「現代に生きる人間の倫理」
第4節「社会と個人」
11.ハイデガー「存在と時間」を読むステップ紹介
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- ハイデガーを読むステップ1「ハイデガー入門」
- ハイデガーを読むステップ2「現象学って何?」
- ハイデガーを読むステップ3「ハイデガーの講義録」
- ハイデガーを読むステップ(2)「カント入門講義」
- ハイデガーを読むステップ4「『存在と時間』のあらすじを知る」
(倫理の教科書の記述がハイデガーなので、ブログではハイデガーと書いていきます)
ハイデガーを読むステップ1「ハイデガー入門」
ステップ1の目的は、ハイデガーに対するイメージをつかむことです。
まず「ハイデガー入門」では、ハイデガーの問いは実存哲学とは無縁、ということからスタートします。
ハイデガーの問いは実存哲学とは無縁
「『実存哲学』を発表することなど、私には思いもよらなかった。
むしろ重要なのは、西洋哲学の最も内的な問題、存在への問いが新たに立てられることなのである。」
(ハイデガー入門p7ハイデガーの講義から)
ハイデガーが実存哲学とみられた理由は、この問いを解釈していく過程で、人間に実存の覚醒(本当の生き方への呼びかけ)を説いたからです。
リンゴ | が | ある |
Ⅱ | Ⅱ | |
存在者(ザインデス) | が | 存在(ザイン) |
存在者(ザインデス)ではなく、存在(ザイン)とは何かを考えるのが存在論。
ハイデガーは今日までの哲学は存在者(ザインデス)についてばかり考えていて、存在(ザイン)について忘れていると主張したのです。
存在への問い「美しい花、健康食品、光」
「ハイデガー入門」で筆者は「わかりやすく解き明かす」ために3つの例題を用意しました。
「美しい花、健康食品、光」です。
「美しい花」問題
「美しい花」問題
美しい花を見た時、どうしてこんなに美しいのかと不思議に思った経験はないだろうか。
この不思議さを花弁や色合いや形や配列などによって、人は説明する。
しかし、赤い美しいバラがあれば、白い美しいユリもある。
人は美しいものにあったときに、「美しいものが美しい」と言いたくなるだろう。
これを説明したのがプラトンのイデア論。
イデア論では、イデア界があって美のイデアがある。
人は美しい花をみたときに、美のイデアを想起するから、それを美しいと思うことが出来るのだとプラトンは考えた。
ハイデガーの「存在」テーゼ「存在は、存在者を存在者として規定するもの、存在者がそのつどすでにそれへ向けて理解されているそれ(woraufhin)である」
(ハイデガー入門p54)
- 永続性⇒永続的なものはいまだ充たしていない無限の未来を持っているから、決して全体に到達していない。
けれど、「あった」(過去)、「ある」(現在)、「あるだろう」(未来)をいう事ができる。 - 永遠性⇒時間を越えているから、時間の中にあるわけではないが、存在する。
永遠なものについてはただ「ある」(現在)とのみ語りうる。
イデアの性質は、永遠性。
そして、この性質で今日までの西洋哲学は説明されてきたのだとハイデガーは述べます。
ハイデガーはニーチェ哲学(「神は死んだ」けれど、その代わりの永遠なるものを提示)がその最高潮だと考えた
しかし、人間本来のあり方に思索をめぐらすとき、人間は死への存在という有限性をもちます。
ハイデガーは、みずからの存在に関心をもち、その意味を問う人間を現存在(ダーザイン)と呼びました。
人間は世界のうちに投げ込まれ、世界によって自己のあり方を制約されている世界‐内‐存在なのです。
「流れる今は時間をもたらし、止まる今は永遠性をもたらす。」(トマス)
こうして「止まる今」に至る。
『存在と時間』が「止まる今」を批判することは、プラトン以来の「永遠性と時間」の伝統と対決することを意味する。
(ハイデガー入門p203)
「美とは何か」という問いは「そこから美が読み取られうる範例的存在者」(美しいものという存在者)を必要とする。
(ハイデガー入門p142)
- 「〇〇である」(例:神は最高の存在者だとみなす)
- 「〇〇がある」(例:神は存在する)
「〇〇である」は「〇〇がある」を含まないからです。
「〇〇がある」って、僕に関係なくてびっくりしちゃうことだよね
「健康食品」問題
「健康食品」問題
健康的なものとして健康食品を例にする。
食品は美味しいとか、値段が安いとかさまざまな視点から語りうる。
ここにプロテインチョコバーがあるとして、それは美味しくて安いけれど、もしかしたら健康的ではないかもしれない。
けれど、チョコバーを健康食品であると語りうるのは、健康を視点としている。
健康食品としてあるからには、健康食品という枠組みにあてはめている。
「或るもの(健康)へ向けて或るもの(食品)を或るもの(健康的なもの)として理解する」
まずアリストテレス哲学から入ります。
アリストテレスはものそれぞれに本質があると考えました。
すべてのものをイデアの模造品と考えることを批判したのです。
しかし、そうみると学問にならない、という問題点がありました。
学問という体系は、個々の者に統一された何かをみます。
例えば、美学、生物学、昆虫学、数学など、ある一つのもので体系立てているのです。
けれど彼は類の一性とは違った一性を発見。
「それが健康的なものに即して語られる一性、プロス・ヘンという一性である」(入門p75)
アリストテレス
「存在者は多様に語られる、しかし一へ向けて(プロス・ヘン)」
アリストテレスから考えると、学としての健康学は構想可能なのです。
「健康との関係において」(健康へ向けて)という一性、プロス・ヘンの一性が学問を成立させました。
そして、ハイデガーはこのプロス・ヘン(一へ向けて)を「時間へ向けて」と捉えたのです。
『存在と時間』は学としての存在論の理念を主張している。
そして存在が類の一性をもたないことを認めている。
