ショーペンハウアーの著書「意志と表象としての世界」ではイデアについて語られています。
意志とイデアは似たものだと。
>>プラトンのイデアとは
では、ショーペンハウアーはイデアをどのように解釈していたのでしょうか。
プラトンのイデアとショーペンハウアーがいうイデアは本質は同じだと言いつつも、違いを言っている個所があるからです。
その違いに触れつつ、プラトンの表現では違っていても、イデアの本質は同じだと捉えている個所もピックアップしていきます。
なぜ本質は同じでも違うのか。
ショーペンハウアーはイデアそのものは言葉で表現できないと語るからです。
人は直観としてしかイデアを感じることができない、と。
まずはそれが何故かを見ていきます。
ショーペンハウアーのイデア論
ショーペンハウアーは「世界は意志と表象である」と述べます。
表象⇒イメージ
というように捉えてみてね!
そして、この「意志」がイデアにあたります。
世界を意志と表象という二面でとらえたときに、一面で世界はイデアなのです。
イデアは永遠不変の実在、ここでの実在は「真」「真理」とか「本当のもの」とか「理想像」などという言葉があてはまります。
ただ世界は表象(心に思い描くこと、イメージ)でもあるので、そのままのイデアの姿を私たちは見ることができません。
イデアの段階
イデアには段階があり、段階の低いイデアならば私たちは認識しやすいとショーペンハウアーは述べます。
例えば、1+1=2といった答えです。
私たちが謎を突き詰めるとき、一つの答えにあたります。
学問として教えられているものは段階の低いイデアにあたるとショーペンハウアーは考えました。
意志の客観化のもっとも低い段階として現れるのは自然のもっとも一般的な諸力である。
自然のこの諸力は、一部は重力や不可入性のようにいかなる物質のうちにも例外なく現象している。
意志と表象としての世界Ⅰ ショーペンハウアー 西尾幹二 訳p289
これはそのもの自体に関して単純だとか、程度が低い、と言っているわけではなく、私たちがイデアとして認識しやすいということを表しています。
ショーペンハウアーは各個人に天才性(生まれつきの能力)があり、イデアを見る能力に各個人において差があると述べるからです。
>>天才性についてはこちら
では、高位のイデアとは何か。
意志の客体性の高い段階になると、個性がかなりきわ立って現れるさまが見てとれる。
ことに人間の場合に、個性は、個々人の人格のいちじるしい違いとして、すなわち完全な人格として立ち現れるのである。
意志と表象としての世界Ⅰ ショーペンハウアー 西尾幹二 訳p291
ショーペンハウアーが言う「個別のイデア」がこれにあたります。
自然法則と違って、人間には一人一人の人格があってそれが個別のように立ち現れてくるからです。
- 自然法則のイデア⇒認識しやすいイデア
- 個別のイデア⇒個人によってしか認識ができないイデア
これは「固体化の原理」といわれて、時間と空間によって数多性がでてくると言われます。
例えば、私たちが徳を語ったとします。
しかし、徳は教えられうるのでしょうか?
ソクラテスはこの問答に失敗していると「メノン」で語られています。
「知ることとわかること」の違いとして詳しく見ていきます。
高位のイデアの具体例「知ることとわかること」の違い
学問的に知られていることを段階の低いイデアとして、わかることを段階の高いイデアとして、「知ることとわかること」に分けます。
- 知ること⇒知識
- わかること⇒知識とは異なった性格のもの
知ることは知識として教えられうること。
例えば、教科書に載っているような内容であり、書き記すことができます。
それに対し、わかることは知識とは異なった性格であり、教えられません。
「メノン」の内容を紹介しながら、その区分けを説明します。
「メノン」から読み取る認識の違い
メノンはソクラテスに問います。
「徳は教えられうるか?」
ソクラテスはその問いに答えようとするのですが、徳を教えられる人物がいないことに気がつきました。
徳を教えるとは、徳が知識として伝えられるということです。
つまり、徳を具えていて伝えられる人物がいないということ。
- 知識として伝えられることは、その知識を身に着けている人
- 徳を具えている人がいない
- 徳を知識として伝えられる人がいない
それでも、みんな徳とは何かを知らないけれど、徳のようなものをわかっていると感じています。
なので、徳のようなものを教えているけれど、規定された言葉にはなっていないのです。
