「現代に生きる人間の倫理」
第1節「人間の尊厳」
2.人間中心主義と人間観の移り変わり
>>1.ルネサンスと人文主義
もしかしたら、文明開化みたいにある権威(伝統など)を根拠にして述べていたのかもしれない
- 人間中心主義とは
- 人間観の移り変わり
参考文献 誰も知らないレオナルド=ダ=ヴィンチ(斎藤泰弘)、世界の名画シリーズ ミケランジェロ画集、訂正可能性の哲学(東浩紀)
人間中心主義とは
14世紀ルネサンスでは、個人が発見されていきました。
>>ルネサンスと人文主義
特徴的なのが絵画。
それまでは署名をすることがなく、絵画は「聖なるイメージの模倣」でしかありませんでした。
しかし、古代ローマ思想、特にプラトンの思想が流入することによって、「模倣」が個人の能力によるもの、という考え方ができていきました。
そこで出てきたのが、レオナルド=ダ=ヴィンチ(1452-1519)や、ミケランジェロ(1475-1564)です。
彼らは万能人(普遍人)の典型として尊敬されました。
万能人(普遍人)とは
万能人(普遍人)とは、力強い意志と幅広い知識によって自分の能力を全面的に発揮できる人のこと。
具体的な例を見ていきます。
レオナルド=ダ=ヴィンチ
レオナルド=ダ=ヴィンチは、すぐれた画家であり、独創的な科学者・技術者でもありました。
有名な絵画は、「モナリザ」や「最後の晩餐」。
絵を完成させることが少なかったものの、絵の途中段階の素描だけでも人々の賞賛を浴びました。
「誰も知らないレオナルド=ダ=ヴィンチ」p195
「人間のする議論の中で最も愚かなのは、魔術を信じて吹聴することである。」
誰も知らないレオナルド=ダ=ヴィンチp248 レオナルドのセリフ
p257
人々は神(キリスト教)を信じる世界観にいた
でも、思想は影響を受けていたといわれているよ
ミケランジェロ
ミケランジェロは彫刻家であり、画家であり、建築家でもありました。
彼の『ピエタ』は当時、彫刻作品の限界を超えた奇跡の作品として評判になっていました。
ミケランジェロは89歳で死去する直前まで、いつも制作をしていたそうです。
晩年には代表作「最後の審判」を描きました。
「私は裕福だったのに、いつも貧乏人のような生活をしていた」と、弟子に語ったと言われています。
「世界の名画シリーズ ミケランジェロ画集」p299参照
この頃に発見された理想的な人間像は、万能人(普遍人)。
それは、芸術だけではなく、知識や美徳を求める姿です。
この理想としての人間像はしばらく続くよ
ピコ=デラ=ミランドラ「人間の自由意志」
人間中心主義として、押さえておきたいのがピコ=デラ=ミランドラ(1463-94)の「人間の尊厳について」。
この本のなかで、ピコは人間の自由意志を強調しています。
ピコの人間中心主義
- 神は人間をあらゆるものの中間にある存在として創造した
- 人間は自分の生き方を自由に選ぶ能力を持っている
- 自由な意志によって神のような存在にも動物のような存在にもなることができる
- 自由な意志のうちに人間の尊厳がある
(参照 倫理の教科書p130)
つまり、人間は神から自由を与えられたので、「人間自らが望みさえすれば地位も才能も獲得できる存在」だと述べられています。
そして、そこに尊厳がある、と。
例えば、「努力すれば万能人になれる」という存在
14世紀のルネサンスでは、個人の発見があり、人間の発見がありました。
そのような人間観は歴史にどのような影響を与えたのか。
倫理の教科書では次に宗教改革に移りますが、ここで簡単に人間観の移り変わりについて見ていきます。
人間観の移り変わり
「人間」や「個人」が発見されたルネサンスから見ていきます。
(特にフーコーの歴史観から見ていきます)
ルネサンス以前⇒ルネサンス後
ルネサンス以前、絵画や書籍において個人はいませんでした。
書籍は紙がなかったり、印刷技術がなかったりで、一般的じゃなかった
- 発見された人間⇒主体性や目標をもった高みを目指す人間
しかし、現実では王様や聖職者が、民衆を力(権力、武力)によって支配していました。
ルネサンス後⇒フランス革命
14世紀から17世紀にとびます。
まだ王様やキリスト教の権力が強かったのですが、民衆が力をつけてきました。
17-18世紀頃になると、啓蒙主義者(人間本来の理性の自立を促す人)がでてきます。
1789年フランス革命。
革命によって、人々は絶対王政から民主主義への道を歩むことになります。
また、産業革命によって科学がすすみ、今まで従ってきた神への価値観も崩壊してきました。
それと共に人間観も疑問視されます。
- 発見されていた人間は、神の信仰を基礎においた人間だった
- 今までの人間が間違っていたのなら「『人間』とは何だろう?」という新しい問いがでてくる
今までの価値観が間違っていたと示されることで、多くの人々は「神」の代わりに「科学」を信じていくようになります。
でも、それを元に行動した人間は神の信仰の元にいた。
神を信じなくなった人間は、それでも「昔の人間観によって起こした革命」後の世界(民主主義)にいる
フランス革命⇒19世紀以後・生の権力
フーコーは19世紀以前と以後で、権力の構造の変化を捉えました。
- 18世紀以前・死の権力
(絶対王政など、死刑の恐怖によって民衆を支配する) - 19世紀以後・生の権力
(私たちの欲望が作り上げた目に見えない民主国家における権力)
フーコーは、19世紀以後の人々が住んでいる世界はパノプティコン(監獄)だと述べたのです。
人々が相互に監視し、さらに自分が自分を監視する、科学が発達した世界(パノプティコン、監獄)。
『訂正可能性の哲学』の人間観(倫理教科書外)
『訂正可能性の哲学』で提示しているのは、新たな人間観です。
