フィヒテの知識学

フィヒテの知識学をわかりやすく紹介

マルクス・ガブリエルは著書「『私』は脳ではない」で、「私」哲学をする上で知っておきたいフィヒテの知識学の三本柱を説明しています。

「今日『私』について語るなら、このことを念頭に置いておくべきです。」

ここまでマルクス・ガブリエルが語る知識学の三本柱とは何か。

フィヒテは嘆いていたそうです。

「ほとんどの人は、自分を『私』と考えるより、月の溶岩のかけらだと考える方が簡単らしい。」

これはぜひとも知っておきたい概念です。

では、フィヒテの「知識学の三本柱」を見ていきます。

フィヒテの「知識学の三本柱」とは

フィヒテ(1762~1814)はドイツの哲学者です。

現在の倫理学で再発見されています。

フィヒテは「そもそも誰が、あるいは何が『私』なのか」という問いを発したことで有名です。

彼は知に注目しました。

「知っていることには、全体としての共通する形があるに違いない。」

この問いからフィヒテの知識学がスタートしました。

これを知らないと、私たちは自分自身について誤解をしているかもしれないのです。

では、詳しく見ていきます。

知識学の第一原則

知識学の第一原則。
「私」=「私」
これは当たり前に見えるかもしれません。
しかし、それを記述できることがすごいのだとマルクス・ガブリエルは語ります。
例えば、 「丸い正方形=丸い正方形」 丸い正方形という言葉自体が矛盾していて、私たちはこれを間違っていると思います。
「熱くて冷たいコーヒー」
「動いていて止まっている手」
「現在の女性総理大臣(2020)」
矛盾する言葉をつなぎ合わせたり、今現在は存在しないものを記述します。
これらはイコールで結べません。
すると、「私」=「私」と記述できるのはどうしてなのかと疑問がわきます。
何かをそれ自体と同一視するためには、その何かがそもそも存在しうることが必要なようです。」とマルクス・ガブリエルは述べます。
矛盾する言葉を省けば、「正方形」「コーヒー」「総理大臣」は存在しています。
なので、「正方形」=「正方形」は成り立ちます。
「私」=「私」から、「私」は存在していることになります。
 

知識学においては知識なので、「私」とは何かを知っている誰かがいるという状況を表す呼び方です。

つまり、」とは何かを知っている誰か知の主体です。  

実は、「私」というのは発見された名詞です。

デカルトの有名な言葉

「我思う、ゆえに我あり」

これは我々は意識している限り、自分には意識があることを前提にしています。

フィヒテはそれを軽量化して「私は私」と言っているのです。

第一原則は知の領域には、それがそれ自体であると同一視できるものが少なくとも一つあり、それは「私」であるということを保証します。」

こども
僕は僕だよね
当たり前に思えるけど、みんな自分を知っているんだね

知識学の第二原則

知識学の第二原則。
「私」≠「私でないもの」
第一原則で確認したことは、「私」とは知の主体です。
なので、「私でないもの」とは、何かを知っている誰かではないものです。
何かを知らないと感じられるもの。 身近にあるものを例にあげてみます。
石、コーヒー、テレビ、パソコン。
これらは無機物なので私を私と感じていないだろうと推測します。
 

猫、犬、サル、鳥などの動物ではどうでしょうか。

「わがはいは猫である。」というのは有名です。

けれど、「私」とは何かを知っている誰かと第一原則で確認しました。

動物は誰かではない、つまり人ではないので、これも「私でないもの」です。

フィヒテはまた『私でないもの』というカテゴリーを『自然』とも呼びました
この自然から読み取れることは、自然科学が対象としている自然です。
つまり、「私でないもの」は絶対的客観を表します。  
 

