天才と秀才の違いが言えますか?
- 天才⇒生れつき備わったすぐれた才能
- 秀才⇒すぐれた学才、またその持ち主
(広辞苑)
天才だと言われている有名人がこぞって、私は天才ではない、というのをよく耳にします。
それはなぜなのでしょうか。
天才と秀才を区別する
天才は生まれながら(先天的)にその分野の才能がある場合を言います。
それに対して、秀才とはその分野を学んで(後天的)にその分野の才能を示す場合を言います。
- 天才⇒先天的
- 秀才⇒後天的
ここの区別で考えうることは、人は学ぶことによって秀才になる、ということです。
なので、前提として学びをそれなりにやった場合には、秀才と天才の区別は表面的にはつかなくなります。
人はその才に優れている人を天才と言うからです。
意味によっては秀才も天才に入れている場合があるのですが、ここでは先天的な天才について語っていきます。
例えば、歴史に伝えられる哲学者は天才と言われていますが、多くは後世の人がそのように呼んでいます。
哲学者はその時代では評価されていない場合があり、後世に評価されたからです。
それはなぜなのか。
当時、理解がされていないからです。
私は以前、天才とは自分の理解を超えた人物のことだと述べました。
>>天才の正体とは
つまり、その物事に精通している人の理解を超えている場合に、その人から天才だと評価されるのです。
天才とは他者からの判断でしかわかりません。
もし、自分で自分のことが天才だと思った場合、それは他者からの目線になります。
他者の目線から見た天才
単純に人に言われたから、というわけではなく、人間は人と人との間で成り立っているという視点(間柄的人間)からも説明できます。
ふいに思考が降りてくる。
そっか、こういうことなんだとわかる。
自分で自分の理解を越える。
なぜ降りてくるのかわからない。
いつそれが再現できるとも知れない。
わからないから自分が不安になる。
私は自分がなくなると天才だと思う。
そこに優越感はなく劣等感が残る。
つまり、私の中に「私」と「私ではない私(他者)」がいて、「他者の私」が「私」を理解不可能な様子を映し出しています。
「私」と「他者」が私の中に存在しているということ。
でも、なんで閃いたのかわからない…
閃いた私に「私」と「他者」を見ます。
「他者」が「私」を理解できないものと見る場合、その天才性を見るとともにそれを理解できない「凡庸な他者の自分」を受け入れることになります。
「凡庸な他者の自分」とはいわゆる私の中の「他者」と同じ意味なのですが、それは私が「他者」を理解可能だと見ていることを意味します。
例えば、哲学で「私とは何か?」という命題は古くから存在しています。
しかし、「他者とは何か?」という命題は社会的な意味において、社会学が説明してくれています。
私達は社会性をおびる「他者」がより規定されたものだと考えます。
- 「私」⇒哲学的にいまだ解明できていない理解を超えているもの
- 「他者」⇒社会学的に理解できうるもの
人は「私」を考察する場合に、誰しも理解ができない部分が存在しています。
それが目に見える形、文章だったり、絵や音楽だったり、そのような見える形で表されたときに芸術性を感じ、その中に理解を超えた天才性をみます。
それは人が誰しも持っている天才性です。
他人に理解をしてもらおうとして、「私」の中の理解できない部分を伝えようとする。
その理解が社会的に解説できる(理解される)と秀才です。
他人の理解を超えてしまえば天才になります。
理解される才能に優れた人は、そのような意味では秀才と表現されるのです。
でも、どうして理解しやすくできるんだろう⇒天才
例えば、有名人は有名になっているという点から、何かしら社会性に秀でたものを持っています。
その場合、天才性をもっていたとしても、それを秀才の能力によって人々に伝えます。
天才という自分の理解を超えることは、「凡庸な他者の自分」や他人には伝えられないからです。
「ゲンロン戦記」からみる天才と秀才
秀才は理解ができうるもの。
反対に、天才は理解を超えたものだと述べました。
一般のイメージでは、天才>秀才という関係性が用いられていますが、それを崩していきます。
このことを「ゲンロン戦記」(2020 東浩紀)に書かれている「ぼくみたいなやつ」と「ぼくみたいじゃないやつ」を例に見ていきます。
私は「ゲンロン戦記」に書かれている「ぼくみたいなやつ」と「ぼくみたいじゃないやつ」を、天才と秀才を用いて解釈してみました。
