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桐野夏生さんの「これからの世界」について思うことに関する感想

おはようございます。けうです。

私たちはどう生きるのか-コロナ後の世界を語る2」を読んでいます。

この本は20人の知識人がコロナ後の世界について語っていたインタビューをまとめたもの。

その中で前回は東浩紀さんを紹介しましたが、桐野夏生さんを紹介したいと思います。
>>東浩紀さんが語るコロナ後の世界についてはこちら。

 

私はそこまで小説を読んでいるわけではないのですが、桐野夏生さんの「OUT」は読みました。

今でもおぼろげに覚えているんですよ。

この作品を読んだときは衝撃でした。

桐野夏生さんの小説OUTの感想

あるDVにあっている主婦、弥生が夫を殺してしまうんです。

そして、そのことを主人公である雅子に相談するんですよね。

弥生は幼い子供を二人育てている最中です。

そこで、その事実を隠ぺいするために死体の身体を切り分けて、わからなくしてしまうことを雅子は思いつきます。

本当は殺人を犯したのは弥生だったのに、いつの間にか雅子が主体になって事件隠ぺいに取り組んでいるんです。

それぞれ家庭に問題を含んでいるパート主婦4人でグループを組んで、絶対にその殺人がばれないように、集まってその死体処理をして、お互いに秘密を共有していきます。

雅子はとても有能な能力の持ち主だったんですが、今はただのお弁当製造で働くパート主婦。

雅子は家庭が上手くいっていないけれど、なんとなく生きているという背景を持っています。

 

ところが、その事件をきっかけに、雅子がもう一度人生を考え直します。

あるやくざとであったり、雅子は家庭を飛び出していったり。

主人公の雅子はそれでも犯罪者です。

でも、私はすごく心持ちに共感していたし、自分で人生を切り開こうとする雅子をかっこいいなと思っていました。

 

その小説「OUT」のイメージだけを持っていたので、この論文に桐野夏生さんの名前が上がっていたときにどんなことを語るんだろうと思いながら読みました。

「私たちはどう生きるのか」桐野夏生さんのインタビュー内容

心を揺さぶります。

インタビューに書いてある文を抜粋します。

「しかし、棘を内包しないつるつるの顔をした文学は、人の胸を打つことができるだろうか。」

このような疑問を語るくらい、インタビューにおいても人が考えさせられることを語っています。

棘を持って社会を語ります。

まだまだ良くならない社会の女性進出だとか、低賃金だとか。

それに伴って出てきた「自己責任」という言葉に関して。

「企業に都合の良い規制緩和が進むと同時に、管理に都合のよい概念もちゃっかり生まれるのだから、始末に悪い。」

きっぱりと語るのはかっこいいなと思いました。

概念の良い悪いも考えているんです。

そして、印象的な言葉がこちら。

「『正義』は、あらゆる人間をねじ伏せることのできる、便利な言葉だからだ。」

「正義」という概念の移り変わりについて

文字の概念は変わっていくことを私は感じました。

古代ギリシャ哲学の「正義」には、そんな意味は含まれていなかったと思われます。

ただ「正義」は「善い」ものとして語られていた。

それが、今では「正義」という言葉を聞いたときに、「正義」が暴力を帯びた概念を持ったことに関して私たちはしっくりと来てしまう。

概念の移り変わりを端的に感じさせてくれたと私は感じました。

 

そして、この「正義」という言葉の概念の逆に使われている言葉が「犯罪」です。

桐野さんは、今ではインタビューで「どうして犯罪者が主人公の話を書いたのですか?」

という質問にびっくりしたといいます。

 

それほどまでに現代では、犯罪を悪として、自分たちを悪とは別だと勘違いをしていると。

犯罪を犯した人というのは、私たちの周りにありふれている人でもある。

人間は単純ではない。

何かしらのきっかけがあれば、同じような境遇に置かれてしまえば、あなたも同じようなことをするかもしれない。

それなのに、犯罪者と自分は違うと見なしてしまっていて、想像力が働いていないと桐野さんは述べています。

例えば、幼児虐待で逮捕された結愛ちゃんの母親はDVを受けていて、毎日正座させられて、何時間も執拗な説教を受けていたといいます。

その結果、何が正しいのかも感覚がわからなくなり、毎日、どうしたら叱咤されずにすむのかということしか考えられなくなってしまった。

その自分の状況から、何が犯罪になるのかもわからなくなってしまった、と考えられます。

けれど、この母親だけが特別なのではない。

「理念に突き動かされて、失敗や罪を犯すのも、人間の姿なのだから」

人間の姿には普遍性がある。

だから、主人公に犯罪者がいるというのは、人間だから当たり前のことでもあって、それが問われる問題では昔はなかった。

けれど、今はそう聞かれるようになってしまっている、と桐野さんは語ります。

問われることに関しての違和感が今は出てきている、と。

「正義」を助長する仕組み

このことに関して、今ではネットで関連した記事を調べていくと、自分に都合の善い事ばかりが集まると言います。

本当ではないのに、本当ではない事の証拠が積み重なっていって、あたかもそれが真実であるかのように私たちは思い込んでしまうのです。

あなたも思い込んでいるかもしれないし、私も思い込んでいるかもしれない。

昨日の東さんのインタビューにつながりますが、何が正解なのかが「わからない」。

それなのに、「正義」と「悪(犯罪)」を明確に線引きしている現在を憂いているのではないか、という印象を桐野さんから受けました。

「正義」とは何か

私の考えから行けば、正義とか悪という概念は社会にいるうちに出来上がっていくのではないかと考えています。

人間がそもそも持っているものと、社会とを結び付けたときに、それが社会情勢に応じて悪になったり正義になったりする。

例えば、バイキンマンの味方になった視点でみれば、正義の味方といわれるアンパンマンも悪になるように。

ここで考えたいのは、正義とか悪は相対的な概念ではなくて、本質的なものがあって、正義の味方のアンパンマンは正義の味方でしかない、というような絶対主義的な概念です。

私たちは絶対主義に従って行動する。

私たちが何かに従って行動しようと決める時は、自分で決めた正義に従って行動しようと思います。

そのときに、それが絶対的な正義でないと私たちは行動ができなくなるということがあります。

アンパンマンが正義の味方でないとその時点で行動ができないので困るのです。

なので、絶対は必要なのだと思うのですが、私はこのときは絶対主義でこのときは相対主義というように、都合よく自分で分けてしまうのもよくない気がしてしまいます。

それでも、ある悪をすれば犯罪になって、それは良くない事だということも私は知っている。

なので、これが絶対的だと語る時、そこには単純な絶対があるのではなくて、一つ一つの絶対的なものは、そこに複雑性を含むと考えておけばいいのかもしれないな、とも思いました。

例えば、ダイエットに関して言えば、たんぱく質摂取でも太るといわれるけれど、たんぱく質は体を引き締めて見えるようにする効果が大きい。

そして、見た目がヤセて見えることはダイエットにも含まれる。

そうしたときに、元のダイエットの定義を決めてから議論したり方針を決めていくことが間違いが少なくてすむというようにも感じました。

本当に減量が目的とか、ステキに見えることが目的、など。

概念を決めてから議論していくことで、議論がなり立つと感じました。

 

では、お聞きいただいてありがとうございました。

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