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「日本哲学の最前線」から-千葉雅也さんの「生の実践」を読んでの感想

おはようございます。けうです。

 

「日本哲学の最前線」山口尚さんの本を読んでいます。
>>「日本哲学の最前線

3章「偶然の波に乗る生の実践」千葉雅也さんの章を読んでの感想を語っていきます。

前回は1章と2章を扱いました。
>>「J哲学から不自由論」

 

 

まずまとめ。

千葉雅也さんは実践の哲学者です。

哲学を現実に実践するために、千葉さんは哲学者から小説家にもなろうとしています。

その背景にあるものは、変化です。

変化することは執着や固執から離れることであり、それ自体が喜びだ、という態度は彼の生活にも及びます。

そして、これを具体的にするための2つの言葉を引用します。

 

・意味的切断

・非意味的切断

 

それぞれを説明します。

説明していくことで生の実践とは何かを掴んでいきます。

「意味的切断」と「非意味的切断」の違い

まず意味的切断です。

意味的切断とは

意味的切断とは、私たちが意味をもって「これはもうやる必要がないからやめる」と止めることを言います。

論理を尽くして言って、例えば、これ以上成果があがらないとわかればそこでやめる。

朝からバナナを食べることがダイエットにいいといわれていたけれど、かえって体重が増えた。

推測するに、私にこの方法は向いていなかったのだと判断してやめるようなことを言います。

「それ意味ないよね?」と自分で言えるような状況にしてやめる判断です。

非意味的切断とは

非意味的切断は論理的な説明をいれません。

失敗したからやめる、逃げ出したくなったからやめる、なにかやる気になれないからやめる。

論理的ではないけれど、やめたくなったからやめる。

このようなことが非意味的切断です。

 

千葉さんは、非意味的切断を重要視します。

そもそも人間はそのように変化してきたのであり、その変化の先にあたらしい「生成」があると語るのです。

今までの人間社会だと、意味的切断が重要視されてきているので、対する非意味的切断を見ていこうとする態度です。

非意味的切断の具体例

例えば非意味的切断が言われているのは読書です。

非意味的切断の具体例-読書

本を読み進めていくと、あきてくることがあります。

一冊読みとおすのが良いと思われているのに、途中でやめてしまう。

それは今の自分の興味が続かなかったからかもしれないし、本のその部分だけをもっとよく知りたくなって他の本に移ったのかもしれない。

ただ意味はなく読書を中断します。

 

ただこうしたときに、意味なく切断したので、自分で意味を生成したくなってくるのです。

私の行動は意味がなかった。

それを解釈しなおすと、その時点ではなかった意味が現れてくる。

そのような生成を変化によって作り出すという態度にもなります。

非意味的切断の具体例-笑い

他にも、例えば笑いです。

私たちは何かの輪の中にいるときに、その中の登場人物になっています。

こどもといれば母親。

職場にいれば従業員。

友だちといれば、友達の1人。

その中で、その役割をいったんやめてみることは新たな側面を生成すると述べます。

その登場人物になりきっていれば起こることのない変化や違和感を笑いとして楽しむというもの。

 

子どもに算数を説明していて、1+1は2だよね、というように勉強の場面で語っていたとします。

そこに実際に食べ物を持って来て、ビスケットをだして砕いてみせました。

「1+1は2だよね。増えるイメージだよね。じゃあ、このビスケットを砕くよ。はい、二つになった!けど、減った!はい、おやつ。」

おやつを足されることを喜ぼうとした子は、意味解釈の違いに違和感を覚えたり、その動作によってはちょっとした笑いを引き起こすかもしれません。

この登場人物からのズレた対応は生成変化を生み、笑いや違和感を呼び起こします。

これも非意味的切断に関連づけられます。

私はその登場人物でいようとすることをやめるからです。

非意味的切断の具体例-小説

千葉さんの小説を紹介していました。

千葉さんの小説では、まず主人公視点で物語が語られていきます。

電話で主人公は彼女と話をしました。

すると、視点が彼女に移って行って、彼女が主人公になったかのような場面展開になります。

初めは主人公の目でしかわからなかった状況の場面が書かれていたのに、次の場面では彼女しかわからない視点が登場していたりしています。

これは、小説の規則を打ち壊して新たらしい解釈を誘っているそうです。

 

さらに、視点自体が変化するということは、自分が主人公であるという視点の変化が見られています。

私が一人の人物ではなくなったので、彼女の方から見た彼女の風景が小説に描かれるようになりました。

主人公が電話越しでは見られない、彼女が見ている冷蔵庫の中身が語られています。

読者を混乱におとしいれるのですが、なんとなく物語は進行していき破綻していません。

物語がくずれていないのならば、読者の出番になります。

自分で物語が読めているので、その意味解釈を自分でしていくのです。

自分の既存の読み方とは違う読み方なのですが、でも、自分で物語を追えている。

実は筆者意図しないところで、読者にも変化を強いるような書き方をしているということです。

非意味的切断と生成の実践

笑いにしても、その人が起こす行動にしても、私たちが意図しないものを前提としたことから行動が起こっている。

私はずらされることで笑いを想像し、新しい意味解釈を創造し、新たな行動を試みようとしてしています。

そこにまた新しい意味が付け加わってくる。

意味のないところからの出発が意味を作っていく。

そのような生成の哲学を実践していく。

 

私の文章の書き方もそのような点があるかもしれません。

私は主語をとばしてしまう癖がある。

これはよく指摘される悪い事でもあります。

その度ごとに、読者は違和感に思うかもしれない。

これは誰目線なのだろう、と。

もちろん、その違和感だらけになれば、読者は論を読むことをやめるかもしれません。

でも、読み終えれた人は考えます。

私は何を読んでいたのだろうか。

そこにはどんな意味があったのだろうか。

そこで読者は新しい自分の解釈を自然に生み出しているということになります。

 

またこのヒマラヤラジオもそうなのかもしれません。

私は何か意図を明確に持たないまま、楽しみの中で続けています。

でも、続けられているということは、自分の中で意味を持ち始めているという事。

生成の実践-まとめ

3章「偶然の波に乗る生の実践」を読んで。

意味的切断と非意味的切断を私なりに解釈してみました。

変化するには、意図しないことをきっかけとする場面がある。

そして、その意図しないことがきっかけだとしても、そこには生成がある。

その生成に関して、私たちはいくらでも意味解釈ができる。

生成の中を生きられる。

その生成を楽しみながら生きていく態度は一つに肯定されうるものだ、とこの生成の哲学から読み取れます。

 

千葉さんは私たちが場面設定から抜け出してしまうことに笑いや生成を見ています。

これは不意におこってしまうことです。

それは勉強していなくても、相手が自然とその場面の登場人物にいたとすれば、それから外れたことは変化を生みます。

これが一つ。

意図しない生成。

 

また一つに自らその場面設定を知ります。

この場面ではこうするのが正しい。

みんなこうしている。

それを掴むことが出来ているのなら、それはまた行動によって自分で変化を生み出すことができます。

「みんなが私にこうすることを望んでいる。

なら、ちょっと外れてこんな行動をとってみよう。」

 

この変化には空気を読むのに長けている人も変化を起こせる、長けていない人も意図しないところで変化を起こしている。

このような変化の面白さ、意図せずとも意図しても変化があること、が潜んでいます。

 

世間で言う価値観からはずれて、自分で価値観を作り出す態度や、作り出されてしまう生成に新たな可能性を感じました。

では、お聞きいただいてありがとうございました。

 

 

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