言葉の理解の二面性とは何でしょうか。
まず例題から出します。
言葉の理解の二面性とは
・「水」と「お湯」がある。
・「ホットウォーター」と「ウォーター」がある。
この言葉の言い換えに関して、お湯をホットウォーターということには違いがあることを最初に提示します。
「ある詩の言葉が、対応する決まりに従って別の言葉に置き換えられたとしても、その詩は本質的には変わらないなどとは誰も思わない」
これに従って、ウィトゲンシュタインの言葉の理解について2つに分けていきます。
(「言葉の魂の哲学」参照 古田徹也)
・言葉が他の言葉によって置き換えられると言う側面
・他のどんな言葉に置き換えてもしっくりこないという側面
この二つの側面を包括する全体が、この言葉の意味をかたちづくっているという古田さんの見解です。
では、それぞれの側面を説明していきます。
言葉の理解の二面性-言葉は方便という面
言葉が他の言葉によって置き換えられると言う側面。
例えば、仏教では釈迦が死ぬときに、私が今まで口にしていたことはすべて方便だったと述べます。
方便というのは絶対的な真理ではなくて、その人にとって理解しやすい形で述べただけなのだ、と言うのです。
その場合に、その人が理解しやすい言葉によって、その伝えたいことを述べる。
だから、私は一つの言葉に対してたくさんの言い換えができます。
お湯に関して、ホットウォーターと言うことも、温かい水ということもできる。
この言葉を言い換えることを通して、他の人に伝えられないと私はその言葉を理解していることにはなりません。
だから、言葉を理解したということは、言い換えができることにもなります。
では、もう一方に移ります。
言葉の理解の二面性-他の言葉に言い換えられない
・他のどんな言葉に置き換えてもしっくりこないという側面
もう一方で言えば、それはやはり方便なのであって、本当は置き換えではない言葉を使用したいという心境です。
私はお湯を他の言葉で言い換えたとしても、やはりお湯はお湯しかあらわさないと思っている。
他の言葉でいえば、本質から遠ざかると思っています。
最初のウィトゲンシュタインの言葉にあったように、詩では置き換えるとその詩のニュアンスが違ってしまいます。
それでも、言い換えられることは言葉を理解していることの一つになります。
なので、それを言葉の一つの側面として見る。
そして、その側面と他の側面が合わさって多面的に見たものが言葉の理解なのだ、と「言葉の魂の哲学」では捉えていました。
では、私が本質(他の言葉では言いあらわせない)があるというのはどういうことを意味するのか、をみていきます。
言葉の本質とは何か
ウィトゲンシュタインは言葉の理解の多面性に対してアスペクトの閃きと言う用語を使います。
「ある意味では以前と同じなのに、ある意味では変化している」という事態を指すためにアスペクトという言葉を用いているのです。
アスペクトは相貌や表情のこと。
アスペクトの閃きとは、閃くことによって言葉の表情を一つ追加することです。
例えば、これはさきほどのお湯という言葉に対して、温かい水という意味や、ホットウォーターという意味を与えることです。
見方が同じなのだけれど、そういう意味を包括していると私が自覚したという面において、違う言葉になっているということを示します。
その言葉を考えていくとその言葉に多面性や違った表情が浮かび上がると言うこと。
例えば
①お湯という言葉は議論の対象になる。
②温かい水
③言葉の例題を示すのにちょうどいい。
④何度からお湯だと判断しよう。
⑤ホットウォーターと具体的にどう違うのか。
このような問いやイメージと共に、その言葉自体に多面的な見方が付け加わっていきます。
なので、お湯という言葉を使う場合、もうそれでしか表現ができない、となるのです。
では、それは言葉の本質なのでしょうか?