とすればプロス・ヘンの問題が重要な問いとして生じる。
それが「時間へ向けて」として解釈されるがゆえに、存在論が存在の学として「テンポラールな学」(「テンポラリテートとしての時間へ向けて」によって可能となる学)と呼ばれる。
(ハイデガー入門p78)
(テンポラリテートは時間性のこと)
ハイデガーの意味の定義「意味とは先持、先視および先概念によって構造づけられた企投のWoraufhin(それへ向けてのそれ)であり、そこから或るものが或るものとして理解される企投のWoraufhinである」(「意味」テーゼ)p67
意味は「ほんとう」を見出すので、学問になる
‐『存在と時間』の根本的な問いは「存在の意味への問い」である。存在の意味は「存在がそれから理解されるそれ」「存在の理解を可能にする条件」であり、それは時間である。つまり存在の意味への問いは「存在が時間から理解される」という洞察に基づいている。
(ハイデガー入門p34)
「光」問題
ハイデガーは現象学という言葉を「現象」と「学」へと分解します。
「現象」概念をギリシア語にさかのぼって解釈するとき、「光」がでてくるのです。
ハイデガーは「現象」というギリシア語を「光」にまで遡り、光を「それのうちで或るものが露呈し、それ自身に即して視られうるようになりうるそれ」と規定する。
つまり「或るもの(現象)は光のうちで視られうる」。
‐ハイデガーは現象を「通俗的な意味での現象」と「現象学の現象」に区別する。
前者は存在者であり、後者は存在である。
「現象は光のうちで視られうる」というテーゼに「存在者としての現象」を入れると、「存在者は光のうちで視られうる」となる。
(ハイデガー入門p91-92)
けど、視るには光を必要とする
見る者と見られるものだけでは見るということが成り立たず、光を必要とするということは、それ自身誰でも知っている平凡な事実である。しかしこの事実が認識のモデルとなる。
(ハイデガー入門p95)
触るだけだとピーマンかパプリカかわからないように
「ハイデガー入門」まとめ
ステップ1での「ハイデガー入門」の目的は、ハイデガーの存在の問いを理解することです。
- 美しい花⇒プラトンのイデア論とハイデガーの存在への問い、エネルゲイアとして見ること、存在論の範例的存在者
- 健康食品⇒アリストテレス存在論の核心、存在の意味への問い
- 光⇒現象は光のうちで視られうるというハイデガー現象学の核心的なテーゼ
ここで触れていなかったエネルゲイアについてもふれます。
アリストテレスのエネルゲイア
運動(キーネーシス)を歩くという例にしていく。
歩くことは、ある地点からある地点(目的地)へと歩くこと。
そして目的地に到達すると、歩くという運動は終わる。
しかし、これを人間の「生きること」に当てはめてみると、死という目的地に到達すると運動は終わってしまう。
なのでアリストテレスは生きることを別の仕方で理解した。
それがエネルゲイア(現実態)。
エネルゲイアはキーネーシス(運動)の対概念。
アリストテレスは生きることもエネルゲイア(生きると同時に生きてしまった)と考えている。
生きることは生きることの外にある目的へ向かう運動、生き終るための運動ではない。
エネルゲイアは「目的(テロス)に到達しているあり方」を意味する。
ハイデガーはこのエネルゲイアの概念を人に当てはめ、人間を「死へ向かう存在」ではなく、「死に至っている存在」と考えています。
こう解釈するからこそ、人は死ぬから本来性が大事だ、という実存哲学ではないのです。
でも一つに、死ぬことは死ぬことの外にある目的へ向かう運動。
つまり、死ぬというのを「光」として見ることができる。
死を定義しないと、時間から見る人間という存在を解釈できない
とはいえ、人は死ぬから本来性が大事だ、とみる一つにはパトス(感情、情念)的契機が内在されているとみることもできます。
思想(存在論)はロゴス的契機とパトス的契機から成り立っている。
ロゴス的契機なき思想は盲目であり、パトス的契機なき思想は空虚である。
(ハイデガー入門p135)
「ハイデガー入門」をまとめたので、次はステップ2です。
ステップ2では、そもそも現象学とは何?という問いに立ち戻ります。
現象学はフッサール(1859-1938)によって確立されました。
ハイデガーはフッサールの現象学から出発したのです。
『存在と時間』を読むには超越論的な考え方が必須。
フッサールの超越論的な考え方のポイントを理解していきます。
ハイデガーを読むステップ2「現象学って何?」
現象学は「事象そのものへ」向かうことを目指す学問。
この現象学の考え方はカントのコペルニクス的転回の直系と見ることができます。
人は従来、ものそのものがそこにある、という見方をしてきたとカントは指摘しました。
従来の考え方(自然的態度)⇒認識が対象に従う
人は普通(自然的態度)、りんごを見た時にそのりんご自体がそこにある、と考えます。
しかし、カントはその見方を批判しました。
逆だとしたのです。
こう見えるのはきっと僕がお腹を空かせているからだ
僕はどっちの見方をしているのかよくわからない
現象学と超越論的還元
人が自然的態度(ものそのものがそこにある)を取らなくて済む方法。
それをフッサールはエポケー(判断停止)と言いました。
自然的態度における信念(ものがそこにある)をいったん「カッコ」にいれて、自然な判断を停止して考えなおそうとしたのです。
この考えなおすことを現象学的還元と定義しました。
- エポケー⇒自然的態度における信念をいったん「カッコ」にいれる
- 現象学的還元⇒事象が意識のなかでどのように構成されているのかをありのままに考えなおす方法
(狭義には超越論的還元をさし、広義には形相的還元を含めたものを言う。のちに説明)
「これが現象学だ」という本の中では、超越論的還元(現象学的還元の狭義をさす)を下の絵のイメージでとらえると良いと示しています。
(「これが現象学だ」p46から引用)
