J哲学

伊藤亜紗さんの「身体のローカル・ルールとコミュニケーションの生成」の感想

おはようございます。けうです。

 

日本哲学の最前線」を読んでいます。

4章伊藤亜紗さんの「身体のローカル・ルールとコミュニケーションの生成」の感想を話していきたいと思います。

 

前回、千葉雅也さんの非意味的断絶の重要性を説きました。
>>非意味的断絶とは

 

非意味的断絶を簡単に言えば、なんとなくやめたとか、嫌になったからやめたとか、意味をもたずにやめたことが変化を生む。

その意味解釈を私がすることで、新たな生成を生むというのが非意味的断絶です。

 

この非意味的断絶を広げたのが今回取り扱う伊藤さんの身体のローカル・ルールとコミュニケーションなのではないか、と私は感じました。

 

まずまとめから。

身体のローカル・ルールとコミュニケーションは倫理

身体が触れることとコミュニケーションは倫理だと伊藤亜紗さんは語ります。

伊藤亜紗さんは人の「個別性への志向」を倫理に見ています。

まず道徳と倫理をわけて説明します。

道徳というのは一般的な事柄。

人に嘘をつくべきではない、とか、母親らしいふるまいをするべきだ、とか。

昔ながらの教訓だとか、規律だとか、こうするのが正しいといわれているものです。

 

倫理というのは個別的なもの。

私にはこれがあっていると思うからそれを実行する。

嘘はいけないけれど、ここでは嘘をつくことが私にとって善いことだと思われるから嘘をつく。

このような個別性のことを倫理として捉えます。

 

伊藤さんが取り扱うのは倫理。

しかも、その中でも個別的なふれること、身体に関しての倫理です。

 

千葉さんの非意味的断絶というのは、思考の面が入り込みます。

空気を読んで今はこの空気だけど、違うことをしてみよう。

この空気の中、行動をしたら新しい可能性がうまれた。

千葉さんの非意味的断絶はこのように思慮も必要としますが、伊藤さんはただたんにふれることで発生する身体反応から自分の倫理を見ていきます。

触れることで生じる倫理

私が相手にふれるとき。

そこには身体的な反応という、自分がまったく予期しないことが起こります。

「これに対し倫理は、現実の具体的な状況で人がどう振る舞うかに関わります。相手が何者か分からず、自分の身を守る必要もあり、時間やお金の余裕が無限にあるわけではない今・ここの状況で、どう振る舞うことがよいのか。あるいは少しでもマシなのか。倫理が関わるのはこういった領域です。」

このように、触れる時の状況によって自分がどういった判断をとるのが正しいのか、そういったことをその都度考えていきます。

自分の身体反応も考えて、ベストな選択を取ろうとすることがその人の倫理です。

 

「すなわち、ひとびとがお互いのやり取りの中で物事の意味を作り出していく、それゆえ特定の人が主であるわけではない、というタイプのコミュニケーションも存在する。」

 

相手に触れることで初めてその関係性が出来る。

そこには一人の世界があるわけではなく、相手もいる世界が描かれている。

その中で自分がどのような選択をとるのか、1人で居る自分では想像がつきません。

 

本書では倫理の例をゴーギャンから説明していました。

ゴーギャンは画家として大成することを望み、妻子を捨ててタヒチに移住することにします。

道徳的には妻子を捨てるなんてひどいこと。

けれど、ゴーギャンはかえって絵を描くことに専念できました。

結果、歴史に残る絵を描き上げた。

のちのちの人からみれば、ゴーギャンのやった振る舞いは作品を接する時にはまずは考慮されない。

ただ作品のすばらしさがある。

ゴーギャンの倫理はこの作品のすばらしさを選んだ。

絵画の歴史からすれば、有意義だったのかもしれないし。

ただ、捨てられた妻子がいる以上、無責任な行動はまったく正当化はされない。

ちょうどニュースで芸術家のいじめ問題があったけれど、これと関わってくるのかもしれません。

いじめは正当化されない。

ただ作品は切り離して考えるという見方もある。

作品も一般的に優れていて、人格も一般的にすぐれていることを私たちは期待してしまうのですが、人には人の倫理がある。

倫理の具体例

私に対しても、こんな道徳とはかけ離れた現実を、触れると言う現実を通して体験するかもしれない。

つまり、私も一般的な道徳からすればひどい対応をするかもしれない。

道徳的に善いと思える行動がとれない。

例えば、ホームレスの人に優しくしようとか、差別はなくそう、と自分で決めているとする。

差別なんていけない、と頭で考える。

と、そこでホームレスの人に出会い、触れるとする。

そこには悪臭があった。

当たり前かもしれませんが、毎日はお風呂に入れないという現実があります。

そこで私の身体は臭いを拒絶する。

道徳的には差別はいけないと思うのに、身体が臭いから逃げようと思ってしまいます。

 

また、人が死に瀕しているから助けるのが当たり前だと道徳的に思っていたとする。

私はそのように動けるし、動こうと決めておく。

しかし、実際の場面にたちあったときに、自分では立ちすくんでしまった。

動けなかった。

ここに一般的な道徳と個別性がある。

ただ倫理は良いと思うことに行こうとするのだけれど、私の体が反応してくれない。

その反応してくれない中でも、自分の中で善いと思うことを見つけ出していくのが倫理になっていきます。

なので抜粋の個所で伊藤さんが「ましな行動」と言っていたのだろうな、と私は思いました。

倫理を知るには

自分のことを考えてみます。

私は体験が少ない。

人との触れ合いも少ない。

いつも、頭で考えてしまう。

その場合に、一般的な道徳や本に書かれている善いことを参考にしてしまう。

でも、倫理は自分が触ってみて、自分に照らし合わせて考えていくことになります。

そうしたときに、自分はどんな反応をするのか。

自分は自分の理想通りの反応ができるのか。

そんな自分を観察する態度が含まれてきます。

 

多元論的だと私は感じました。

私は思慮している私でもあり、身体の反応をもった私でもあり、一般性にゆれる私でもあり、相手と相互に作り上げた世界にいる私でもある。

私がたくさんいる。

けれど、今は人と触れ合うことがなくなってきている時代でもあります。

なので、自分の身体反応がわからず、倫理というものがわからず過ごすことが多いのかもしれない。

そんな中でも、それを体験することは一つの生成として、新しい発見になっていきます。

 

ここでの生成の可能性や生成の哲学は、非意味的切断だとも捉えられます。

私が私の意味解釈をしていくという意味です。

こういう哲学を聞くと、私はいろんなものを体験してみたいし、いろんなものにふれてみたいな、という気持ちになりました。

 

では、お聞きいただいてありがとうございました。

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