ベンヤミンのアウラ(オーラ)とは、本物の作品に備わっている目に見えない力のことをいいます。
近年になり、複製技術は進歩してきました。
私たちは何でも写真や映像で、本物を間接的に見ることができます。
・本物に変わってレプリカが増えてくること。
・複製芸術に慣れるということ。
ベンヤミンのアウラ(オーラ)を元に、このことが私たちに何をもたらすのかを考察していきます。
ベンヤミンのアウラとは
一般的にオーラとは、真性の芸術が持つ特別な質感・一回性・迫真性・神聖さなどのことを言います。
人に対して物が発する霊気ないし独特な雰囲気のことです。(広辞苑 参照)
ベンヤミンは「今」「ここに」しかない本物の作品に備わっている目に見えない力のことを、アウラ(オーラ)と呼びました。(続哲学用語図鑑 参照)
ヴァルター・ベンヤミン(1892~1940)はドイツの思想家です。
詳しく見ていきましょう。
世界的に有名な作品の場合、私たちはレプリカでその作品に接しています。
レプリカで知っていたとしても、本物にあったときに感じる力のことをアウラ(オーラ)と言います。
複製技術の発展によって、作品のレプリカはよく知られるようになりました。
グローバル化によって、様々な作品を私たちは間接的に見ることができます。
しかし、本物には近寄れなくなりました。
そのことは何を意味するのでしょうか。
一つには、アウラ(オーラ)を使ってコントロールしていた権力からの解放があります。
芸術の一般化
例えば、ヒトラーは近代美術を嫌っていたようでした。
近代美術を退廃芸術と言って活動を制限していたそうです。
>>近代美術とそれ以前の違いはこちら。「13歳からのアート思考」
簡単に言えば、カメラの普及によって物事をそのまま複写する意味が重要ではなくなったので、複写以外の創造性に焦点を当てる芸術家が出始めたことをいいます。
ヒトラーによる制限は受けていたとしても、レプリカがあれば私たちは作品を間接的に見ることができます。
それに加え、複製品を使った芸術も一般化しました。
写真や映画などです。
ベンヤミンは複製芸術の発展は、芸術の概念を「身近」で「気軽」なものへと変えたと言いました。
より身近で気軽になった代わりに、そのレプリカからは本物に備わっていたアウラ(オーラ)を感じることはできません。
アウラがなくなったことでもたらされる自己意識の変化を見ていきましょう。
アウラ(オーラ)を実感しない時代
技術の発展によって、本物に触れなくても本物を「見る」ことができる時代になりました。
インターネットで世界中を見ようとすれば、それが叶う時代です。
では、それによって何が起きるのか。
マルクス・ガブリエルの「『私』は脳ではない」から、自己意識の章を参考にしていきます。
アウラ(オーラ)で自己意識に何が起こるのか
ある思考実験「水槽の中の脳」という話があります。
私が本当は水槽の中の脳であっても、それを知ることができないという話です。
この思考実験は、私たちは本物を知ることができるのか、出来ないのかということに関わってきます。
マルクス・ガブリエルは、私たちがもし水槽の中の脳だとしたらそれを知ることができる、と言いました。
(「私は脳ではない」参照)
つまり、本物と本物じゃないものに気がつくことができる、と。
彼は一般的にみんなが知っている「水」を例に思考実験を説明します。
私が水槽の脳だとすれば、実際に本物の水を見たことがありません。
「マシンは水についての概念・意見などを私にインプットするでしょう。 ーしかし、すべてはとんでもない錯覚にすぎないのです。 私は一度も水に触れたことがないのですから。」
触れたことがないものに関しては、概念や意見が成り立たないのです。
「$%’(&$&」
このような記号の羅列をインプットされるようなものなのです。
このことを、分かりやすく他の生物で表します。
砂浜にいるアリが奇妙な動きをしていると想像して下さい。
なんと、そのアリはモナリザの肖像画を描いているようです。
でも、そう思ったのは私たちがそのように見たからです。
「アリは私たち人間の世界を知りません。 それと同じように、私たちは彼らの生きる世界を知りません。」
もし私たちが水槽の中の脳であるなら、水に関することは何も知りません。
ヘレンケラーの逸話にあるような、そのものを知る体験がないのです。
それは、アリがモナリザを知らないことと同じです。
「タンクの中の哀れな脳は、自分自身が作り上げた空想の産物以外、何も知りません。」