これはマッハ(物理学的現象学を提唱)が描いた、右目を閉じて左目だけで見たときの光景です。
右側に見えるのはマッハの鼻、上の方には眼孔、鉛筆を持った右手、手前の黒いものはあごひげ。
これはマッハにとっての直接経験。
フッサールは、こうした「主観的」光景こそが根源的だと考えます。
そして、下の図のような自然的態度を、マッハ的光景にまで還元せねばならない、と考えました。
(これが現象学だp45引用。自然的態度を表した図)
自然的態度からマッハ的な光景への引き戻し(還元)をフッサールは「超越論的還元」と呼びました。
超越論的とは
存在のことをフッサールは超越と定義しました。
その最大の理由は、表象の外部になにかが「存在する」ということは、そのなにかが表象を「超越している」ということを意味するからである。つまり、存在=超越である。しかし、そうした存在=超越は、じつは、表象の内部から出られない私たちが表象の内部で「構成」したものなのである。‐かくして、「超越論的」とは、こうした「存在=超越」を、その構成にまで引き戻して、学問的に問うときに用いられる言葉である。すなわち、超越を学問的に問うから、超越論的である。
(これが現象学だp50-51)
だって見たし、聞いたし、触ったし
悪魔の代わりに「リンゴは絶対にある!」を入れてもいい。
私たちが構成した存在なのに、そのもの自体があると思い込んでいるのは不思議(超越している)
私たちは日常生活では、あるものがそのままあるのは普通だと思っていて、「存在=超越」と定義することに違和感を感じる。
でも、学問的世界から見れば存在は異様(説明できない)
学問的態度だと「存在=超越」。
視点の切り替えって難しい
こうしたものと遭遇した瞬間、私(自我)はそれを理解できない。あるいは、私はそれを構成できない。異他性とは構成不可能性である。‐この場合、こうした異他性との遭遇を、超越的・上空飛行的な外部の視点(たとえば神の視点)から見てはならない。そう見てしまえば、それは、神にとっては既知のもの同士がであるような(平凡な)イメージで理解されてしまうだろう。ところが、現象学は、そうした視点を還元している。つまり、マッハ的な光景(超越論的視点)の内部からこの遭遇を分析しているのである。いや、異他性は、神の視点ではそもそも現れることができず、この光景の内部においてこそ現れうると言うべきだろう。
(これが現象学だp237-238)
これは無意識にエポケー(判断停止)していて、超越論的視点に意図せずに立ってしまっているということか…
志向性の発見
次の謎に迫ります。
カントがコペルニクス的転回をとなえたのに、なぜフッサールから現象学と呼ばれているのでしょうか。
フッサールは志向性を発見しました。
志向性⇒意識はつねに何かに対しての意識。
このような意識の性質を志向性という
例えば、意識はリンゴならリンゴに対する意識、悪魔なら悪魔に対する意識、サイコロならサイコロに対する意識、というようにつねに何らかに対しての意識なのです。
下の図は意識されたもの(構成されたもの)がサイコロの図です。
(これが現象学だp57)
私たちは図の「現出」(現出123)の感覚・体験を突破して、その向こうに「現出者」を知覚・経験しているのです。
さて、直接経験(マッハ的光景)を基礎に据えたフッサールは、そこに諸出現の体験を媒介にして(突破して)現出者が知覚されるという構造を見出したわけだが、この媒介・突破の動きが「志向性」である。それゆえ、直接体験は、これらの言葉を用いて「志向的体験」と言い換えられる。
(これが現象学だp61)
(哲学用語図鑑p253)
- 志向性はノエシスとノエマという二つの側面がある。
(「志向性はノエマと対比されるときにはノエシスと呼ばれる。ノエシスとノエマはいつも必ず一体」) - ノエシス⇒知覚直観と本質直観(二つを合わせて内在)をもとに、リンゴなどの対象を意識が構成する作用
知覚直観:目、耳、鼻、舌、手触りから得る知覚的直観
本質直観:りんごについてあらかじめ知っている知識からの経験的直観 - ノエマ⇒構成されたもの、すなわち意識される対象(リンゴ)
でも、どうやって僕はそれを意識したんだろう
ノエマとは
だから、現象学は諸現出と現出者との関係から成り立つ現象を扱う学問なんだね
これを言葉で表すのが現象学とも言える
フッサールは、私が存在する(あるいは経験の中心化が生じている)ということ、流れつつ立ちどまる現在が生じている(あるいは世界がある安定性をもって開かれている)ということ、そして、他者が存在するということを、「原事実」と認めている。
(これが現象学だ!p112)
彼は「厳密学としての哲学」として現象学を樹立。
厳密に考えていったら私が存在するし、時間があるし、他者がいた
人はよく絶望におちいったときに、そうした「病気」になりやすい
そう思うと、超越論的自我が存在するのは驚き。
私は理解できないものを、どう理解しているんだろう…
現象学は語ることができる
マッハ的な絵。
サイコロ。
これらの図から見えてくるものは、超越はさまざまに語ることができる、ということ。
現象学は、自分に見えるものを、その始原から語ることを可能にする学問であり、そうする勇気を与えてくれる学問である。
(これが現象学だp261)
例えば、マッハ的な絵は、下に目線が伸びていますが、上を見れば天井が見えてきます。
サイコロの現出123も過去、未来、現在の現出によってさまざまな現出がでてくるのです。
つまり、現象学は語ることを可能にする学。
例えば、ピカソのいろんな視点(上下左右など)が入っていてる絵は、キュービズムと呼ばれている。
現象学的に見れば、知覚される現出者そのものを描こうとした試みと言えるかも
(図解はじめての絵画から引用したピカソの絵)
(客観的時間⇒実在した人物のどちらが早く生まれたのか時間位置を決定できる、共有されるひとつの時間。
疑似時間⇒白雪姫など空想的なものが属する、いわば浮遊している時間断片。)
