おはようございます。けうです。
「利他とは何か」を今日もまた紹介していきます。
今日は第3章、「美と奉仕と利他」若松英輔さんが書いた章になります。
読んで思った事。
35ページくらいなんですけど、これをまとめるのは至難の業だなと思いました。
かなり深いことがちりばめられていて、一つを紹介しようとするとその一つで論文が仕上がりそうな、そんな雰囲気がありました。
どう紹介しようかな、と思って、全体的な雰囲気を紹介していこうかなと思います。
抜粋を多くして見ます。
まず初めの1章と2章と同様に利他は意識するものではないという文を抜粋します。
>>伊藤亜紗さんの利他
>>中島岳志さんの利他
利他とは何か
・論理の道の先に真理はない、という章の個所です。
「利他とは何かを考えようとするとき、最初にある落とし穴はそれを概念化することです。利他という名状しがたい、そしてある意味では姿なき出来事を生々しく感じることなく、概念化するとき、私たちがそこで目にするのは、記号化された利他、さらにいえば死物となった利他であって、『生ける利他』ではありません。」
私の解釈を述べます。
例えば、私たちはこの場面をどうする?といったときに、
〇〇主義に基づいて行動する!と決めたとします。
例えば、功利主義に基づいて人を殺してしまった、と。
そうしたときに、人は『生きる』ということから離れてしまって、モノや死物になってしまうのではないか、と考えます。
自分で起こした行動なのだけれど、功利主義に基づくから行動できたのだ、と。
自分で責任を負うことが恐くなってしまうからその保障として概念を先に置いておく。
私が決めるはずだけれど、他人が決めたという風にしてしまう。
例えば、トロッコ問題(1人ひいてしまうか、5人ひいてしまうか)でレバーを引くとき、思考の果てに〇〇主義というものがでてくる。
ただこれは〇〇主義は他の人がだしたもの。
元々の出ていた主義を参考に行動を起こす、こうすることが自分を生きていないことになる。
これが概念によって動かされるということになります。
逆に、自分で考えて行動した結果が〇〇主義のようなものだった。
考えた末の答えがただ〇〇主義と似ていたというのが自分を生きることだということ。
順番が違うだけに思われるかもしれないけれど、レバーを引くときには初めに概念ではなくて、自分ならどうするか、を思うことが『生きる』ことに繋がるのではないか、と私は考えました。
こんな一文も本にあります。
「どう見たのか。じかに見たのである。「じかに」ということが他の見方とは違う。じかに物が眼に映れば素晴らしいのである。」
概念というフィルターを外して自分でまずは自分が行動することだと。
これが利他なんだ、と。
これが一つです。
どんどん紹介していきます。
利他を分解して言葉から考える
利他を言葉から考える。
「利」とは何か
「利他」はもともと仏教の言葉です。
仏教で「利」という言葉は肯定的な意味をさすことが多い。
ただし、儒教の「利」はまた違っている。
「利」を参照にするときは文献による違いに注意した方がいいようです。
「他」とは何か
利他における「他」も、自分以外の他者ではなく、「自」と「他」の区別を超えた存在。
仏教に「不二」という言葉があって、これは「二にあって一に達する道」だと言います。
この他はその側面を持っている。
だから、仏教僧の最澄でいえば「利他であることこそが自らの悲願であることを切々と説く」ようです。
「忘己利他(もうこりた)」というように己を忘れて他を利すると表現します。
それが悲願(最も望んでいること)なのだ、と。
仏教の語源から、利他というのは自意識とは別のところにあるようです。
ここでは己を器として見ています。
仏教ではよく自分のことを器として表します。
器としての己とは何か。
では、人を器として捉えたときに、器とはなんでしょうか。
これを若松さんは民藝品を例えに説明します。
民藝という芸が難しい字になっている民藝品というのは、人に使われることで輝きをますものです。
ただ見るだけの芸術とは違います。
「民藝の場合は、古くなればなるほど、修繕すればするほどその固有性を強くする。さらにいえば、欠けたままでも美しい。」
用いられるなかで生まれていくのが民藝という芸術品。
これがおそらく人間を器としてみたときに見る見方なのだろうと私には思われました。
そして、この民藝品のすごいところは、その作品をすごいものにするには作ったものではなくて生まれたものでなければならないということ。
「今の願いは私の仕事が、作ったものというより、少しでも多く生まれたものと呼べるようなものになってほしいと思う」
作ると生まれるの違いはなにか。
生まれた芸術とは何かを考えていきます。
例えば、芸術家が作品を仕上げるときにささっと15秒ほどで作品を完成させたとします。
それを見ていた私たちは、なんて雑なんだ、と思うかもしれません。
けれど、その芸術家はいいます。
15秒プラス60年と見たらどうか、と。
自分の「考え」から出たのではなく、「手が学んでいたさばきに委した」、だからこそそこに「美」が宿ったのだと。
これが作品を生むものだという考え方です。
私の意識とは離れて作品が生み出されます。
私は器であるけれど、使っていくと美しくなる器であるけれど、それは勝手に美しくなっていく、勝手に生み出されるもの、と私は解釈しました。
利他と無為
利他といったときに無為を想像するとよいと考えられます。
「自らの意を超えたところで動かされること、すなわち無為の状態においてこそ、利他は成就しているのかもしれません」
そして若松さんは最後のくくりのところで、美について語ります。
「柳宗悦にとって、人間の争いを止めるものが美でした。美は人を沈黙させ、融和に導く。さまざまなことについて対話し、その彼方に何かを見出していくというよりも、沈黙を経た彼方での対話ということを、彼は考えていたのでしょう。」
利他と言うのもこういう美に関係するものだ、と。
利他とは何か-まとめ
ここを読んできて思うのは、自己意識というのは自分のようでいて自分ではない。
言葉によって、概念によって考える時に、どうしても他者が浮かび上がってくる。
それでも、自分を生きる時にはまず私の考え方が先に立つのではないか、と。
〇〇の考えたかによれば〇〇だから、こういう考え方に決定しようとしたとき、自分を生きていないことになる。
ただ比較だけをする。
〇〇さんの考えはこう、☆☆さんの考えはこう、私の考えはこう。
このように比較しながらも自分の考えをだしていくことしか自分を生きることにならないのではないか、と。
しかし、ここで矛盾するのは言葉には概念化が入っている。
言葉にしたとたんに、過去の私の考えたかはこうだから、過去の私に従おう、ということがありうる。
そうした場合にまた概念に従うことになる。
ではどうしたらいいのか。
無意識に任せる。
私の手がその作品を生み出したのだ、と。
私の身体がそう動いたのだ、と。
私が勝手に助けてしまったのだ、と。
それは日常生活の中で勝手に生み出されているものなのだ、と。
わたしがじかに見て感じているものなのだ、と。
これは自分を超えているけれど、自分であるともいえる感じ方です。
まとまらない回になってしまいました。
では、お聞きいただいてありがとうございました。