水槽の中の脳では、本物に触れるときに現れるオーラは実感できません。
例えて言うなら、アリがもし奇跡的にモナリザを砂浜に書いたとします。
思考実験は無限回行えるので、もしかしたら、そんな出来事もあるかもしれません。
しかし、それはレプリカだと言えるのです。
アリはモナリザの背景を知らずに表面的に書き上げるからです。
もっと言えば、サルが有名な詩や芸術的な絵をかいたとしても、人間はサルではないのでその意図はわかりません。
水槽の脳に違和感を覚えないとしたら、ネットワークが私たちの生活の中心になってきているのかもしれません。
知っているものの多くが、ネット経由になっているということです。
ベンヤミンの説くアウラに触れないことは、私たちが本物とレプリカの違いに違和感を持たなくなると言うことです。
もし、身の回りがレプリカだらけになったとしたら、私たちは知るものが減るのでしょうか。
確かに、オーラを感じることは減ります。
それにかわって、5官の1つ「目」や「耳」などを主に通じた感覚が多くなり、触れるとは違う感覚になることは想像がつきます。
昔は雄大な自然を見て美しいと思ったことが、今では街のネオンや人工物をきれいだと思う変化です。
昔の人がこのことを知ったら、批判するかもしれません。
星空の方が数倍きれいだったと。
しかし、今では空を見上げるだけでは昔のような星空は見えないのです。
かわりに、ネオンが街を照らし私たちはそれをきれいだと感じます。
昔の人が感じたような満点の星空を知らないとしたら、それに代わるものを美しいと感じます。
体験によって言葉の意味や自分が意識することも変わってくるのです。
私たちはアウラとレプリカの違いを判断することが難しくなっていくるのかもしれません。
次に、私たちはアウラをどう判別するのかをみていきましょう。
アウラ(オーラ)は自己意識で判別できるのか。
マルクス・ガブリエルの自己意識では、自分のことはわからないと述べます。
ここでは一般的な意味での、人や物が発する霊気ないし独特な雰囲気のオーラを見ていきます。
Aさんは自分に高貴なオーラがあるかどうかBさんに聞きましたが、それを伝えることはできないと言われてしまいました。
「意識を意識のほうに向けることで意識が変わることがあります。」
と、マルクス・ガブリエルは述べます。
「もし自分の受けた印象の評価について少しでも疑いが生じるなら、その疑いを生じさせたのが自分自身であれ、他者であれ、印象そのものは変わってしまいます。」
つまり、もし自分に高貴なオーラがあると思っていても、その思いを自分が疑ったとします。
すると、オーラそのものが消えてしまうということです。
実感がゆらいでいるということだからです。
例えば、テレビでお宝を鑑定する番組があります。
鑑定結果がわかる前はオーラを持っていると予想ができるのに、評価が低かったとたん、そのオーラがなくなってしまうように感じます。
なぜ消えたと感じるかと言うと、オーラを自分で実際には感じていなかったからです。
自分でつくり出してたと思っていたそのオーラは人から聞いた作り物だったということを意味します。
オーラを知らなければ、評価が他者からのものだと気がついたとたん、自分の評価も変わってしまいます。
人は5官の中で目に一番の信頼を寄せていると言われています。
理論ではなくても、目でみれば確かだと思うのです。
オーラは目に見えない力です。
なので、オーラの場合、人は自分の意識に疑問を持つとすぐにそれを失ってしまいます。
目に頼れないからです。
本物に触れられないという弊害もまた、見えないところで起こってきます。
目に見えない無意識や記憶などの記事はこちら。
>>虚偽記憶ー自分の記憶はどこまで正しいのか。
ベンヤミンのアウラ(オーラ)とはーまとめ
ベンヤミンは「今」「ここに」しかない本物の作品に備わっている目に見えない力のことを、アウラ(オーラ)と呼びました。
複製技術の発展によって、作品のレプリカはよく知られるようになりました。
しかし、本物に触れることは少なくなったのです。
ベンヤミンは複製芸術の発展は、芸術の概念を「身近」で「気軽」なものへと変えたと言いました。
マルクス・ガブリエルの自己意識から、本物に触れないとはどのようなことかを見てきました。
ネットワークの世界に違和感を覚えなくなることです。
5官の1つ「目」や「耳」などを主に通じた感覚が多くなり、本物に触れるのとは違う感覚になることが想像できます。
そして、目に見えないことから、私たちがオーラを疑う理由を述べました。