「現代に生きる人間の倫理」
第4節「社会と個人」
4.社会学とベルクソン
ミルを先に扱ったけど、今回扱う社会学者コントはミルと交流があった
(社会学用語図鑑p30)
- 社会学のはじまり
- コントとスペンサー
- ベルクソン
参考文献 「社会学史」(大澤真幸)、「「社会」の誕生」(菊谷和宏)、「ベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか」(金森修)、社会学用語図鑑、続・哲学用語図鑑、つながりの哲学的思考(米山)
社会学のはじまり
「社会学史」を参照に、社会学がどのようなものかを見ていきます。
社会学とは
- 社会学は「近代社会の自己意識の一つの表現」
- 社会学の歴史はそれ自体が社会学になる
- 産業革命やフランス革命を経た、今風の社会にならないと社会学にならない
- 社会学自身が社会現象
- 社会学の固有の主題は「社会秩序はいかにして可能か?」という問い
- 社会学は「起きそうもないことなのに、起きているのはなぜか?」という気持ちが前提
古代の哲学
「社会学史」ではアリストテレス哲学(人間は政治的動物である)がなぜ社会学ではないのか、ということをこのように語ります。
それは、アリストテレスのアイデアは、彼が実際に生きている現実の都市国家に密着しているからです。
そこから得られる感覚が、彼の中で、人間や共同体のあり方の本質であるというふうに自明視されている。
たとえば、「最も望ましい社会は都市国家である」というのは、彼自身が生きている社会そのものです。
それが最も望ましく、そしてそこに社会が向かっていくことについて、何ら疑いがない。
現に自分がいて、ある程度の心地よさを覚えるものに対してさえも、それが自明とは思えない、それが必ずしもそうなるとは限らない、そういう感覚をもたないと社会学にならないのです。
「社会学史」p43
偶有性⇒半ば規則的で半ば偶然の出来事を表現する言葉
中世と近世の哲学
アリストテレス哲学では問いの感覚がなかった。
では、中世や近世ではどうなのでしょうか?
中世や近世では、「神」が前提になっていたので、まだ社会学的思考が出てきていないと筆者は述べます。
道徳心もなにも神が前提になる。
理論に神が前提。
例えば、ホッブズの社会契約説。
自然状態はD(数字は適当)のお互いに争う状態(お互いに自己保存のために争う権利を持っている)。
この状態をA(平和状態)にするにはリヴァイアサン(聖書にでてくる海獣)にみんなが自然権を託すのが良いとしました。
このDからAに移るのに、神のような存在を持ち出しているのです。
だから、世界から戦争はなくならないし、武器も保有する
フランス革命
神の世界から近代への移行は、フランス革命(1789年~)が特徴的です。
(この段落では「「社会」の誕生」の解説を中心に見ていきます。)
フランス革命は絶対王政(宗教的権威)から、人々を解放しました。
フランス革命は啓蒙思想によって発生。
神の代わりに「自由・平等・平和」を人々が信じることによって、近代に移行していくのです。
つまり、王権が神授でないことはいうまでもなく、さらに以後はトクヴィル(政治思想家)のような貴族さえももちろん含むすべての人間(homme)は人民(people)として、人民であるが故に同じ人間なのであり、‐同じ人間として普遍的に認識されるべきだと(啓蒙思想では)主張されたのだ。
‐この世界は、「人民たる人間/人間たる人民」によって織り成される世界であり、もともと自ら働かなければ生活できない貧民という社会の一部しか指していなかった「peuple(people ピープル)」の語は、ここに至って、「人間一般」すなわち人々の意味を持つことになる。
(「社会」の誕生p32)
つまり、フランス革命は、宗教と同様に「人間」というものを「国と時代とから独立して」「一般的なものとして」捉えている。その限りでフランス革命はもはや一つの宗教である。しかしこの宗教はそのような人間把握を「現世と結び付いて」おこなっている。この宗教には神も礼拝も彼岸もなく、したがってフランス革命が提供する人間性はもはや超越的なものではない。
