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法学と哲学と対話についての感想

おはようございます。けうです。

 

武器になる「法学」講座を読みました。

昨日の続きです。
>>武器になる法学1回目

2,3章を読んで、私が感じた法学と哲学の違いを述べていきます。

まずは裁判はこのように行われるということを話していきます。

裁判になる対象

まず、どんなときに裁判になるのか、というがのっていました。

裁判ができるもの。

・法令を適用することによって解決することができる。

・権利義務に関する当事者の紛争

 

法律はいくつあると思いますか?という問いがあり、本の中での答えは約2万個でした。

この2万個の中からベースを作って、権利義務に関する紛争を解決すると考えます。

ただ特別法なども作っての2万個です。

民法などでは1050条の条文があって、私人間の紛争解決をはかるとありました。

私が社会の中で何かを不満に思っていれば、その中にそれに関した法がみつかりそうです。

法的三段論法で考える

社会規則にのっとって考える時に、法的三段論法を本では紹介していました。

法解釈を大前提として、事実認定、それにあてはめるという段階を踏みます。

法解釈(大前提)⇨事実認定(小前提)⇨あてはめ

論理学に似た考え方をします。

 

本では、この法的三段論法を説明するためにある一つの事例を説明していました。

かなり簡単に説明します。

ある男の人Aさんがいて、多くの財産を親から受け取る予定です。

でも、親からの財産を受け取ると、贈与税が高い。

それをなんとかしようと、Aさんは住所を海外に移しました。

そして、法の適応外の条件を成立させて親から財産を受け継ぎます。

そうすることで、高い贈与税1000億円を超えるお金を払わなくていいことになりました。

これに対して国はおかしいんじゃないか!と裁判を起こします。

国がおこしました。

そして、結局は、Aさんはその1000億円を払わなくてよくなりました。

実際の法律にあてはめたときに、Aさんに贈与税を支払わなくてよいという法律だったからです。

税金は法律の定める要件を満たす場合にしか課すことができないというのが前提にあります。

では、国はどうしたのかというと、これを例にして新しく反例に基づいた法を作り上げました。

法律に穴があったということがいけなかったという判断です。

なので、現在では国外財産の贈与があった場合、贈与時に日本に住所がなかったとしても、過去10年以内に日本に住所があったときには贈与税が課せられることになりました。

 

ちょっと例を聞くと、Aさんずるい!となるかもしれませんよね。

でも、法というのは感情を抜きにして考えるという姿勢をとります。

私たちはAさんの立場にも、国の立場にも立てると言うことです。

 

そして、ディベートというのはこういうもので、その人の立場にたって論理を構築していく、と話していました。

法学と哲学の違い

では、ここで考えてみたいのが法学と哲学との違いです。

哲学でも有名なソクラテスは対話を重視しました。

ソクラテスは対話をしていって、相手と自分との納得する落としどころまで話し合いを行います。

では、法学と哲学ではどこがちがうのか。

裁判の元にかえってみます。

・法令を適用することによって解決することができる

・権利義務に関する当事者の紛争

とあって、これに適応しない場合には裁判ができない、といいます。

この「司法権(裁判)」の意味は、逆に「どの宗教が正しいか」とか「どの学問が最も正しいか」など、「法令を適用すること」では「解決することができ」ないものについて、裁判をすることはできないということも意味します。(司法権の限界)。

 

おそらく哲学の役割については、そもそもの法をつくるということに焦点があたってくるのかな、と思いました。

Aさんの事例を話したときに、私たちはその方法で税金を逃れるなんてズルい!と思いましたよね。

それに対して、新しく法が作られています。

それによってそのズルさが解決できるようになりました。

この法を作ると言うことに関して、哲学が関わってきて、法哲学という分野もあるのだと思います。

「法哲学は、あるべき法ないし正しい法を探求する学問である」という考え方が一つにあるそうです。

今ではさらに前提とする考え方があるそうなので、その中の一つです。

この場合が、さきほどのか「Aさんずるい!」というのに関わってきそうです。

まず感情があって、法が作られていきます。

そして、作られたからにはその話し合いにおいては感情を排除していくと考えられます。

哲学における対話と一般意志

人間は感情の生き物でもあり、いくら理性といってもその理性の元をたどっていくと感情に支えられています。

法律もそもそもの法ができたことが過去の人の感情に関わっているともいえるからです。

例であげたAさんずるい!のように。

なので、法からではなく哲学的な対話でもまず私の意見を言うという感情表示が必要になります。

私の視点(私の意見)です。

そこからソクラテスの問答法をとると、その意見からその人の「不知の自覚」に追い込んでいきます。

話し合いにおいては、哲学も感情ではなく論理的な方法をとっています。

あなたはそもそもどうしてその意見を持っているの、と。

こうなってくると、意見を持っている事自体が偏見とも思われてきます。

ソクラテスは言葉を信じていなかったとか、言葉の消滅を願っていたといわれたりもしています。

 

哲学は前提を疑うので、さらにルソーの一般意志を考えてみます。

人は意見を形作ることができない弱い人間。

そのことをルソーは前提にしていました。

>>一般意志とは

なので、無意識的に集められたものが良いものとして一般意志になる。

対話を必要としないとしたら、私たちは一般意志を体現できるようなシステム構築を目指す道もあります。

 

対話と一般意志を考えてみました。

対話は法学の前提を疑っていく方に進み、一般意志は対話を否定して事実の集大成をシステムによってつくり上げると言うカタチをとります。

こう比較すると、哲学と法学の違いが際立ってきます。

常識を疑っていく哲学にしてみれば、文章で規定させた法律という常識をつくり上げたり、それを検討する法学というのは対極にも思えます。

でも、対極にあるからこそ、それが似ているものになるということがあります。

善を考えていくと悪になるだとか。(二項対立)

法学と哲学-まとめ

武器になる「法学」の法的三段論法と、主張と反論の章を読んでの感想になります。

裁判では対話をしています。

日本には対話が足りない、という主張があります。

対話を多くするには法律やその法律の対話の元となる考え方を把握しておくのは、対話を推し進める良いきっかけになるのではないかと感じました。

前提は感情でできていたとしても、対話においては感情を排除させて考える、というのはいろんな立場になる上では必要になってくるのだろうなとも思いました。

 

では、お聞きいただいてありがとうございました。

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