現象学は今まで神目線で語ることが出来なかったものを、私目線で語ることができるようにした学問、とも言えます。
またここで形相的還元にも触れておきます。
形相的還元
形相というのは、事象内容をもった本質のこと。
例えば、犬についての必要不可欠な成分を取り出そうとする。
秋田犬のポチ、セントバーナード犬のジョン、チワワ犬のチビなどなど、犬の種類は多種多様。
私はポチには実際に触れることができたとしても、他の犬については知覚経験がむずかしい。
なのでここで「空想」を発動。
本で読んだり、犬を空想し、それぞれの犬を比較して、犬というものの共通本質を抽出する。
「ある事象内容をもった個体(この場合はポチ)から出発して、空想的な「自由変更」をつうじて、それの「形相」(事象内容を持った本質)を抽出する作業が、形相的還元である。
この方法によって現象学は本質学となる(この形相的還元と先述の超越論的還元をあわせて「現象学的還元」と呼ぶことが多い)。」(これが現象学だp144)
さっきの昔々も解釈できたように、さらに言えば数を構成できるように、思考は直観の射程をこえたものも構成できる
アプリオリと志向性
アプリオリ/アポステリオリという言葉を使うと、カントを思い出す人も多いだろうが、しかし、たとえばカントは、「そもそもの初めからアプリオリにわれわれのうちに与えられている」といった意味で、「アプリオリ」の語を用いることが多い。
‐しかし、フッサールは、主観性に「あらかじめ」備え付けられているという意味での「アプリオリ」を認めない。
だから、フッサールは「カントは現象学的アプリオリを知らなかった」とも言う。
フッサールの現象学的なアプリオリは、主観性に備え付けられた(一種の真理主義的な)認識装置とは無関係である。
そうではなく、それは、時制変化しない「ある」がもつ特性であり、逆にアポステリオリとは、時制変化する「ある」がもつ特性である。
したがって、これらは、心理主義的な概念ではなく、「ある」=「存在」の特性に関わるという意味で、存在論的な概念なのである。
(これが現象学だp77)
アプリオリもエポケーして、志向性から解釈。
すると、アプリオリは時制変化しない「ある」がもつ特性になる
カントのアプリオリは元々そなわっていたんだけど、マッハ的光景から出発すれば備わっているというのも疑える
フッサールはアプリオリな学問、アポステリオリな学問というように区別しました。
例えば、心理学はアポステリオリな学問だから、心理学によってアプリオリな学問である数学や論理学を基礎づけることができない、など。
フッサールがカントのアプリオリを疑ったように、これは「アプリオリなものである」という定義は難しいのです。
さらに、経験(直接経験=志向的体験)は、アポステリオリなものとアプリオリなものの両方を含んでいる、というのも見えてきました。
フッサールの定義
- アプリオリなもの⇒いつでもどこでも妥当するという「いつでも性」(普遍性)をもつ。
いつも時制変化しない「ある」をもつもの。 - アポステリオリなもの⇒ある時やある所でのみ妥当するという「そのつど性」しかもたない。
時制変化する「ある」をもつもの。
その解決として、フッサールは対象の領域を分ける、ということを考えました。
「諸学問の区分が諸領域の区分から基礎づけられる」(これが現象学だp97)としたのです。
例えば、適材適所に置かれている道具は目立たないけれど、そこから外れたり壊れたりすると目立ってくる、など
コミュニケーション的な意味なんだから
さらに、カントのアプリオリを見ていきます。
アプリオリな「空間」と「時間」
カントは主観性には「感性(直観)」の形式がアプリオリに備わっていると考えました。
この形式は(無限に均質に広がる)「空間」と、(無限に一直線に流れる)「時間」です。
しかし、この考えをフッサールはまずは批判(よく吟味する)しました。
かつてガリレイは、数や幾何学は自然のなかにあらかじめできあがって備わっているとみなした。
他方、カントは、それらが自然のなかにあることを否定して、むしろ、それらは主観性の認識装置のなかにあらかじめ備わっているとみなした。
しかし、フッサールは、それらは直接経験=志向的体験から抽出されてくるとみなすのである。
フッサールは、ガリレイとカントの「あいだ」に位置するとも言えるだろう。
(これが現象学だp138)
目の前にサイコロがある。〈目の前に〉とは、より正確には「今・ここに」ということである。「今・ここに」は、時間位置・空間位置を示している。知覚的なノエマは、こうした時間位置・空間位置をもっている。この時間位置・空間位置は、「数」や「意味」のような普遍的なものに対して、「個体」を可能にする直接経験=志向的体験の成分である。
(これが現象学だp147)
世界の発生と現象学
超越論的主観性は、存在=超越を構成するからこそ、超越論的だと定義されていた。
ところが、右では、世界の〈存在〉は意識の存在措定によるものではない、ということが発見された。
存在措定とは存在の構成(存在を認めること)であるが、世界の〈存在〉はこれに依存しないのである。
これは、存在措定=存在構成に先立って、それゆえ意識の働き(志向性)に先立って、世界は〈存在する〉‐いやすでに〈存在してしまっている〉‐ということである。
とすれば、世界はもともと志向的現象(志向性によって構成された現象)ではない、ということになるだろう。
これを発見するとき、現象学は新たに始原する。
(これが現象学だp204)
とすれば、世界は現象学的に「ない」のかな
高次の主題化的な構成が獲得する明証性は、じつは、この隠蔽や沈降をともなっている。先に述べたように、ガリレイ以後の科学的な高次の世界の構成は、低次の生活世界を覆い隠していた。(逆に、覆い隠されたものは、それが覆い隠されてはじめて、求められる)。そして、このような事態の最根源にあるのが、現受動的・原事実的な次元である。いまやこれが問われている。だが、これを明証的に捉えようとするならば、それは隠蔽を伴う。とすれば、原受動的・原事実的なものをその現場で問う現象学(形而上学〈存在=超越とする学〉)は、明証性を新たに‐隠蔽性と連携させて‐考え直さねばならないはずである。このとき、ハイデガーの非‐隠蔽性としての真理の概念が甦ってきそうである。