「社会」の起源p34
そこでの社会学の課題は、どうすればそこで社会秩序を保つことができるのか?という問い
社会学の名付け親コントとスペンサー
社会学は、社会学の名付け親のコント(1798-1857)が有名です。
コントが生まれた年は、フランス革命がほぼ終わっている頃。
革命の直後、フランス社会は混乱していたのです。
この混乱をなくすにはどうしたらよいか?という問いが社会学
コントは科学の方法で実証的に社会を考察(実証主義)することを社会学と名付けました。
実証主義⇒経験をこえた知識を否定し、観察や実験によって検証できる現象だけを知識の対象とする立場のこと
これと同じく、社会の考察にも科学の方法を取り入れた
コントの三段階の法則
コントは、人間の社会がどのような状態であるかは、その時代の人々の知識の発展で決まると考えました。
知識の発展を3つの段階に分けたのです。
- 神学的段階
(あらゆる事実を神話や架空の存在と結びつけて捉えようとする段階) - 形而上学的段階
(あらゆる事実を実証できない主観的で抽象的な論理で説明しようとする段階) - 実証的段階
(あらゆる事実を客観的に実証できるかたち、つまり科学的に説明しようとする段階)
この段階に応じて、神学的段階のときの人々は軍事的段階にいる。
(聖職者や軍人が支配する段階)
形而上学的段階のときは、法学的段階にいる。
(法律家や思想家が支配する段階)
実証的段階のときは産業的段階にいる。
(実業家や科学者が支配する段階)
人々の知識の段階に応じて、その時代の社会の状態がつくられるとコントは説いたのです。
精神か文化かどちらが先かと考えた思想家に徳富蘇峰がいたね
そして、発展していくにつれて理想状態があらわれてくる、と。
スペンサーについても扱っていきます。
スペンサーの社会進化論
イギリスの哲学者スペンサー(1820-1903)は社会進化論を唱えました。
なぜスペンサーがこの文脈で出てくるのかと言えば、スペンサーは英語で「sociology」(社会学)という言葉を最初に使ったのです。
社会進化論⇒自然選択(適者生存)という進化の法則から社会を説明する立場
社会進化論によれば、人間社会は軍事型社会から産業型社会へと進化していきます。
軍事型社会(単純な社会)⇒産業型社会(複雑な社会)
自由放任主義に基づいた産業型社会こそが、理想の社会だとスペンサーは考えました。
(結果的にだんだんと社会全体の利益につながる)
(生物は単純なものから複雑なものへと進化する)
スペンサーが先かダーウィンが先かというのでもなく、お互いに流行の中にいた
日本は軍事的にも産業的にも強くなって、競争に勝たなければいけないと考えた
コントやスペンサーの理論はデータを取りにくい
ベルクソンと「開いた社会」
(続・哲学用語図鑑 参照)
- 首の短いキリンは、上の方にある葉っぱを食べられない
- 首の長いキリンが環境に適応して生き残る
- 今日のキリン
これに対して、ベルクソンはこう考えます。
ベルクソンの進化論(例)
- キリンにもっとよく生きたいというエネルギーが内在
- エネルギーが限界点に達する
- 環境の抵抗を受けつつ、エネルギーが爆発(エラン・ヴィタール)
- 環境に適応した予測不可能な形質の新種がいきなり誕生する
それに、知能が良いものとされていても、人間の平均的知能指数(IQ)は年々上がっているわけではないのです。
だって、いつまでも「酸素が薄くても平気という才能」があっても、次に酸素がたくさんになるという地球変異があったら役にたたない
「社会」の誕生
「「社会」の誕生」では、はじめにこのような問いが立てられています。
社会に生きるということが、これほどまでにつらい営みになってしまったのは、一体いつからなのだろうか?
そして、なぜ?
