アダムスミスと見えざる手

アダム=スミスと「見えざる手」|高校倫理1章4節1

このブログの目的は、倫理を身近なものにすることです。
高校倫理 新訂版 平成29年検定済み 実教出版株式会社)を教科書としてベースにしています。
今回は
高校倫理第1章
「現代に生きる人間の倫理」
第4節「社会と個人」
1.アダム=スミスと「見えざる手」
を扱っていきます。
3節では、人間における自然状態を元に、各哲学者が「民主社会と自由の実現」を目指してさまざまな理論を体系化していきました。
自然状態というのは「これはいかなる決まりも、いかなる権威もない状態、人間が素のままで自然の中に放り込まれている、そういう状態」(近代政治哲学p42)のこと。
自然状態は一種の思考実験だった!
人間が素のままだと「万人の万人に対する戦い」状態がホッブズの考えた自然状態で、そこをベースに各哲学者が社会秩序を議論していった
哲学は根本を批判します。
でも、これって思考実験だよね?
日常じゃないよね?
人間を日常的に見ることから理論を構築した一人がアダム=スミス(1723-1790)です。
「社会的な秩序を導く人間本性は何か」という問題に対するスミスの説明は次のように要約できる。
スミスは、人間は他人の感情や行為に関心をもち、それに同感する能力をもつという仮説から出発する
-(仮説から言えば、人間の)法と義務の感覚によって社会秩序が実現する。
「アダム・スミス」p75
人間は他者からの共感を求めて、自己を規制するようになるとスミスは考えたのです。
人のベースは欲望じゃなくて共感だと考えた
特にスミスは市場経済に関して、人間は相手に同感し、信頼をするから経済発展ができると考えた。
欲望だけだとそもそも発展はできない、と
アダム=スミスは経済学の父と呼ばれます。
特に有名なのが「見えざる手」。
「見えざる手」⇒個人が自分の利益を自由に追求すれば、意図しない結果として、社会の利益は増大する。
でも、「見えざる手」って意図しない意味(よく誤解されて)で伝わっているらしい
「見えざる手」の意図とは、スミスはどのような理論を説いたのかを見ていきます。
ブログ内容
  • アダム=スミスの「見えざる手」
  • アダム=スミスの共感論

参考文献 「アダム・スミス」『道徳感情論』と『国富論』の世界(堂目卓生著)「アダム・スミスの誤算」(佐伯啓思著)「共感の哲学」(中山元著)「近代政治哲学」(國分功一朗)

アダム=スミスの「見えざる手」

アダム=スミスが生まれた時代、十八世紀のイギリスは光と闇の両面をもっていたと言われています。

光の部分

  • 政治の民主化
  • 大西洋貿易システムの確立など、経済の発展
  • 生産技術の革新
  • 啓蒙の世紀

国王は「君臨すれども統治せず」という体制で議会での言論の自由が保障されていたり、出版物の数が激増したり、産業革命のただ中にあったりした時代。

イギリスは文明の光に満ちあふれているように見えていたのです。

一方、闇の部分。

闇の部分

  • 国内における格差と貧困
  • 財政難
  • アメリカ植民地問題

イギリスはフランスとの戦争に勝ったものの、その戦争の費用を調達するために多額の国債を発行。

またその財政を当時植民地だったアメリカから補おうとして反発にあい、かえって国債を増やしてしまいました。

フランスとの七年戦争や、後のアメリカとの独立戦争など、国内は発展してもお金が足りなかった
このときスミスが考えていたのは、さらなる革命ではなく、この光の部分を妨げる要因を考察することでした。