(これが現象学だp212)
現象学は、様々な学問の可能性を広げていきました。
ステップ2では、現象学のおおまかな説明と、現象学が問い続けている問題について述べました。
上記がステップ2のまとめになります。
ステップ2の目的はカントまたはフッサールの超越論的な考え方のポイントを理解することでした。
まとめ
- 「超越=存在」となる視点を把握する
- フッサールによる志向性の発見
- ノエマ(諸現出と現出者)の違い
- 現象学は語ることができる
- アプリオリと対象領域
- 現象学で隠蔽されていた「世界」とは
次はステップ3。
ハイデガーの講義録を読むことで、彼の思考スタイルに馴染むことが目的です。
私は手に入りやすい「形而上学入門」(マルティン・ハイデッガー著、川原栄峰訳)を選びました。
ハイデガーを読むステップ3「ハイデガーの講義録」
「形而上学入門」では、まず「概観」(本書p324)から本を読むと問いを見失うことが少ない、と述べています。
概観からのまとめ
われわれは4つの差別を問題にしてきた。
「存在と生成」、「存在と仮象」、「存在と思考」、「存在と当為」。
存在というものを、その限定づけられた意味からまずは捉える。
なぜ差別から捉えるのかと言えば、「ある」という語は言葉の中では「関係語」としてはたらいているから、存在はある一定の意味をもっていることを示すため。
「存在は生成に対しては滞留である。
存在は仮象に対立しては滞留する典型、常に等しいものである。
存在は思考に対立しては根柢に横たわるもの、眼の前にすでにあるものである。
存在は当為に対立しては、まだ実現されていない、あるいは既に実現されている当為的なものとしてそのつど前に横たわっているものである。
「形而上学入門p328」」
ハイデガーはこれらの存在はみな同じことを言っているとのべる。
限定されていることの名称をハイデガーはフォアハンデンハイトという。
「フォアハンデンハイト=存続的現存性=従来の存在の概念=眼の前に既にあること」
「だから従来の存在の概念は’ある’もののすべてを呼称するためには不十分である」(p330)とハイデガーは述べる。
従来の考え方は隠されているものを問わないので、ハイデガーはフォアハンデンハイトを批判する。
そして、今までとは違う一つの思惟によって、世界と間接的にかかわる可能性をさぐっていく。
では何が足りなかったのかというと「時間」。
現続的存在性(フォアハンデンハイト)が従来の存在の概念の根本概念だったのなら、「存続性の本質と現存在の本質との根柢に隠されているものとしては、時間のほかに何があるだろうか?」(p333)
「形而上学入門」で「フォアハンデンハイト」の意味での存在を確認した。
それによって、このフォアハンデンハイトの意味での存在が、時間を規定するための視線になる。
まとめてみると、ステップ1「ハイデガー入門」で扱った従来の西洋哲学批判のことを解説している内容だとわかります。
例えば、「論理学」(論理は思考の形式や法則のこと)はこの西洋哲学のフォアハンデンハイトによってたてられた学なので、その枠組みとは違った思惟をさすことでもあると述べられています。
4つの差別のグラフ
当為 | ||||
⇑ | ||||
生成 | ⇐ | 存在 | ⇒ | 仮象 |
⇕ | ||||
思考 |
ハイデガーは存在を分析するときに、もっとも存在を支えているものは思考だと考えました。
かつ、存在と当為の差別の矢印は、思考の上にあり上を向いている。
「存在は思考を根拠にしているとともに、当為によって凌駕されている」(p318)のではないか、とハイデガーは考えました。
「明らかになったことは、存在がイデアとして規定されるやいなや、当為が存在に対する対立者として登場するということである。」(p320)
ハイデガーの問い
「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」
これがハイデガーが問う、もっとも根本の問い。
「むしろ無があるのではないのか?」
と付け加えることによって、思考を広げることを意図しました。
哲学するとは、この問いを問うことだとハイデガーは言うのです。
問い方によって、問いはまったく違ってくるのだ、と。
哲学をするとは
- 哲学が何かを本質的に問う問い方はすべて、必ず時代向きでない。
哲学は本質的に時代向きでない。 - 哲学はむしろ逆に時代を自分の尺度のもとに置くような知である。
- 哲学は物事をやさしくするものではなく、むしろむずかしくするばかりである。
- 存在そのものを、むずかしいものにするということが哲学の真の使命なのである。
- 哲学するとは異‐常なことを異‐常に問うことである。
- 問うとは知ることを‐志すことである。
- 知るとは真理の中に立ちうるということである。真理とは存在者の開明性である。
(「真理」は以下ナチスとの関わりとの部分で説明) - 知るとは習うことができるということである。
- 習うことができるということは、問うことができるということを前提としている。
- 哲学は精神的現存在の全く違った領域と等級との中に立っている。
哲学の思惟と同列にいるのは、ただ詩だけである。 - 無について真に話すのは常に非凡なことである。
- 問うことが問いつつ自分で自分を変身せしめる。
- 存在はどうなっているのか?と問うこと‐これはわれわれの歴史的‐精神的現存在の元初を反‐復し、別の元初に変身させる。
- 形而上学と哲学とは決して学問ではなく、‐それらが学問になるということもありえない。
(学究的に基礎づけることができない)
(「形而上学の根本の問い」から各抜粋)
(形而上学入門p63)