本質なのかを検討する為に、この言葉の多面性を理解できない人を想定してみます。
アスペクト盲の人です。
アスペクト盲とは
アスペクト盲とは言葉の多面性を理解できない人です。
では、このアスペクト盲の人というのはどのようなことを意味するのでしょうか。
例えば、文脈に即して言葉は使えます。
ただし、その言葉のイメージにおいて複数のイメージを持つことができない、ということを表します。
カネという響きにたいして、私たちはお金やお寺の鐘などを思い浮かべますが、そのイメージを持つことができない人です。
私がアスペクト盲の人を聞いてイメージしたのが、ウェルニッケ失語です。
ウェルニッケ失語の人は流ちょうに言葉を話すことができます。
コミュニケーションは取れるのですが、よくよく聞くと単語の一つ一つの意味が不明になっています。
朝に流ちょうに「天気のいい日ですよね、こんばんは!今日も一日がんばりましょうね。」というような呼称とイメージとの破壊が本人に気がつかずに起きていると言うことです。
このセリフでこんばんはというのは明らかに変なのですが、イメージと呼称が結びついていない為に起きてしまう病気だといいます。
まとめると、アスペクト盲というのはこのような事態をあらわします。
一つのこんばんはという言葉について朝のあいさつと結びついてしまっているのならば、イメージはなくそのような使い方として使用します。
カネという響きにたいして、お金という別の言葉として捉え、またお寺の鐘という別の言葉として捉えます。
言葉の多面性がなくなって、ただ使用する場合に言葉が使われることになります。
術語とか、助詞とか、そう言葉を捉えるイメージです。
だから、そのこんばんはについて説明してといわれると、他の言葉で説明することが出来ない状態です。
それでも、言葉の一つ一つが間違っているだけで、厳密ではないコミュニケーションは取れます。
座ってとか、立ってとか、生活に支障のない範囲のことはできたりすると言われています。
では、ウェルニッケ失語かつアスペクト盲(一つの言葉について色んなイメージを持つことができない人)は生活にどのような支障をきたすのでしょうか。
アスペクト盲は支障をきたすのか
この問いに関して、ウィトゲンシュタインはそんなに困らないんじゃないか?と述べます。
例えば、言葉によって矛盾ばかりいっている人がいたとしても、言葉は言葉なのだから、として見ると言うこと。
その人の行動がしっかりしているのならば、困らないという観点に立っています。
ただし、笑いだとか、しっくりくる感覚だとかいうこととは無縁になるということは主張しています。
例えば、笑いに関して言うならば、おじいちゃんが冷たい、という言葉に関して。
死んでいるのではないかということと、態度して冷たいという2つの側面が浮かび上がります。
その二つのイメージができなくなります。
一つ目の困る点としてはギャクやシャレが理解できなくなるということ。
もう一つはしっくりくるという感覚がなくなるということ。
私たちは、例えば、友人の性格を表してくれと言われたとします。
どんな言葉がしっくりくるだろう、短気、穏やか、優柔不断、勇敢、・・・などいろいろと想像していった挙句に「優しい」があっている、と思いました。
性格を一言で表すということは「優しい」についての言葉の多面性が浮かび上がります。
このようにしっくりくることができない、ということ。
しっくりくるということは言葉に愛着を持っていると言うこと。
①シャレやギャクからなる言葉の笑いが理解できなくなる。
②しっくりくるという感覚がなくなる。
では、アスペクト盲を踏まえ、また言葉の本質とは何かを問うていきます。
言葉がしっくりくるとはどういうことか。
私たちは言葉を選ぶときに、頭の中にそれがあって、「あ、頭の中にあったものは優しいだったんだ!」と気がつくことが真理なのではないかと考えます。
その言葉によってそれがしっくりきたという本質を表していると思うからです。
しかし、気づくためには原理的に、その当のものがあらかじめ念頭にあってはならない、と「言葉の魂の哲学」では述べられています。
なぜなら、ただ文脈を無視して「優しい」という言葉を聞いたときに私たちはしっくりくるということがありません。
この人がいて、この人に合う言葉はなんだろう、と吟味したときに初めて「優しい」がしっくりくるからです。
私たちはその言葉にイメージを持ちますが、2つの面があると説明しました。
ギャグ理解と、しっくりくるという感覚。
しっくりくるというとき言葉のイメージだけに重きが置かれますが、その場の仕様というように、その場で使われて初めて意味がでてくることになります。