重商主義批判

アダム=スミスは『国富論』で、当時の政府が押していた重商主義を批判しました。

重商主義⇒商工業を重視し、特に金や銀などの貨幣を国内に蓄積すること
えっ、貨幣経済を批判したの?
金や銀は交換媒体にすぎないのに、人びとはそれ自体が富だと思い込むようになったとスミスは批判します。
本当に価値があるのは貨幣ではなく、それと交換される必需品や便益品だと述べました。
このように、重商主義政策は、一国の豊かさの増進という視点から見て得策とはいえない。
さらに、人類全体の繁栄という視点から見れば、人間労働が必需品や便益品の生産に向かうのではなく、交換媒体にすぎない金や銀の発掘、あるいは奪い合いに向かうのは、まったく愚かなことだといわなければならない。
「アダム・スミス」p174
スミスは『国富論』で、その思い込みから人々を覚まさせようとしたのです。
貨幣は人がつくったものであり、不確かなもの。
その一方で、「土地や労働」こそが価値の根源だとスミスは述べました。
スミスは地主階級制度の方を推奨していた。
貨幣よりも土地の方が基盤としてしっかりしている、と考えた
貨幣経済の波が押し寄せてるとき、そういえば日本でも荻生徂徠が貨幣経済批判していて、反近代思想なんて言われていたね。
二人とも農業を大事にしていた
当時の人々は土地を自分のものだと主張するために、命をかけて土地や国を守るなど、その土地や身分に合った道徳や精神性を必要とされました。
例えば、小説「ドン・キホーテ」などで扱われた騎士道精神、「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」と言われる武士道精神の重要性を、スミスもまた説いていたと考えられるのです。
「武士道」が説かれた頃の武士って、身分的には商人より上だったんだけど、お金を持ってなかった。
そんな武士階級は道徳的存在として位置していた
「現代は道徳が廃れている」なんていわれることがあるけれど、昔が貨幣制度ではなく道徳制度によって成り立っていたとしたら、現代は道徳的に廃れているという論理も納得だね
貨幣が価値を持てば、その精神性(命をかけて土地や国を守り、それによって土地を持つことが周りの人々に承認される)が必要なくなります。
なんで重商主義批判しているのに、経済学の父って言われているのかな

「見えざる手」

アダム=スミスが批判したにもかかわらず、当時のイギリス政府は重商主義でした。

財政難だったので、貨幣を国内に集めようとしたのです。

例えば、その一つがアメリカに課した「1765年印紙税」。

あらゆる印紙、例えばトランプのカード一枚一枚にまで印紙を貼りつけることを強要した税です。

これらアメリカから税を徴収しようとしたことが発端となり、アメリカとイギリスは独立戦争に突入します。

重商主義が争いを引き起こしていった
財政難を解消するために仕方がなかったと言えるかもしれませんが、スミスはこれに批判をします。
スミスにとって、諸規制のもとで既得権益を享受している人びと以上に危険なのは、人びとの感情を考慮することなく自分が信じる理想の体系に向かって急激な社会改革を進めようとする人‐「体系の人」‐であった。
「アダム・スミス」p270
例えば、国民の生活的に時給1500円が良いと政府が思ったとします。
いきなり時給1500円とすると、その給料を支払う企業は打撃を受け、倒産する企業も多発し、多くの人が政府を憎むようになるということ。
企業は企業で一生懸命働きながら利益を得ていたのに、同じ働きで前より低い給料になったり、悪いことしてないのに倒産するのは納得いかなくなるよね
スミスは憎まれるような政府を推奨しませんでした。
「どのような個人によっても、決して政府が暴力を用いたと思われてはならない」(アダム・スミスp241)と考えたのです。
ホッブズ、ロック、ルソーからなる社会契約説での政府は、人びとが従いたい政府だった
さらに、スミスは政府自身が道徳的に腐敗する可能性があることも指摘しました。
政府が誤ることもあり、腐敗する可能性もある。
そんな中、経済発展をするにはどうすればいいのか?
そこでスミスが考えたのが「見えざる手」です。
自然的自由の体系が確立された社会では、労働と資本の使い方は、所有者個人にゆだねられる。
個人は、自分の労働や資本をどこに向けるべきかについて、政府よりも多くの注意を払い、労働と資本を自分にとって最も有利な方法で用いるであろう。
個人が正義の諸法を守って行動するかぎり、このような個人の行動は、「見えざる手」に導かれて社会に最大の利益をもたらすであろう。
こうして、政府による優遇・抑制政策がなくても、というよりもむしろ政府による優遇・抑制政策がなければ、労働と資本は、社会にとって最も有利になるように、緒産業に分配されるであろう。
「アダム・スミスp234」
例えば、植民地貿易の独占権を与えている法律を徐々に緩和して、経済的自由を確立したほうが国内の混乱が解消すると考えました。
スミスによれば、国家が市場に介入する必要はないのです。
アダム・スミスへの誤解は、国家が市場に介入する必要がないという「自由放任主義」だけが伝わっていること
スミスは経済的自由放任主義を説きましたが、その背景には政策による国内混乱が前提としてあったのです。
スミスは貨幣経済批判という反近代的な思想だったけど、その対策については自由放任主義で近代的だった
そしてまた、このことを説く背景にスミスの人間観があります。