先生⇒徳のようなものを知識として伝えている
イメージで表してみます。
同じシチュエーション、同じ時間、同じ場所で。
そのとき、あなたの感情は様々な形になってあらわれる。
笑っていたり、怒っていたり、眠そうにしていたり。
同じ時間、空間であっても、あなたの感情は違う。
感情が規定されない理由。
徳は人間が思い描く感情です。
知識のような同じ結果、同じ回答になりません。(例えば、毎回1+1=2のような)
徳を行っている人の内面にまで標準をあてたときに、それは徳とは言えない可能性がでてきます。
行動は徳でも、心の中は「悪」だったと予測できることもあるからです。
そしてさらに、知識にしたとたん、言葉とその行動や意味合いが変わってしまう性格もおびます。
しかし、私たちはその知らないものでも探求できるように感じます。
その理由を、イデアを永遠不変の実在として、生まれてくる前に私たちはイデアを見ていて、それを忘れているだけだとプラトンは言うのです。
では、徳のイデアを「知ることとわかること」に分けることによって見ていきます。
徳を「知ることとわかること」に分ける
わかることに関しては相(本質的特性)があって、これはイデアとは別のものだと「メノン」では表されます。
イデアが感覚的事物とは別に、それ自体で存在すると疑われだしているのです。
プラトンは自然物にはイデアが含まれているけれど、他の物には含まれていないと言及しています。
ここにショーペンハウアーとの違いがあります。
- プラトン
・知識(知ること)⇨イデアがある
・感覚的事物(わかること)⇨本質的特性
・自然物以外にはイデアが含まれない - ショーペンハウアー
・知識と感覚的事物⇨イデアがある
・自然物以外にもイデアが含まれる
ショーペンハウアーは感覚的事物もイデアに含まれると解釈しました。
例えば、「1+1=2」。
この問題に正解したときに、ショーペンハウアーでいえば知識と感覚的事物が一致してイデアの認識ができていると考えます。
- 意志⇒本能のようなもので、そのもの自体は捉えることができない。
- 表象⇒イメージなので、その個人によってのイメージがある
私は捉え方として、この時点でショーペンハウアーは現象学(現象によって解釈する)的な解釈をしていたのではないかと考えています。
- 表象の世界⇒現象学的な理解ができる
現象学との違いは、世界には意志(本能、イデア)があると考えていることです。
(ショーペンハウアーは見ることができないけれど意志の世界もあると考える)
現象学は客観的な世界を実在ではなく、現象として考えます。
語ることができない意志の世界は言葉で表すことができません。
- 表象の世界⇒語ることができる
- 意志の世界⇒語ることができない
ショーペンハウアーは語ることができないものを言葉で感じることができるように、意志の世界を語っています。
例えば、感情も意志の世界です。
私たちは感情を語るけれど、その感情は時と場合によって同じ感情はでてきません。
「悲しい」と語ったとたん、あなたの今の感情は「悲しい」と完全に一致するわけではないと考えます。
悲しいと思った時と、悲しいと語った時には時間や場所の違いがあります(数多性)。
なら、そのイメージをかぎりなく意志(イデア)に近くしてみたい!という試みがショーペンハウアー哲学にはある
ショーペンハウアーとプラトンのイデアの違い
ショーペンハウアーは「知ることとわかること」は同じイデアに含まれると語ります。
それはなぜかというと、知識も感覚的事物も私の現象として現れるからだと説明します。
世界は私の表象(心に思い描くこと)だからです。
ただイデアに段階を設けました。
知識に相当するのが段階の低いイデア、わかることに相当するのが段階の高いイデアです。
現象として、現代科学でも正確な「真理」を述べることができないことを思い浮かべるとわかりやすくなります。
例えば、科学は今のところ正しい知識としてあるものでも、それが間違いである可能性は否定できません。
そして、個人が正しく知識を理解できるのかも人によります。
発明される前⇒みんなわからない(天才だけが明確にしようとしているもの)
発明された後⇒段階の低いイデアになり、みんなに理解しやすいものになる
さらに言えば、ショーペンハウアーは芸術品とはイデアを想起させるものだとしている
しかし、ショーペンハウアーはこのイデア理解を本質においてはプラトンも言いたかったのではないかと解説しています。
- 1+1=2だとすれば、そのイデアを見ていることにならないの?