「社会」の誕生p3
終わらない戦争、いつも働かなければならない、貧困。
このような問題は現代社会に生きる私たちに、上のような問いを投げかけます。
我々は通常「社会」を思い浮かべる際、誤って社会制度ないし社会システムを、つまり「統合された一つの全体としての社会」を思い浮かべる。‐しかし、この「自然な」観念、この自明で常識的な社会認識こそが、自由を、したがって現実を失う死への道なのだ。
「社会」の誕生p165
生(生命)とは、何だろう。ベルクソンを踏まえて答えれば、それは「物理力の持つ必然性にできる限り多くの不確定性を付け加えようとする努力」であり、「すなわち物質の只中を走らされている意識」、つまりその不確定性、非決定性、自発性において単なる「物」、単なる物質と区別される運動であり変化そのものであると言えよう。-この意味において生命とは、生きるとは、自由で創造的であることそのものである。自発的変容や創造的自由は、有機体(身体)の性質ではなく、かえって有機体(身体)が生の一様態なのである。
「社会」の誕生p150
現実離れしてる気がする…
日常的な飛躍「純粋持続」
知覚とは、なによりも対象の固定であり、対象の省略的で概念的な把握、対象の形骸化(けいがいか)を意味している。知覚とは、本来そうであるはずの対象の豊かさを削減する行為だ。‐その単純化のおかげで、僕らは日常的な世界をなかば機械的に生きていくことができる。
「ベルクソン」p56
ベルクソンにとって、言語とは、持続する世界を放擲(ほうてき)して、この複雑な世界のなかをある程度的確に動き回るのに十分なだけの素描を、固定し、決定するための装置である。ことばは、流れを押し留め、固定し、死物に類似したものにしてから、それを使って明晰な概念世界を築き上げる。概念は純粋持続の死骸である。
「ベルクソン」p60
日常的な飛躍「愛」
ベルクソンは人間は時間を計れるものとして信じているといいます。
それと同じく、人間は当たり前のように信じていることがいくつかある、と。
一つは私の「自己同一性」。
人間は意識がずっとあるわけではありません。
寝ているときや気絶しているときは、途絶えています。
しかし、途絶えていても、私の身体を通して私だと信じることができています。
すると、その日記帳は私の日記帳になり、書くことでさらに特殊性をおびていく
隣人を愛するとは、他者もまた自由な存在であるということを、他者もまた生きているということを知覚し承認し尊重することである。‐他者が、私が自分の中に直視しているのと同じ生命であるかどうかは、可感的にはわからない。‐そうである以上、この尊重、この配慮、他者に対するこの愛は、一つの「飛躍」とならざるをえない。‐実のところそれは、一つの決断、一つのまったき「賭け」なのだ。
「社会」の誕生p154-155
善いと思うから賭けている
「自分を愛するとは、自分が自由で創造的な、常に内発的に変化する存在であるという現実を受け入れること」(「社会の誕生」p154)
「開いた社会」
閉じたものから開いたものへの移行が、キリスト教のおかげであったことは、疑わしいとは思えない。‐そこから、すべての人々は、人間であるかぎり同等な価値を有し、その本質が共通である以上は同じ基本的権利を持つ、とする思想に至るには、ただの一歩でしかなかった。しかし、この一歩が超えられなかった。‐諸権利の平等と人格の不可侵性を含む普遍的同胞愛の観念が有効なものとなるためには、キリスト教の到来まで待たねばならなかった。
「社会」の誕生p131
「つながりの哲学的思考 参照」p28
したがって、自由で人間的な‐もはやこの二つの形容詞は同義だが‐社会を構築し維持するには、他者をそのように創造せねばならないし、みずからもそのようなものとして絶えず他者によって創造されねばならないだろう。でなければ、社会的な世を生きる私は維持できない。ここでいう維持とは、不動・不変化のことではなく、不断の創造のことなのだから。‐この創造を怠ったり破壊したりする結果は‐様々な水準と様々な様態での‐死なのだ。
「社会」の誕生p159
善くなると思うものには「賭け(信じる)」ればいい