アダム=スミスの共感論

アダム=スミスは時代の流れであった社会契約という「契約」という視点を批判しました。

道徳や倫理は、プロテスタンティズムの場合のように、神と個人の間の孤独な契約ではなく、人と人の間の関係を秩序づける自然の業(わざ)の作用にほかならないのだ。
「アダム・スミスの誤算」p58

つまり、理性的に契約するのではなく、情念や他者にたいする情緒が人間社会をかたちづくっていくと考えたのです。

『道徳感情論』においてスミスが試みたことは、一言でいえば、道徳性の基礎を、人間の自然な感情から導き出すことであった。
「アダム・スミスの誤算」p60

社会契約説の流れが理性だったとすれば、スミスは人間本性を感情として捉えた
といっても、一般的な「理性vs感情」ではない。
感情といっても、理性的な面が論じられている
人間本性は、利害関係がなくても他人に興味を持ち、他人の感情や行為に同感しようとし、自分自身の感情や行為に他人が同感してくれることを望むものだとスミスは考えました。
しかし、人びとは経験によって、すべての人から同感を得ることが不可能だとわかってきます。
その不可能を解消するため、人びとは「中立的な観察者」という第三の目を持つようになるとスミスは説きました。
観察って理性的
人びとは他者に「同感」する(想像の上で他者の境遇に身をおく)ことによって、ある行為が正しいのかどうかを判断する(適宜性を決める)とスミスは述べるのです。
私が、その行為を対象化して「想像の上で他者の境遇に身をおく」ときには、この「わたし」は、欲望に突き動かされて相手に働きかける「わたし」ではない。
ここで「わたし」は、行為する「わたし」をいわば観察しているのである。
「アダム・スミスの誤算」p62
図の人物を順にABCだとします。
このAとBが争っている内容を判定する場合、それを端から見るCが双方の立場に立って(同感して)判断するしか、適宜性はわからないのです。
この図はABCという人物がいるのですが、これが私のなかで繰り広げられている、ということ。
人は「中立的な観察者」をわれわれのうちにもっているとスミスは考えます。
とすれば、いちいち他人によって「観察」され「是認」をもらわなくとも、自らの内にこの観察者をもっているものである。
しかも、この良心とでもいうべき内部の観察者は、われわれが教育を受け、育つ社会の中で自然に身につけてゆくものであろう。
-つまり、われわれは、多くの場合、「われわれ自身をできるだけ遠くから、他の人々の目をもって見るよう努力する」ものである。
「アダム・スミスの誤算」p65
人間本性を「共感」として見た場合、ヒュームの「知覚の束」のように、その人間は確かな主体として現れてこない
ものごとの判断をする場合、人はこの2つに頼るようになるとスミスは言います。
  1. 世間
  2. 胸中の公平(中立的)な観察者