「ある」の語源
‐われわれの出発点をなした事実、すなわち「ある」といった語は空虚でふわふわした意味を持つという事実に対する十分な説明が得られる。
(形而上学入門p126)
「存在」という語は、すべての変化形において、その国語の他のすべての名詞や動詞が、その名詞や動詞でいわれている存在者に関するのとは本質的に違ったふうに、存在という語でいわれている存在そのものに関係する。
(形而上学入門p149)
ハイデガーがナチスと関わった理由
ハイデガーは世紀のスキャンダルとも言うべきナチズムに深い関わりをもちました。
その「ハイデガーの弁明」も、この「形而上学入門、シュピーゲル対談」として載っています。
ハイデガーがナチスと関わった経緯として、大学の一つの新しい意味を取り戻したい、という意図がありました。
ハイデガーは大学のために総長をひきうけます。
しかし、ナチスとの意見との違いから、総長をやめさせられました。
総長の期間にナチスに密偵されることがあり、このことからハイデガーは意図的に独自の用語を使っていたと述べています。
例えば「真理」。
「真理」とはハイデッガーの場合「内的」、つまりギリシア的・元初的には、ギリシア語alêtheiaが言い表しているように「非隠蔽性」のことであって、言表の正当性ではない。
‐つまり「真理」とは、もともとは、命題の正しさではなくて、存在者が隠れていないこと、開けてあらわなことなのである。
だからこれはむしろ「ことの真相」という日本語に近い。
(形而上学入門p424解説部分)
ハイデガーはナチスに関して「この運動の内的真理と偉大」と言ったことが問題とされています。
けれど、ハイデガー用語があり、かつハイデガーなりのカムフラージュがあるのだと述べられるのです。
(ほんとは好きなのに嫌いかのような態度をする)
ステップ3の感想
ステップ3「形而上学入門」は、ギリシア語表記がとても多く、何を言っているのかわからなくなってしまう個所が多々ありました。
ステップ3の目的はハイデガーの思考スタイルに馴染むこと。
ちなみに、ステップによれば「形而上学入門」は★1で、「ハイデガー全集24巻」と「ハイデガー全集25巻」が★3つです。
「形而上学入門」の理解が万全とは言えませんが、全体を把握したいのでこのままステップ4に進みます。
問うことができるということは待つことができるということであり、しかも一生涯待つことができるということである。
しかし、すみやかに過ぎゆくものだけ、両手でつかめるものだけを現実的だとみなすような時代は、問うということを「現実から無縁」なこと、やっても引き合わぬこととみなす。
だが数が本質的なものではなく、正しい時間が、つまり正しい瞬間と正しい忍耐とが本質的なものなのである。
「熟慮する神は
時ならぬ成長を
嫌いたもうから」。
ヘルダーリーン(ハイデガーに強い影響を与えた詩人)
(形而上学入門p334)
ハイデガーを読むステップ2に戻る「カント入門講義」
さっそく23ページから読解していこうと思った矢先、このような文がありました。
ハイデッガーの理解によれば、カントのいわゆる「アプリオリな綜合判断」は存在者が一般にどう存在するかということを存在者的経験に先行して認識することである。
それゆえ、「アプリオリな綜合判断はいかにして可能か」という『純粋理性批判』の問いは、われわれが存在者の存在を認識することの可能性の条件への問いである。
ハイデッガーの存在者の意味への問いは存在了解一般の可能性の条件への問いであるから、まさに『純粋理性批判』の問いの反復なのである。
(ハイデッガーの超越論的な思索の研究p25)
あっ、カントの『純粋理性批判』解説は、ステップ2での参考文献だ
『純粋理性批判』の問い
さて、カント自身には、学問に関して、解明すべき二つの大きな問題がありました。一つは、純粋数学のような、経験によらない学問を構成している特殊な認識が、どうして得られるのかという問題でした。そしてもう一つは、同じように経験によらない学問のふりをしながら、実はそもそも学問ではない「悪い形而上学」に対して、どのような仕方で学問と似非学問の間の線引きをしてみせるか、という問題でした。これら二つの問題に対して解答を示してみせたのが、カントの『純粋理性批判』でした。
(カント入門講義p142 以下ステップ4までこの著作の引用)
分析判断と総合判断(p142から参照)
例えば、「日本人は人間である」という判断を考えてみます。
この判断は、主語に「日本人」という言葉が使われ、述語に「人間」という言葉が使われています。
「日本人」も「人間」もそれぞれの言葉が概念(なんらかの考え)を持っています。
カントは主語が表している概念を「主語概念」、述語が表している概念を「述語概念」としました。
そして、この概念の中身がどのようになっていて、それがどのような要素から成り立っているかを調べる作業を「分析」としました。
「日本人」という主語概念を分析すると、すでに述語概念の「人間」が含まれていることがわかります。
「このように、主語概念を分析するとその中に述語概念が含まれていることがわかるタイプの判断のことを「分析判断」と言います。
それに対して、主語概念を分析しても、その中に述語概念が含まれてはいないような判断のことを「総合判断」と言います。」(p145)
この「日本人は人間である」という判断は「分析判断」です。
それに対して、例えば「すべての物質は重い」が「総合判断」。
物質の概念と重さの概念は、前者が後者を含むという関係はありません。
しかし、経験によってその物体が重いことがわかったとすると、今までつながりのなかった概念を一つの判断につなぎ合わせることになります。
つまり、二つの概念を総合するのが「総合判断」なのです。
アプリオリとアポステリオリ。
カントは経験に基づくものを「アポステリオリ」、経験に基づかないものを「アプリオリ」と表現しました。
