラテス「エロスの性質とは、エロスが何者かに対する愛であるということなのか?
つまり、エロスとは何者へも向わぬ愛なのか、それともある者への愛なのか?」
アガトン「エロスはある者への愛です」
ソクラテス「なら、エロスはその愛が向けられているその者を欲求するか、せぬか?」
アガトン「欲求します」
ソクラテス「すると、エロスはその欲求し愛するものを所有しているとき、その時になおそれを欲求するか?それとも所有しないときだけか?」
アガトン「所有しないときでしょう」
ソクラテス「自分の持たぬものや、まだ自らそうでないものやまた自分にかけているものや、こういうものに欲求と愛が向けられるんだね?」
アガトン「そうです」
ソクラテス「君はエロスを賛美したけれど、人は自ら欠いていて所有せぬものを求愛するものだということに、我々は意見が一致したわけだ。
では、君は美を欠いていて、まるでそれを持たぬものを美しいと呼ぶのかい?」
アガトン「いいえ、呼びません」
ソクラテス「そうなると、エロスは美しいという意見と矛盾するね」
ソクラテスは対話で、まずは今までの演説の矛盾点を演者に自覚させます。
次に、ソクラテスが考えるエロスを対話形式で語っていきます。
エロスは中間物
ソクラテスは架空のディオティマという人物を設定します。
そして、今までのみんながした演説での一致をソクラテスとして、ディオティマと対話するという設定をとります。
ソクラテスは今までみんなの意見をまとめたアガトンのような見解を持ちながら、ディオティマと対話したのです。
ソクラテスとディオティマの対話
まず、エロスが美しくはない、という先ほどの対話の途中から始まります。
ソクラテス「では、エロスは醜いのですか?」
ディオティマ「それは違うとわかるでしょう。
あなたは美しくないものは醜いにきまっている思うのですか?」
ソクラテス「そう思います」
ディオティマ「知恵のないものは無知なのですか?あなたは知恵と無知の間の中間物があることに気が付かないのですか?」
ソクラテス「中間物とはなんでしょうか」
ディオティマ「正しい意見の根拠をしめせないのは、知識のせいでもなければ、無知のせいでもありません。
正しい意見が智見と無知との中間に位するようなものだからなのです。
エロスもそのようなもので、美しいものと醜いものとの中間の位置を占めているのです」
ソクラテス「それでも、万人はエロスが美しく偉大な神だと思ってますよ?」
ディオティマス「あなたはこの議論をする前提で、エロスはまさにそのものを欠いているからそれを欲求するのだといいましたよね?」
ソクラテス「容認しました」
ディオティマス「では、美しいものでも善いものでもない者がどうして神なのでしょうか?」
ソクラテス「確かに、エロスが神ではなくなりますね。では、神でなかったらエロスは何になるのでしょう?」
ディオティマス「偉大な神霊(ダイモーン)です。
それは人間から出たことを神々へ、また神々から来たことを人間へ通訳しかつ伝達するのです。
さまざまな芸術家だとか、手工だとかに通じている人はみんな神霊的な人というように。
エロスも中間者なのです」
エロスが求めるものだからこそ中間者だとディオティマスは言います。
エロスの正体とは
ディオティマによれば、エロスというのは賢明で多策(裕福)な父(ポロス)と無知で無策(貧乏)な母(ペニャ)との間に生まれた子です。
存在自体も中間者。
そして、エロスの随伴者はアフロディテ(美の女神)。
エロス自らが欠乏を感じているので、美に欲求しているのです。
愛すべきものは真に美しく、きゃしゃで、完全で至福な者。
ですが、エロスという愛する者はその中間者なのです。
例えば、エロスは一月のうちに花咲き、父に受けた性によって生まれるけれど、時にまた母に受けた性によって死にゆく存在。
困窮することもなければ、裕福になることもない中間者です。
「饗宴」はまだ続きますが、ブログはここまでの対話までにします。
対話の例としてプラトン著「饗宴」を見てきました。
わかりあえない他者と生きる|マルクス・ガブリエルの対話
マルクス・ガブリエルはプラトンの対話の影響も受けています。
例えば、この中間者の思想は、「わかりあえない他者と生きる」では道徳を語るときに出てきました。(p168)
道徳とは「善」「悪」「中立」の三つの概念からなりたつとまず語ります。
この三つの概念を捨ててしまうと、倫理空間が見えなくなると説きます。
この善悪の間。
中間者というのを具体的に議論に取り込むことをしています。
対話まとめ
マルクス・ガブリエルは対話の大切さを説きます。
そして、学ぶにはプラトンの対話がもっとも良い教科書になると述べるのです。
- 相手にわかる言葉をつかう
- 「はい、いいえ」と答えやすい単純な質問形式
- 相手の演説を活用する
- アイロニー(反語)を使用する
- 相手が「無知」であることを自覚させる