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宇佐美りんさん「社会はどこに向かうのか」の感想

おはようございます。けうです。

 

私たちはどう生きるのか-コロナ後の世界を語る2」を読んでいます。

本を読んでいて感じたこと。

この中でも人間の「命」に重点をおいているのか、「命以外」に重点をおいているのか。

一度はその二軸で捉えなおすと、議論している内容が入ってきやすいと感じました。
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「命」に価値を置きすぎる理由を追う

人類全体の命を重視する場合、データに基づいてもっとも良いと言われる対策をとっていけばよいとみなされます。

人々は閉じこもり、その中でパンデミックがすぎるのを待つという対策。

コロナを一種の戦争のようにみている視点です。

私が日本の戦争において、すぐに思い浮かんでくる言葉は「欲しがりません、勝つまでは」です。

私は何かを達成するまで、自分を出してはいけないのか。

嵐がすぎるのを待たなくてはいけないのか。

そのように我慢をしいられているように思ってしまいます。

けれど、一方でそのようにしなければ「命」が脅かされてしまいます。

その個々人を守るために、みんなで規則に従う。

この視点はそれでも、忘れてはいけないのだろうなとも思います。

そして、哲学では考えることによってこの二軸のどちらか極端になることを防ぎますが、

「『命』って大事だよね!これを主軸にしようよ。」

一見、こちらの意見に流されてしまいそうになります。

それはなぜなのか。

その答えを宇佐美りんさんのインタビューから見てみようと思います。

彼女は話題の小説家です。

賞を一気に2つ獲得して、今もっとも勢いのある作家さん。

そのインタビューでも、考えさせられることが多かったので、紹介したいと思います。

宇佐美りんさんのインタビューの感想

宇佐美りんさんの話は現実に即しています。

彼女は、ある悩みがありました。

自分が「におう」のではないか。

でも、その悩みを聞ける人はいません。

聞いたとしても、遠慮して嘘をいわれるかもしれないからです。

「におう」とか「くさくない」と言われたとして、その言葉がどんなことを意図しているのかつかめないのです。

 

宇佐美さんは言います。

この「自分がにおうのではないか」という不安は、この原稿を書き始めるまでは誰にも打ち明けることはなかった。それくらい、においや清潔感にまつわる問題は繊細なものだ。

そして、いじめで「菌」「くさい」「きもい」といった言葉が用いられるのも、それが本人にとってわからないからだと語ります

 

これらの言葉の非常に悪質なところは、相手を貶めるにとどまらず、『お前は他者を不快にさせる存在だ』と相手に刷り込むところだ。

と語ります。

 

人が人から聞かなければわからないこと。

それに対して、自分ではわからないけれどそうなのだ、と人は受け入れるしかないといいます。

そのわからないことを確かめるには、根気がいるからかなと私は考えました。

まず、とても仲の良い人を作らなければいけない。

かつ、その人が私に遠慮することなく本音を言ってくれなければいけない。

そして、私がそのにおいを治したいとすれば、その改善まで付き合ってもらわなければいけない。

治ったかどうかがまた自分ではわからないからです。

このような関係性までが求められます。

 

しかし、今の世の中は選択史が狭まっていると宇佐美りんさんは述べます。

「自分でコントロールできない情報は、遠隔では共有されづらい。良くも悪くも、見たくないものは見ることなく、見せたくないものは引っ込めたままになる」

においは遠隔では隠されたままです。

私たちが理念で良いと思ってきたものはそのまま良いものになりやすく、時代と共に移ってもよい価値観の偏移は受け入れづらくなることかもしれません。

 

そしてこの一文。

「現実世界で接触すること、一緒にいることは、人の体臭を嗅ぎ続けることだ。」

このように宇佐美さんは語っています。

 

おそらく、ウィルスに立ち向かっている医療関係者がみんなが家にいるべきだ、というのは接触した結果、出てきた言葉なのだろうと思います。

けれど、私たちはそのまま閉じこもったまま。

現実感のないまま、その事実を知るのにも液晶に頼ることになります。

 

感染者がでたとか、被害が相当だ、と聞くとき、人は想像するしかありません。

身近に出たとしても、その人はすぐに隔離されてしまいます。

実際に苦しんでいる姿を見るわけではありません。

すると、現実感が薄まって行って、現実とは何か、自分とは何かがわからなくなってきます。

ただ人間として管理されている存在なのだろうか、と。

私はにおいをもった一個人であるけれど、全体の中に溶け込んでいる一人でもある。

今はこの溶け込もうとする力が強く働いてしまっているのではないか、と私には思われました。

自分一人で抱えるようなにおいの問題を放棄したり、軽視したりする見方です。

 

なぜ軽視することになるのか。

人は考える時も、ある正解を求めて考えます。

その指針がなければ、考えることができないからです。

そうしたときに、私一人一人の感覚には焦点があたらなくなってきます。

考察するときに、人間のにおいは人それぞれだから話しようがない。

その人にとっては重大である事なのに、きっと人の命を問題に話しているときに、私がにおいが気になるといったら、バカにされるかもしれない。

どうでもいいと一喝されるかもしれない事態にあるのだと思いました。

そして、そうなったときに、私が軽視されているのだから、私も世界を軽視してもかまわない。

そんな態度にもなっていくのだと思います。

場面設定という見方

しかし、ある場面設定においては、私個人の問題はウィルスの脅威よりも問題になる。

私たちは場面設定も必要かもしれません。

命について語るとき。

私が大事なモノについて語るとき。

実体験に基づいて語るとき。

それぞれの場面設定を用いれば、私の言い分を無下にすることなく聞いてもらえるようになります。

それは、命にかかわることだけではなく、わたしにとって大事なものがあるんだよという視点です。

 

そして、場面設定があるからこそ、今までウィルスを遠いものと思っていた人も、自分が大事にしているものと結びつけばウィルスに関して本気で取り組むことができるのかもしれないとも感じました。

医療関係者が本気になって取り組んでいる姿を見ているからです。

宇佐美さんは友人の音楽「暁」を聞いたときに、空が明るくなる前の時間帯を思い出したそうです。

文字通り、暁の場面を。

そして、それを感じながらその人のことに思いを寄せたと述べます。

聞いている自分はベッドの上で一人だけれど、その友人や世界との距離が近づいたといいます。

そんなつながりを感じるからこそ、このウィルスの状況がどうにかなって欲しいという実感がわくのかもしれない。

私一人を実感して、友達のことを実感して、それから世界を実感する。

自分が大事に思っていることから、世界と接続して、そこから世界の問題にも目を向けられる。

宇佐美さんのエピソードを聞きつつ、私も個人の問題から世界のことに思いを寄せられたと感じました。

 

では、お聞きいただいてありがとうございました。

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