カントのこの言葉(文章の抜粋)から、「経験とは関わりなく」必然性と普遍性を持つ認識が「アプリオリ」と言われるものであり、それに対して「経験的にのみ認識される」ものが「アポステリオリ」と言われていることがわかります。
(p152)
さて、4つの言葉がでてきました。
これを表にしてみます。
アプリオリ | アポステリオリ | |
分析的 | アプリオリな分析判断 | アポステリオリな分析判断 ✖ |
総合的 | アプリオリな総合判断 〇 | アポステリオリな総合判断 |
この表の中にカントの問い「『アプリオリな綜合判断』はいかにして可能か」がでてきます。
(✖はないという意味)
カント以前、総合判断は一般に「経験に基づく」というアポステリオリな判断とみるのが通常だったといいます。
(純粋⇒カントの場合、「経験的なものが少しも混じっていない」とか、「いかなる感覚も混じっていない」など)
コペルニクス的転回
(カントの考え方⇒対象が認識に従う)
例えば、現象学で私たちは他人のありようが理解できなかったりする。
でも、理解できないものが現象となってあらわれている(即座に直接知る、直観)。
これは概念(なんらかの考え)と対比するよね
カントは、私たちの知性がアプリオリに持っているこうした思考パターン(思考形式)を「純粋知性概念」と呼びました。別名「カテゴリー」です。
(p176)
- 量のカテゴリー
単一性、数多性、総体性 - 質のカテゴリー
実在性、否定、制限 - 関係のカテゴリー
内属性と自存性(実体と偶有性)、原因性と依存性(原因と結果)、相互性(作用するものと作用をうけるものとの間の相互作用) - 様相のカテゴリー
可能性‐不可能性、現実存在‐非存在、必然性‐偶然性
それぞれを数えると12カテゴリーになります。
カントはアリストテレス以来の伝統的論理学から、完全にカテゴリーを抜き出したと主張しました。
『純粋理性批判』の主たる目的というのは、「知性と理性はいかなる経験とも関わることなく何をどれほど認識することができるか」、つまり、(主として)アプリオリな総合判断はどのようにして得ることが可能なのかを明らかにすることです。
(p215)
でも、伝統的な論理学に従っていたから、ハイデガーはここを新たに問い直したんだね
ハイデガーを読むステップ4「『存在と時間』のあらすじを知る」
「ハイデッガーの超越論的な思索の探究」では、「存在と時間」のハイデガーの問題意識は新カント派と共有していると述べています。
かつてカントが、単に信憑されるにすぎず、真正な仕方では認識されえないものとして残した自由と規範性の領域に対し、自然科学的ではない仕方で、しかしやはり真正な学問的な認識が可能なのではないか、という新カント派の問題意識である。
(ハイデッガーの超越論的な思索の探究p26、これ以下の引用はこの著作から)
実践理性は道徳的な行いをしようとする理性で、理論理性(対象を認識する能力)とは区別されていた
われわれは現存在の存在諸性格を実存範疇と名づける。これらは、われわれが諸カテゴリーと呼ぶような、現存在的でない存在者の存在諸規定から鋭く区別されなければならない。‐実存範疇とカテゴリーは、存在性格の二つの根本可能性である。‐実存者は誰か(実存)である何か(もっと広い意味における眼前性)であるかである。
(p28ハイデガーからの抜粋)
存在と時間って構成は似てる
- 純粋持続 ⇨質的変化する見方
- 等質的時間⇨物理的な時間の見方
(ベルクソンの見方)
持続的な時間は個人にしか現れません。
例えば、好きなことに夢中になっていたら時計では3時間たっていたけれど(物理的な時間)、自分の感覚だとあっという間だったと感じるような時間(質的変化する時間)のことです。
ベルクソンはこの点にこそ人間の自由が位置付けられると考えていました。
ハイデガーもまた、この点に自由を考えたので、ベルクソンの洞察を継承するものと考えられます。(p29)
そして、この洞察はハイデガーに特有なものをもたらすようになります。
われわれは、自然の存在に接近するよりも前に、まず自由なものとしての現存在の存在性格を理解すべきなのである。
このときまた、ハイデッガーの超越論性をカントやフッサールにたいして際立たせるのは、彼がわれわれの有限性を強調する点である。
ハイデッガーの超越論性は常に有限性との葛藤の中にある。(p30)
カントがすべての存在者を自然として一律に扱ったのに対して、ハイデガーはわれわれとその他の存在者とを区別して位置づけることから出発しました。
現存在という位置づけです。
「現存在は目的それ自体として実存するのであり、現存在でない存在者はわれわれの手段として出会われる。‐現存在が存在者的に際立っているのは、この存在者にとってはおのれの存在においてこの存在自体が重要である」‐
われわれは畢竟、自分自身のために存在するのである。(p48)
〈現存在の存在の意味が時間性である〉という主張が「存在と時間」刊行部分の課題。
ハイデッガーの超越論的な思索の研究の見通し
- カントの理性理論(対象を認識する能力)
「対象⇒時間・空間のフィルター⇒知性の12カテゴリー⇒対象を認識(これはコップだ、と認識する)」
これに対して、ハイデガーは知性のカテゴリーを批判。
人は知性によって見るわけではないとして、反主知主義の立場にたつ。
そして認識論(フォアハンデンハイトの分析、自然の存在論)が主流になっていたところに、存在論(あるとはなにか)に焦点をあてる。
存在論が学問として成立する(経験によらない学問を構成している特殊な認識がどうして得られるのか)ことを明らかにすることがハイデガーの「存在と時間」での主張だとして、その思索をたどるのが「ハイデッガーの超越論的な思索の研究」の特異な点です。
カントは存在了解一般の可能性の条件(理論理性)を問いたのに対して、ハイデガーはそれに先立って現存在の存在を学問的に問う(基礎存在論)ことにしたのです。
でも、そう前提にしているのはどうして?というところから始める
多様性、相対主義!