おそらく、「おじいちゃんが冷たい」という話をお葬式で言うならば、シャレにはなりません。
その場に即してイメージして、私たちはしっくり来るという感覚をつくり上げているのです。
だから、その全体像なしに言葉は初めから念頭にあるというのは文脈に即さなくなってしまうということ。
それは文脈を無視することで、今のストーリーや今のその人を無視することと一致してしまうからです。
その人を良く見て、よくよく観察してから、その人に合った言葉を選び出す。
そうしたときに、初めてしっくりくるのだ、と本から解釈できます。
言葉の本質に関しての討論
はじめから本質があると説いた哲学者にウィリアム・ジェームズがいます。
「何という不思議な体験!その言葉はまだそこにないのだが、それでも、ある意味ですでにそこにある。あるいは、その言葉以外に成熟していくことがありえない何かがそこにある。」
このように本質があるかのように語ります。
ただここでウィトゲンシュタインは言うのです。
単にジェームズがその言葉に奇妙な解釈を与えただけなのだ、と。
なぜそのような誤解があらわれるのかといえば、「我々がその言葉をある特定のシーンの一部といて了解しているからである」。
例えば、サルがモナリザを書いたとする。
すると、私たちはすごい!と思うのだけれど、サルにとってはモナリザを知らない。
サルにとってはただそのような感じに仕上がっていた、というだけである。
ただ私たちはそのことをはたから見て意味解釈をつけて「すごい!」ということになります。
>>オーラとは
これと同じく、初めからあったように意味解釈をつけてしまうということになります。
さらに脳科学から考察してみます。
右脳左脳分離患者は、右脳で「笑って」という紙をみたときに笑います。
ただし、左脳ではそれを見ていないので、なぜ笑ったのかの理由を意識できません。
音で聞いたり、なにかそのことのヒントを示されると私たちはやっと正解にたどり着きます。
「笑ってという紙をみたから笑ったのだ」と。
しかし、そこにはまだ確定しない事項は残ります。
「笑って」という紙を見ても笑わない場合があるからです。
その人は実験に協力的だったから笑ったのだという解釈ができます。
紙を見たから笑ったのだということは、解釈の一つであることを示しています。
>>右脳と左脳の分離
ただ解釈の一つとして示しているのですが、私たちはそれが正解だったのだ!と思い込んでしまいがちになることも示します。
これは「言葉が魂を持っている」ということの批判にもつながります。
私たちは場面場面に応じて言葉を使い分けているからです。
とはいえ、全体的な批判ではなく、魂を持つという点もあれば、言い換えられると言う点も言葉にはあることを示します。
言葉の場とか、意味の場という考え方をします。
ここにおいて、この2つを包括したものが言葉であって、言葉が多面性を持ちます。
引用します。
「美的感覚にまつわる微妙な違いについてたくさんのことが言えるーこれは重要なことだ。もちろん最初の表現は『この言葉はしっくりくるが、これは違う』というもの、あるいはこれに似たものだろう。しかし、そこからさらに、それぞれの言葉が打ち出す、あらゆる方向へ広く分岐した脈絡を、なおも検討することができる。つまり、最初の判断で片づくわけではない。というのも、決着をつけるのは各々の意味の場であるからだ。」
私はその言葉がしっくりくると思ってそれが本質だと思った。
けれど、さらに考えていくことができる。
なので、これが本質だと指し示すことができない。
そして、その意味の場において状況は変わっていく。
多くを検討したとして、状況は変わるのだから最初の状況に戻ることはできない、ということを示します。
言葉の理解の二面性とは-まとめ
最初に示した二つの点の一つです。
もう一度上げます。
①言葉が他の言葉によって置き換えられると言う側面
②他のどんな言葉に置き換えてもしっくりこないという側面
①は言い換えた場合に方便になりました。
なので、言葉は本質をもっているのか?となったのですが、言葉はしっくり来ても、それはその状況に即した一つの一面であると言うこと。
②のようにしっくりこないと思っていても、その場で合っているように私たちは意味解釈を与えているということになります。
その場を離れて言葉を使用するとき、その言葉は他の側面を発揮するからです。
言葉は単独では魂を持ちえない、ということを表します。
一連の実践そのものによって、しっくりくる言葉を選ぶことができるからです。
言葉の一見矛盾する2つのことを言葉の性質として考えるならば、言葉は多面性を持つということになります。