- ほぼイデアだと思う!でも、その答えとは別の回答の可能性は排除できないよね。
- 排除できないけど、イメージの世界ではそのように語れる
- みんなが認識しやすい「1+1=2」を低次のイデアとしよう
この問答のように、ショーペンハウアーにとって世界を二分割することで語れるものにしたのです。
ショーペンハウアーが解釈しているプラトンのイデアの内面的な一致を述べていきます。
ショーペンハウアーが述べるプラトンの言葉
ショーペンハウアーは元気な一匹の動物が目の前にいたとしたら、プラトンならばこう言うだろうと予想してこう語ります。
「この動物のそなえているのは真の存在ではなく、見かけだけの存在、たえまのない生成、相対的な現存であるにすぎない。
これらは存在とよんでもいいが、それと同じように非存在とよんでもいっこうに構わない。
真に存在しているものは、イデアのみであり、右の場合、動物のかたちをとってイデアが模像されているのである。
いいかえれば、真に存在するのは、動物それ自体であって、これはそれ自体で、いつも同一の仕方で存在している。
つねに存在し、けっして生成することも消滅することもない。」
意志と表象としての世界Ⅱ ショーペンハウアー 西尾幹二 訳p12,13
プラトンは無数の個体と個別的なもののかたちをとってあらわれるものはイデアの模像であって、イデアはこれらに対し模範という関係に立つ、とショーペンハウアーは語ります。
- イデアの模倣⇒数多性(空間と時間)によって生じる
現存である動物は生成されているし、消滅する - イデア⇒同一の仕方で存在している
動物それ自体は常に存在しているが、生成も消滅もしない
ショーペンハウアーはさらにプラトンになりきって続けます。
「さて、われわれがこの動物のうちにイデアを認めるかぎりでは、いまわれわれの目の前にいるのはこの動物であろうと、それとも何千年前に生きていたその祖先であろうと、それはまったくどうでもよいことであっておよそ意味がない。
さらにまた、その動物がここにいようと、どこか遠い国にいようと、あるいはその動物がすがたをみせる仕方、姿勢、動作がこれであろうとあれであろうと、さいごに、その動物がこの個体であろうと同種のなにか別の個体であろうと、そういうことは総じてまったくどうでもよいし意味がない。」
意志と表象としての世界Ⅱ ショーペンハウアー 西尾幹二 訳p13
ここでショーペンハウアーは模像ではなく、イデアとして見ています。
本質において、イデアの模造でもイデアでもよいとショーペンハウアーは語るのです。
なぜなら、ショーペンハウアーはイデアに「意志と表象」を見ているのであり、意志にあらわれでてくる現象は一つだと述べるのです。
なので、分けることに意味はない、と。
低位のイデアの現象は高位のイデアの現象に飲み込まれて、一つのイデアとなって出てきます。
「イデアはいろいろあっても現象する意志は一つであること、および意志はだんだんと高度の客観化をめざして努力するもの」であるからです。
最後まで引用します。
こうしたことはすべて空無であり、ただ現象にのみ関わることである。
ひとえに動物のイデアのみが真の存在を持ち、真の認識の対象となるのである」
意志と表象としての世界Ⅱ ショーペンハウアー 西尾幹二 訳p13
ショーペンハウアーはプラトンのイデアを各個人にとっての現象だと述べます。
実際のものがどのようなものであれ、あなたが認識したイデアのようにしか物事は映し出されない、と。
つまり、ショーペンハウアーはプラトンになりきって語りつつ、イデアの本質の同一の部分を語ったのです。
そして、数多性を除いた動物のイデアを真の存在として、認識の対象とみているのです。
(ちなみに、この後にショーペンハウアーはカントになりきって、イデアと物自体の本質的な一致点を語っています。)
すべてに細かな違いはあるけれど、あなたにとってはそれがイデア。
ショーペンハウアーのイデア解釈
ショーペンハウアーは世界を現象だけではなく、意志としても見ています。
なので、現れ出てくる現象はそのときの自らの意志によります。
お腹が空いていれば食欲として、興味が勝っていれば知識欲として意志が個人の現象としてでてきます。
ショーペンハウアーにおけるイデア解釈では、イデアは意志なので、現れ出てくるものの闘争が密かにあり、闘争にうちかったものが現象として現れるのです。
人によっては物理法則や数学、様々な学問は理解できません。
知識も人によって正しくは伝わらないのです。
そこは能力差がでてくるのであり、何が得意か不得意化によって、出てくる現象が違います。
イデアはその人個人の現象となってでてくるのです。
ショーペンハウアーのイデアのまとめ
ショーペンハウアーとプラトンのイデアの違いをまとめます。
プラトンは「知ることとわかること」をわけて、知識(しること)をイデア、感覚的事物(わかること)を本質的特性に属するとみました。
ショーペンハウアーは知識と感覚的事物をイデアとして包括します。
世界は表象であり、ここはプラトンと同じです。
本質的な点は一致すると述べました。
そして違うのは、世界は意志でもあるのです。
ショーペンハウアーのイデアは「意志と表象」において見られます。
現象として現れるイデアは、意志と表象によって下位の段階のイデア(認識しやすい)がでてくるのか、高位のイデア(認識が難しい)が出てくるのかが決められています。
世界がどう現れるのかは個人における現象によるのです。