なんでも言えてしまうというのは、「悪しき形而上学」に戻ってしまう
ハイデッガーが構想した存在論は、すべての存在者の存在を〈それぞれの‐実践の主体それ自体をも含めた‐存在者が実践の主体に対してどう現象するのか〉ということとして説明するものであって、超越論的観念論の一種の改訂版である。(p48)
現存在の分析
ハイデガーは私たちの日常的な在りかたをまずは分析しました。
彼(ハイデッガー)は、われわれが徹底的に歴史的であることを強調する。このことは同時に、われわれが日常的には自由でないということを意味する。われわれは偶然的な歴史的・地理的状況のなかに投げいれられたものとして自身を見出すのであり、われわれのすべての認識はそうした偶然的なそれぞれの状況によって逆らいがたく規定されている。こうしたことを指してハイデッガーはしばしば、われわれのすべての企投が「被投的企投」であると述べる。
(p30)
- ハイデガーによる了解は、人間的事象に対するわれわれの独特の認識を指す。
- 了解はわれわれの認識の半分ではなくて、すべてを規定する地位にある。
- 「了解は自由なものとしてのわれわれに関わるものであるが、しかし同時にすべてのわれわれの認識の根柢にある」(p49)
- 総じて了解は「企投」という構造を持つ。
- 「すなわち、一般に何かを了解することは、それを別のものへと企投することである。
『(A)を了解すること』は『(A)を(B)へと企投する』という構造をもつのである。」(p49) - 「企投とは、何かをあらかじめ用意された可能性のなかへと投げ込むことによって了解するという構造を意味する」(p51)
例
科学者のガリレイがボールを転がせば、それを見守る自然探究者はそのボールの転がりをガリレイの問いと関連させて了解する。
学校の先生が机の上の物をしまってと言えば、それを聞く生徒は机の上にあるノートや鉛筆など(机の上にある空気や宇宙を無視して)を先生の意図とみなすように了解する。
私は「いま私はどのように存在しているだろうか」と自問し、「きょうはなかなかいい調子だ!」といった具合に自分のあり様を了解する。(p51)
そして、この了解には2つの性質があると述べられます。
私は私の可能性を目的として了解しているのだが、同時にこの目的に対する手段としてもろもろの道具の存在をその都度全体的に了解してしまっているのである。
(p54)
現存在自身の存在の了解(目的)と、手許のもの(広義の道具、手段)としての存在の了解です。
ハイデッガーは、日常的な現存在が〔非本来的〕な仕方でおのれを了解していると主張する。そのことは、われわれが少なくとも二つの仕方で、自分を完全に自由なものとして了解することに失敗しているということを意味している。第一に、ハイデッガーによれば、非本来的な現存在の企投における可能性は「制限されて」いる。第二に、現存在の可能性は、おのれの可能性であるという以上に世人(日常に埋没するような生き方、誰でもない人、交換可能な人)のそれである。
(p69)
了解に2つあって一方が手段的(道具的)なら、現存在は完全に自由ではない、ってなっちゃうよね?
先駆的決意性とは
死への先駆
むしろ私はこのような仕方でおのれの存在を了解するほかない。すなわち、私は存在するが、このことは当たり前のことではなく、端的な‐それ以上に何の根拠も目的もない‐事実である、という仕方で。(p80)
すなわち、私の死は私の「終わり」であるから、私はこの可能性への企投においてはじめておのれの存在を〈手段ではありえないもの〉‐すなわち端的な「目的」‐として了解しうるのである。(p82)
決意性
われわれが解釈すべき決意性は、〈責めあることへと呼ぶような良心の声を了解すること〉です。(p86)
このハイデガーの良心はカントの議論を引き継いだものとして見ることができると述べられています。
カントによれば、どんなに自分に罪がないことを主張しようと思ったとしても、自分の良心を黙らせることはできないのです。
でも、良心が痛む…
‐良心は「後悔」と同様に、自分は別様に行為しえたはずだということをわれわれに信じさせる。これらの感情は、自分が自由であり、自分の行動を選択することができる、とわれわれに信じさせる機能をもつのである。(p88カントの議論から)
‐決定性とは、われわれが日常的な了解において「そうするほかなかったこと」だと思っていることごとを、「私が選んだこと」として了解し直すことである。‐ハイデッガーは決意性が「一つの選択を後から行うこととして遂行されなければならない」のであり、そして「選択を後から行うというのはこの選択を選ぶことを意味する」と述べている。(p90)
ステップ4までの感想
ステップ5からは実際に「存在と時間」を読むことです。
ステップでは、一人で読むのではなく複数人で読む「読書会」スタイルが推奨されています。
なのでブログではここまでにします。
- ステップ1「ハイデガーに対するイメージをつかむ」。
実は以前、ハイデガーの「世人(ダス・マン)」だけを取り出して、記事を書いたことがあります。
その背景の問いを知ると、また違った解釈になりそうです。
- ステップ2「超越論的問題設定のイメージをつかむ」。
超越のイメージがなんとなくですが掴めました。
特に現象学の志向性におけるノエマを考えることで、思考の幅が広がるのを実感。
- ステップ3「ハイデガーの講義録を読む」。
ステップ1、2の知識を活用しながら、こうやってその意味を述べていたのか、という感覚がありました。
ただ、ギリシア語がわからなすぎて、まとめや解説に頼ってばかりいましたが。
- ステップ4「「存在と時間」のあらすじを把握する」。
カントに関する前提がわからなかったので、ステップ2で推奨されていた「カント入門講義」に一度戻りました。
「カント入門講義」はカント用語を詳しく解説してくれていて、カントの超越論的な思考を掴むことができました。
「これが現象学だ」で超越論的な思考をつかめていたので、「カント入門講義」がカントのノエマを説明しているのだと把握できたのです。
ステップ2から戻ると、「ハイデッガーの超越論的な思索の研究」がようやく読めるようになりました。
そして、前提とされている知識から理論を構築するとはこういうことなんだ、という実感を体験できました。
「存在そのものを、むずかしいものにするということが哲学の真の使命なのである。」
(形而上学入門)
むずかしいものにする、ということも体感できました。
ハイデガー研究者丸山文隆先生の「存在と時間」ブックリスト
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