文字通り「ぼくみたいなやつ」とは自分に似ている人を指し、「ぼくみたいじゃないやつ」は自分に似ていない人を指します。
- ぼくみたいなやつ⇒自分に似ている人
- ぼくみたいじゃないやつ⇒自分に似ていない人
例えば、ゲンロンを作る上で東浩紀さんは、自分のように才能があり自分を理解できる人を「ぼくみたいなやつ」として当初は集めていました。
そして、そのうちに「ぼくみたいなやつ」はどこにもいないと知ります。
みんな「ぼくみたいじゃないやつ」として、自分の孤独を受け入れたのです。
- 「ぼくみたいなやつ」と「ぼくみたいじゃないやつ」のいた世界
↓ - 「僕」と「ぼくみたいじゃないやつ」のいる世界
この価値観の変容を、天才性という視点から読み取ってみます。
世界の区切りに天才性をみる
まず「ぼくみたいなやつ」と「ぼくみたいじゃないやつ」のいる世界をみてみます。
「ぼくみたいなやつ」と「ぼくみたいじゃないやつ」のいる世界
世界を「ぼくみたいなやつ」と「ぼくみたいじゃないやつ」に二分させて、「ぼくみたいなやつ」の中で理解が共有される世界を作りだします。
「ぼくみたいなやつ」の集まりは天才性の集団として、「ぼくみたいじゃないやつ」には理解ができない集団です。
数の比率としては「ぼくみたいじゃないやつ」が大多数です。
- ぼくみたいなやつ⇒天才性の集団
- ぼくみたいじゃないやつ⇒ぼくみたいなやつを理解できない集団
初めの理解はこのような構図です。
次の世界に移ります。
「僕」と「ぼくみたいじゃないやつ」のいる世界
東浩紀さんは他の論文で「ぼくたちは天才じゃない」と述べています。
天才は集団より個人プレーの方が能力を発揮しやすい性質がある。
それだと、天才ではない大多数の人間は生き延びていけないので、それをなんとかしなければいけない。
つまり、「ぼくみたいなやつ」しか生き残れない天才性をもった世界を崩したのです。
みんなが生き延びられる世界が良い、と。
今までは広い範囲で「ぼくみたいなやつ」を見ていたけれど、理解できない「私」はこの世の中において必要性が低いと感じたのです。
自分の思想を他者に伝えられる秀才に現代の需要をみたからです。
- ぼくみたいなやつ⇒いない
つまり、「僕」の中に天才性を押し込めて、私が「ぼくみたいじゃないやつ」の世界に属すると考えます。
- 僕⇒理解できないもの
- ぼくみたいじゃないやつ⇒僕を理解できない集団。その中に「私」を含ませる。
「ぼくみたいじゃないやつ」のいる世界は、理解が相互にできる世界です。
自分の思想を他者に伝えることができます。
⇒「ぼくだけが天才でいればよい」
僕だけが理解されない自分でいればよくて(哲学の「私」という問いは残る)、社会の必要性に応じるのならば「ぼくみたいなやつ」という区分けをしなければよい。
天才と秀才の脱構築
天才と秀才は現代の需要によって価値観の変容を迫られます。
- 天才>秀才
⇩ - 秀才>天才
という価値観の脱構築(新たな価値観の構築)が起こります。
「天才ではない大多数の人間は生き延びていけないならば、この世界の価値観を崩す」という目的のためです。
社会的に見れば、「天才>秀才」といった価値観は「優生主義といったナチス・ドイツのような悲劇の起こった世界の価値観」を想定しているのかもしれません。
また脱構築と言う観点からでは、この矢印は行き来を繰り返すかもしれません。
天才と秀才のまとめ
天才と秀才を区別して考えてきました。
- 天才⇒先天的で理解を超えるもの
- 秀才⇒後天的で理解できうるもの
個人の中に誰しも天才性を具えています。
(理解できない「私」、古くから残る「私とは何か」という哲学)
そこから、私を「私」と「凡庸な他者の自分」に分けて考えました。
- 「私」⇒理解を超えているもの、天才性
- 「凡庸な他者の自分」⇒理解できうるもの
この考えを「ゲンロン戦記」の「ぼくみたいなやつ」と「ぼくみたいじゃないやつ」という区分けから見てきました。
この区分けを変えると、天才と秀才の価値観の変容が起こります。
そして、現代の需要が秀才にあるので「秀才>天才」となるのです。
天才だと思われる有名人がこぞって、私は天才ではない、と述べる理由。
そこには秀才と天才の脱構築が起こっていると考察してきました。
価値観、思考の幅、天才の見方、「私」という定義、「ぼくみたいなやつ」という世界。
「私」というものがわからないのだから、あなたはいろいろな世界を解釈することができます。
私はその世界も作り出すことができる