そして世間は人間の「弱さ」に対応し、公平な観察者は「賢明さ」に対応すると説きました。

人間は共感的存在で、「弱さ」があるし、主体性がない。
それなのに、経済は自由放任していていいの?ってならないのかな

人間の「弱さ」と「賢明さ」

アダム=スミスは人間の「弱さ」と「賢明さ」の両方の面を認めていました。

しかし、だからこそ人間社会の秩序と繁栄がなされるのだと説きます。

すなわち、「賢明さ」には社会の秩序をもたらす役割が、「弱さ」には社会の繁栄をもたらす役割が与えられている。

特に、「弱さ」は一見すると悪徳なのであるが、そのような「弱さ」も、「見えざる手」に導かれて、繁栄という目的の実現に貢献するのである。

しかしながら、「見えざる手」が十分機能するためには、「弱さ」は放任されるのではなく、「賢明さ」によって制御されなければならない。
「アダム・スミス」p111

理性的というと「弱さ」は含まれない。
でも、感情とすることによって「弱さ」も含むんだね
スミスはマンデヴィル『蜂の寓話』(社会の繁栄はもっぱら悪徳のおかげによるもの)という考えと、ハチソン(社会秩序の基礎は道徳だと主張)の考えを統合しようとしました。
人は誰でも弱さを持っています。
例えば、飢えているとき正常な思考は働きません。
生活に困るとき、それが困らない状態になるまで自分の状態を引き上げるのです。
例えば、人が盗みをしても、飢えている状態のときにはその心理的状況が考慮される
引き上げているとき個人は、自分の労働を最大にすることを努力します。
そして、人は自分が困らない状態になってから、その余剰分を交換に回すのです。
個人は‐見えざる手に導かれて、自分の意図の中にはまったくなかった目的を推進するのである。
‐自分自身の利益を追求することによって、個人はしばしば、社会の利益を、実際にそれを促進しようと意図する場合よりも効果的に推進するのである。
「アダム・スミス」p170国富論からの抜粋
見えざる手は社会全体においても、個々人においても機能する
例えば、ある地主が大豊作によって小麦をたくさん持っていたとします。
その場合、本人の必要分以外には、小麦を分配してサービスや他の物に交換したほうが本人にとって得なのです。
モノの多くは腐りやすいっていう特性を持っているよね
人間の「弱さ」によって経済が回っていく。
しかし、そうだとすれば「賢明さ」は何に必要なのでしょうか?

アダム・スミスと「心の平静」

貨幣経済による金や銀は腐りません。

なので、貯めておくことができます。

この場合、自分の得だけを目指してた場合に、分配が起こらない、という事態がおきてくるのです。

ここで必要になってくるのが「賢明さ」。

スミスは『道徳感情論』において、人の道徳心におけるもっとも善いものは昔も今もそう変わるものではないと主張します。

ここでスミスが引用したのはストア派の「魂の平静」

スミスは、真の幸福は心が平静であることだと信じた。

そして、人間が真の幸福を得るためには、それほど多くのものを必要としないと考えた。
「アダム・スミス」p276

例えば、王様が他国を支配したいという欲望を家臣に語っていきます。

すると、家臣はその支配を達成した後で、何をしたいか王様に聞きました。

王様は「ゆっくりお酒でも飲んで家臣たちと語り合いたい」と答えたのです。

つまり、今ある状況と欲望を達成した後の状態とは、あまり違いがなかったという話。

「弱さ」もある程度の状態になれば満足度はそのままでよくて、後は分配に回してもよくなる、という発想
スミスは人々の教育が進んでいけば、人は「賢明さ」を増し、そこまで自分の為に富を蓄積しないと考えました。
諸個人の間に分配される幸福と不運は、人間の力の及ぶ事柄ではない。
‐そうであるならば、私たちは、幸福の中で傲慢になることなく、また不運の中で絶望することなく、自分を平静な状態に引き戻してくれる強さが自分の中にあることを信じて生きていかなければならない。
「アダム・スミス」p277
ここでは先ほどの共感によって手にした「中立的な観察者」の目が習慣化している自己がいると考えます。
人は自分を客観視してみることに慣れると、今手にしている欲望も、今のつらい現状も、一定の距離を持って見つめることが出来るようになるのです。
このまなざし(観察者のまなざし)を体現した人間は、他者を害する不正を犯した場合には、自分で自分に共感できず、他者の共感も期待できず、自分の共感も他者の共感も期待もすべて不正を犯された人に向けられるという悲惨な状況を想定しなければならなくなる。
このような人は自ら行動する前に、それが正義の規範に適合した道徳的な行為であるかどうかを点検することになるだろう。
「共感の哲学」p62
感情による同感が理性的になり、ついには道徳的になっていく
しかし、スミスの考えに反して、19世紀のイギリスでは、経済的な不平等は広がり、貧困や失業は深刻な問題になっていきました。
貨幣経済になっていったから、所有を主張するには「みせかけ」だけで良くなったと「アダム・スミスの誤算」では語られている。
徳の衰退も同感によって捉える社会、というのはスミスの誤算だった
アダム=スミスと「見えざる手」についてやりました。
次回はベンサムについて扱います。
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