特にルソー(1712-1778、フランス革命前夜の急進的啓蒙思想家)の性格的思考から導き出したもの。
新しい人間観とはどのようなものだろうか。
それはひとことでいえば、人間とはけっして合理的な強い存在なのではなく、むしろつねに情念に振り回され、他人を傷つけ、ときに自分自身すら壊してしまうような弱く不安定な存在なのであり、それゆえに尊いのだという人間観である。
‐そのような人間観は、いまでは「文学的」なものとして広く流通している。
だからあまりルソー独自の新しいものだと感じないかもしれない。
けれどその見かたは転倒している。
実際は彼こそが、そのような人間観を文学にもちこみ、世界に広めた人物のひとりだからだ。
ロマン主義は人間を不合理な存在と捉える。
理性的な啓蒙など成功するはずがないと考える。
『訂正可能性の哲学』p182
- ルネサンス後に発見された人間観⇒主体性や目標をもった高みを目指す、神の信仰に基づいた人間
- 人文知が提示する新しい人間観⇒不合理で矛盾し、それゆえに尊い人間
21世紀の現在、人々はルソーの「社会契約論」における一般意思(データベース、集積知)によって、政治にAIを取り入れていこうと考えています。
>>ルソーの一般意思とは
AI政治は、一般意思によって人々を「幸福」にしようとします。
しかし、東浩紀は一般意思というのはルソーが伝えたかった思想の一部であり、それが独り歩きしてしまったのだと語りました。
一般意思による世界構成(AIによる統治)を、ルソーを全体的に再解釈することで批判していきます。
そこで使われているのが「訂正可能性」です。
- 「訂正可能性」⇒変革可能性を示す営み
- 「訂正」⇒人々の感覚を「変える」こと
(参照 訂正可能性の哲学p344)
本では、AI統治というのが訂正不可能であり、それゆえに、人間に合わないものだと示しているからです。
訂正可能性
まず、ルネサンス期から出てきた人間観が変わっていく契機は、構造主義(人間の行動は、その人間が属する社会や文化の構造によって決められている)にありました。
構造主義は、ソシュールの言語の恣意性に影響をうけています。
>>ソシュールの言語学
簡単に言えば、世界は他の言葉との差異で成り立っている、と説いたのです。
ぼくたちはいま、共産主義という第一の大きな物語のかわりに、シンギュラリティの到来という第二の大きな物語が席巻する時代を生きている。‐資本主義はもはや終わることはない。世界革命は起きない。国民国家も消えることはない。しかしそのかわりに人類には計算力の指数関数的な成長がある。‐そして人類は遠からず、働かなくてもだれもが快楽を手に入れ、実質的には死ぬことすらない、永遠への楽園への切符を手に入れることができるだろう。
『訂正可能性の哲学』p148
第二の物語は「AIと人間」で、シンギュラリティはAIが人間の知能をこえることを言うよ
どこが悪いの?
あれ、でもすごい人間も、弱い人間も僕だよね?
シンギュラリティの世界
この大きな物語はルソーの一般意思によって成り立ちます。
ルソーの一般意思を現代視点から解釈すると、AI統治になるからです。
しかし、この構図は、ルネサンス期に論理によって世界を構築しようとしたオッカムのウィリアムが提示した主意主義に似ています。
オッカムの主意主義⇒正しいことだから神はそれを人間に命じるのではない。
神が何かを命じるから、それを為すのが正しいということになる。
この主意主義とは、「世間で悪い」とされていることも神が命令したとすることで、絶対的な論理になることです。
神が絶対で、神が決めたものが善悪になるという論理
一般意志⇒データベース、均(なら)されたみんなの望み、集積知、数学的扱いをされるもの
これは現代で重視している科学に基づいた分析です。
しかし、この構図は、主意主義のような論理を展開します。
というように、AIを基準にすることで完璧な論理になる
- 神が根拠になっている⇒神の絶対性は批判できない
- 一般意思(AI)が根拠になっている⇒科学の絶対性は批判できない
現代は神信仰の代わりに、科学信仰になっていると言われています。
しかし、このように「信仰」をトップに据えて、訂正が不可能になるというのは人間らしくないのです。
固有性
ビックデータ分析(AIによる分析)は、あなたに似た人々によって判断されます。
そこには、固有性がない。
つまり、「私」が死んだら終わりという世界観がないのです。
したがってぼくは、人間の社会について考えるにあたり、その「私」という固有性の感覚に直面しない思想は、すべて原理的な欠陥を抱えていると考える。
「訂正可能性の哲学」p258
「私」という固有性を表現することは、運動を表現することです。
正しさを求めるのは大事だ。
けれども、あまりに長いあいだその言葉が便利に使われてきた結果、人々はむしろ本当の正しさとはなにかを考えなくなってしまった。
いまの基準で過去を断罪さえすれば、それが正しさなのだと信じるようになってしまった。
‐けれどもその正しさは、いま信じられているほど強固で絶対的なものではありえない。
正しさの基準は時代や文化に応じて驚くほど変わる。
そもそもそのようなものだからこそ、過去の過ちを正す運動が可能になっている。
正しさとは本当は、正しい発言や行為なるものが確固として存在するようなものではなく、つねに過ちを発見し、正しさを求める運動としてしかありえない。
「訂正可能性の哲学」p342
人間は不合理で矛盾するから、何かに憧れて運動を起こす。
その運動(過程)を伴うものを、新たな人間観として提示しているんだね
人は「考え」ているときに「考え」があって、固定化した思想には「考え」がない。
人文知は、いつまでも続く運動(過程)として出てくる