主観に対して認識されるものを客観といいます。

科学で自分を度外視して調べられる物や事実のことです

例えば、辞書で「私」を引いてみると客観的な内容が載っています。

私(名)=「公に対し、自分一身に関する事柄。」(広辞苑

何かを知っている誰かは、自分一身に関する事柄ではありません。

知識学では、「私」≠「私でないもの」という立場をとります。

つまり、「私」と「私でないもの」を区別します

こども
僕は猫だよ
 
違うよ!人は想像できちゃうから混乱するね

知識学の第三原則

知識学の第三原則。
私は「私」の中で、分かち合える「私」に対して、分かち合える「私でないもの」を対立させる
私は何かを知ることができる状況の中で、多くの人々と知っていることを共有できる
けれど、それは絶対的客観で知ったことではない。
例えば、私は分かち合える「私でないもの」(ここでは科学データ)で私のことを教えてもらいました。
私=女性
私=会社員
私=〇歳
このように記述すると、知の第二条件「私≠私でないもの」にあてはまりません。
条件に従うならば「私≠女性」です。
私は私の中ではその対立をしているのです。
分かち合う知識では私は女性だと言いつつも、私は自分では「私≠女性」だと思っています。
  第三原則は「何かを知っている人は、それによって分かち合える状態に移されている」ということを表しています。
私は後の知識によって「女性」という言葉を知りました。
「女性」という知識を知ったから「分かち合える状態」になったのです。
分かち合うとは共有することです。
つまり、絶対的客観の知識を知っていなくても知は伝わるのです。
円周率の出し方。
太陽系。
人間の体の構造。
こんな難しいことを知らなくても、第一条件の「私」=「私」であることが、何かを知っていて分かち合える状態になっています。
知の3番目の条件とは正当化の条件とマルクス・ガブリエルは言います。
「何かについて疑いが生じたとき、すぐにもっともな理由で擁護できなければ、その何かを知っていることにはならない。」
情報は受け取っただけだとそのものを説明することはできませんが、情報が知識になるとそのものを説明できるようになるということです。
こども
君は君?
けう
絶対に私は私だよ!
第一条件が「私」=「私」なので、このように言い切ることができます。
客観的な知識を使わずに、正当化できるのです
でも、本人は「私」=「私」だと思っていても、他の人には伝わらないものがあります。
それは、本人が思っているイメージです。
こども
僕は僕を知っている。僕のことわかった?
けう
私は「僕」を知ってる。でも、お互いのイメージは分かち合えないね
「なぜなら、同じイメージを抱こうと思ったら、私はその人でなければならないからです。」
イメージは伝えられないけれど、客観的知識がなくても知っていることは分かち合える。
何かを知る能力をすべての人々が共有していることを基本思想で述べているのです。
つまり、我々は他者から何かを学べることを示します。 みんな自分しか知らないことを知っているからです。
これは、理性普遍説と呼ばれていて、啓蒙の基本前提の1つです。
どんな他者からも、学ぶ何かががあるのです。

知識学の3本柱を見てきました。

第一原則「私」=「私」
第二原則「私」≠「私でないもの」
第三原則「私は「私」の中で、分かち合える「私」に対して、分かち合える「私でないもの」を対立させる」
 

では、この原則を疑問視する意見も見ていきましょう。

知識学の三本柱の疑問点

知識学の第一原則の批判

「私」=「私」

「私」とは何かを知っている誰かがいるという状況を指します。

このように定義すると、ソクラテスの無知の知が批判になります。

ソクラテス「本当に何かを知っている誰かなんていない」 これに反論するとします。

すべてが疑うことができる中で、フィヒテは知の主体としての「私」を定義づけました。

なので反論はこうです。

「あなたは無知の知を知っている。 何かを知っているあなたがいる。」

「何かを知っている誰か」は第一原則に反論はできないのです。

反論している人が、反論する何かを知っているからです。

知識学第二原則の批判

「私」≠「私でないもの」

フィヒテが私でないものを「自然」と言ったときに、論争が起こりました。

それはこんな問いからです。

『私』は自然といったいどういう関係にあるのか。」

そして、自然科学は絶対的客観から「私」を見つけようとしたのです。

けれど「絶対的客観という立場それ自体が、そもそも絶対的客観という立場からは調べられない。」ことをマルクス・ガブリエルは述べました。

絶対的客観は外から見ることができないからです。

絶対的客観に私を取り入れたことは、今日の科学で問題視されていることです。

DNAの数式をすべて解明して、パターンを導き出したとしても、それだけでは人間についてわからなかった。

脳の細部を調べても、実際の人間の行動はわからなかった。

「私」は脳ではないのです

ただし、ただ自然科学を批判しているわけではありません。

「私」と「私でないもの」の区別が必要だと説いているのです

知識学第三原則の批判

「何かを知っている人は、それによって分かち合える状態に移されている」

客観的事実や物を知らなくても、「私」は知を分かち合えます。

それは、私の自律性を意味します。

フィヒテは「私」の自律性と他者を通してそれが承認されることに関連を見出した最初の哲学者です。」

フィヒテは絶対的客観による事実や物とは、私を度外視した結果として生まれたものにすぎないと考えていました。

この私の完全な自律性を批判したのが、19世紀の自然哲学と、マルクス主義や精神分析などです。

「私」は自然条件に煩わされもするし、混乱させられると彼らは言います。

しかし、フィヒテによれば「私」は「私」をよく知っていて、「私でないもの」とは混乱しないのです。

フィヒテの知識学-まとめ

フィヒテ知識学で知の三本柱を述べています。

それをマルクス・ガブリエルの解説から見てきました。

 

「私」=「私」 これにより、私は存在することになります。

「私」とは「何かを知っている誰か=知の主体」を表しています。

どんな反論も寄せつけません。

 

「私」≠「私でないもの」

「私」と「私でないもの」を区別します。

私たちの立場から客観的知識は形作られますが、その知識は同じものではないのです。

 

「私は「私」の中で、分かち合える「私」に対して、分かち合える「私でないもの」を対立させる」

つまり、何かを知っている人は、それによって分かち合える状態に移されている。

これにより私の知は正当化されます

そして、「私」の自律性が他者を通して承認されます。

これは、啓蒙の基本前提の1つになり、私には私にしか知らないことがあるのだと言えます。

 

けう
専門用語を使わない方が難しいのかもしれないね
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