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「言葉の魂の哲学」から対話を考察。

おはようございます。けうです。

 

ソクラテスが言葉を書きしるすことを嫌ったことについて、また新しい面から語ってみようと思います。

 

私は「言葉の魂の哲学」を読んでいて、言葉の像という面をまた意識しました。

私がこうやって言葉を書きます。

すると、その言葉は確定されるんですよね。

言葉のイメージとは

具体例で行きます。

私は母親という言葉を知っています。

そして、母親という言葉を知っているから自分にその言葉を当てはめます。

でも、その言葉を知っているからこそ、その言葉以外の要素を見なくなる場合があります。

自分に「母親」という言葉を当てはめたときに自分と言う奥行きがなくなって、私の行動は母親と結びついて理解されていきます。

子どもを育てる人とか。

母性にあふれているとか。

人が私の中に、こうあらなければいけないだろう、という一つの像を押し付けているんです。

自分自身に対しても、そのように押し付けている。

だから、今まで私は自分とは何か?という問いとともにずっとわからない存在としてみていたのに、「母親である」と言ったとたん、自分でわかった気になってしまう。

 

それで、その言葉があるうちは私のイメージはそれによって規定されてしまう。

でも、実際には母親と呼ばれる前の私があったんです。

私というのも一つの言葉なんですけど、人は言葉によってイメージをもつようになります。

 

イメージというのは、フィルターのようなもの。

自分で自分を見ることができなくなります。

文字とはモノの影

このことを「言葉の魂の哲学」の本では、物語にそってその重要性を話していました。

昔、言葉の博士さんが、文字に霊がいるからそれを調べて欲しいって言われたそうなんです。

そういわれて、博士さんは一つの文字を見つめていたんですよ。

そしたら、ゲシュタルト崩壊が起こっていきました。

その文字の意味がわからなくなったんです。

意味のある形からただのインクの染みにみえてきた。

では、私たちはもとから見ていてその文字だと思っていたものは何か?

と思ったときに、それが言葉の霊なんだって思い浮かんだみたいなんです。

そして、私たちは言葉を知る度にその像に引きずられる。

言葉を知っているから言葉の奥にあるそのものを見ずに、ただ言葉だけの解釈をしてしまう。

博士は文字というのはモノの影のようなものではないかと思ったみたいです。

本物ではなくて、そのものの影です。

 

そして、ソクラテスの話にもどります。

ソクラテスはなぜ話すことを重要視して、書きしるすことを拒んだのか。

それは書き記すことで、本物ではなく影を見るようになるから。

 

では、話し言葉とどう違うのか、というと、話し言葉は話すことによって意味が変化していきます。

意味の場

例えば、私は母親という意味を理解している円があるとイメージして下さい。

私は母親像について語ります。

そして、それを聞く相手も母親像を持っています。

私の言葉の意味しているところと交わったところで、その人は母親という意味を共有しています。

お互いの〇と〇があって、その重なり合っているところでお互いの母親の意味が共有されているということ。

そして、ソクラテスは対話によってその〇の共通しているところを増やそうとしています。

私の意味している〇の部分はもっとこんな意味も含んでいるよ、と相手に促している。

 

では、なぜ対話でないといけないのかというと、相手は知らないということを自覚していないんです。

自分の〇を意識していない。

すると、その相手は聞いた〇の意味だけをそのまま引き受ける。

重なるところが発生していないので、そのまま相手の言説を受け入れるか拒否するか、という選択肢になりがちになる。

ただ言葉を情報とか、材料とか、ただの客観的なインクの染みとしてしか受け取っていない状態。

ただ情報を得るだけだと、その〇と〇の重複しているところを意識できない。

その本を得たあとで〇と〇の円を探ると言うことはあると思いますけどね。

対話の意味

ただ対話をしないと、自分の中にその言葉が入っていかない状態。

私たちは対話をすることによって、お互いのその言葉の意味とその言葉の意味をと浮かび上がらせて、共通に理解するのだけれど、言葉をそのまま受け取ることはただの像を私の中に存在させるだけにすぎなくなる。

自分が受け取った情報を自分の元からあった知識とか情報に重ね合わせなければ、その人はその言葉を私が言った意味とは別なこととしてうけとってしまう。

 

例えば、私は昨日ツイートで男性脳、女性脳という言葉を使いました。

でも、それはジェンダーになるから使うべきではない、という言われ方をしました。

みんながそれぞれのその言葉に対する像をもっているということ。

私は「女性脳」といったときにただの共感する能力が長けている脳を表していたのだけれど、他の人は「女性の脳」というような性別差としての脳のあり方を想像していたということ。

 

ここには意味のずれがあります。

でも、その読んだ人が自分の意味と私のいった意味とでその重なっているところを吟味してくれないとしたら、ただ書き言葉によって表わされている「女性の脳」というジェンダーを意識した言葉としてだけ受け取られていたと言うこと。

 

他の私の意図した側面は本人に届いていないということを意味します。

なので、その場合、実際に私は話しながら私の意味はこういう意味だったのだと説明することによってしか私の意味とそれを「女性の脳」だとうけとった人との間に共通の理解が生じない。

「女性の脳」と受け取った人は、私の文章をそのまま読んで、あ、この人はジェンダーに意識的な人ではないな、というレッテルを貼られてしまうと言うこと。

 

言葉の意味というのは、本人が使っている言葉の意味があって、それはお互いに話したり、自分の中の意味をピックアップさせてそれと比較しなければ、自分の中には入っていかないことを指します。

ソクラテスの懸念

なので、ソクラテスは対話を重要視して、言葉をただ書き残すことに懸念を覚えました。

ただの像だけしか見ない人が溢れるだろうと思ったのです。

そして、今はほぼ読むだけが多い世の中になっています。

自分の意味を意識することがなく、他人が何かを言っていてもその意味を解釈するのではなくて、自分の意味にそのまま当てはめてしまったり、ただの情報、ただの一つの像イメージとしてそのまま受け取ってしまったりします。

 

そうしたとき、その像イメージ、言葉の影をより本物に近づけるには、自分の意味を理解してから、相手の言葉の意味を理解していくという作業が必要になってきます。

対話ならこの作業が楽なのかもしれないけれど、一人だと像に縛られているのでなかなか難しいのかな、と思いました。

相手の意味も像、私の持っているのも像。

そして、像は多面的な意味を持っているから、もし相手の像が違っているのならさらに像を多面的に見るチャンスなんだ、と。

よく読書を対話しながら読むといいと言います。

そこに、自分の今までの言葉の意味と、本で得た言葉の意味が重なる時、またその本物に近づくような、本物には近づかないかもしれないような何かが起こっていく。

それは物事を平面なものから立体として浮かび上がらせる作業なのかな、と思いました。

 

読むだけだと相手が何を言っているのか、自分と照らし合わせながら理解することができていないんだな、と。

 

では、今日もお聞きいただいてありがとうございました。

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