「現代に生きる人間の倫理」
第6節「社会参加と幸福」
5.アーレントと全体主義への抵抗
具体例はナチズムや旧ソ連のスターリン主義。
階級社会の崩壊後、大衆(歯車的な人間、自分自身にさえ関心をもたない人)が思想によってつながった結果。
アーレントは全体主義に抵抗するための人間のあり方を考えた
- アーレントと全体主義
- アーレントと全体主義への抵抗
- アーレントの「労働」「仕事」「活動」
参考文献
「今を生きる思想 ハンナ・アレント 全体主義という悪夢」(牧野雅彦)、「ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者」(矢野久美子)、「責任と判断」(ハンナ・アーレント著、ジェローム・コーン編、中山元訳)
アーレントと全体主義
アーレント(1906-1975)の全体主義は、ナチスのホロコーストという事実から思考されました。
まずは、なぜユダヤ人がこのような被害にあってしまったのかを歴史的に考えていったのです。
ドイツの結束
アーレントは元からあったユダヤ人に対する差別感情と、国民国家ができてからの反ユダヤ主義は中身が違うものだと主張します。
ユダヤ人に対する歴史的な差別感情とは、ユダヤ教にある選民思想(ユダヤの民だけが助かる)や、キリスト教では禁止されていた金融業をユダヤ教では禁止されていなかったので、それによって裕福になったユダヤ人への嫉妬などと言われています。
この差別感情が反ユダヤ主義になったのではないとアーレントは考えます。
ドイツという国は、歴史的に拡大や縮小を繰り返してきました。
時代によってドイツの国の範囲が異なるのです。
反ユダヤ主義が形成されだしたのは世界大戦の頃。
世界大戦では、国が一致団結して一つになり他の国を倒すという目的思想の体系を築くと、より強い国(他国に戦争で負けない)になる、ということがわかってきました。
ドイツはドイツ人で結束しました。
第一次世界大戦での敗北や恐慌も手伝い、大二次世界大戦ではみんなが一致団結して思想を一つにすることに向かったのです。
そこで出てきたのがヒトラー。
ヒトラーはナショナリズム(自分の属する民族・国家を他から区別)をとなえて、ドイツ人の優位を主張しました。
それによって選挙でヒトラーは選ばれていったのです。
反ユダヤ主義とは
では、ドイツ人で結束するとはどういうことでしょうか。
ユダヤ人は国家を持っていません。
ドイツの中にユダヤ人はいたのです。
ユダヤ人は国をもっていないばかりに、ドイツの国内でドイツ民ではない、という扱いを受けるようになりました。
つまり、戦争に勝つというイデオロギーにとって、余計な存在とみなされるようになってしまったのです。
またそれに伴い、何か事件があると「国家や経済を背後で支配するユダヤ人」というような陰謀論もとなえられるようになりました。
陰謀論を支持したり、ユダヤ人を排除することで自分たちの優位や一致団結を主張する。
こうして形成されたのが反ユダヤ主義です。
ドイツ人で結束するかわりに、ユダヤ人はその結束からは外れた存在とみなされるようになりました。
全体主義とは
このような反ユダヤ主義の形成を受けて、アーレントは全体主義を考察しました。
反ユダヤ主義と全体主義は異なりますが、互いに影響をうけあっています。
それは、反ユダヤ主義と同時期に、資本主義による人間の疎外という影響があったからです。
資本主義では、富の集中と貧富の格差の拡大、人間の疎外(歯車化)がおきていました。
ここで発生したのが大衆です。
その特徴は「自分自身にさえ関心をもたない」「お互いに対する関心をもたない」「何者でもない」「替えのきく存在」。
英語の「マス」が意味するような「塊」や「集積」に近い。
(今を生きる思想p25参照)
何者でもない人々が一つのイデオロギー(ナチズムなど)に結束する運動こそが全体主義だとアーレントは考えたのです。
全体主義は何かの思想でつながるのが特徴です。
現代でも全体主義は問題になりうる
その何かの思想が、反ユダヤ主義に結びつきました。
その思想の中で始まったのがホロコーストです。
オルテガの大衆とアーレントの大衆
ちなみに、大衆と聞いて思い浮かぶのはオルテガではないでしょうか。
オルテガとアーレントの大衆は別のものです。
大衆の違い
- オルテガの大衆⇒大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のこと。
大衆はエリート(少数者、世の中をよくする努力を惜しまない人)の努力を当然のように扱いその権利を主張する。 - アーレントの大衆⇒大衆は何事にも関心を持たない。
エリートと大衆の区別は解体され、エリートは「いつでも取り替えのきく大衆」の代表
この違いにはアーレントの人間に対する見方が現れています。
特別な人(エリート、努力を惜しまない人)がいるのではなく、どの人も大衆になりうるのです。
大衆は「世界」のリアリティが喪失されることでつくられます。
彼ら(大衆)は目に見えるものは何も信じない。
自分自身の経験のリアリティを信じないのである。
彼らは自分の目と耳を信頼せず、ただ想像力のみを信ずる。
彼らの想像力は普遍的で一貫しているものなら何でもその虜になりうる。
大衆を納得させるのは事実ではないし、でっち上げられた事実でさえない。
彼らがその一部となるだろうシステムの一貫性だけを信ずるのである。
繰り返しの重要性がしばしば過大評価されるのは、大衆が理解能力や記憶力に劣ると一般に信じられているからだが、重要なのは繰り返すことで最後にはその一貫性を納得させるからにすぎない。
(今を生きる思想p30『全体主義の起源』からの抜粋)
つまり、頭脳明晰で何かに努力している人でも、オルテガのエリートではなくアーレントの大衆になりうるのです。
例えば、資本主義社会の中で利益をだすことだけを目的にしていれば、おのずとアーレントの大衆になっていきます。
現実への理解やリアリティがなければ大衆になっている
気が付いたら陥っているかもしれない、そんな全体主義にどのように抵抗したらいいのでしょうか。
アーレントと全体主義への抵抗
全体主義は政治の消滅である、と彼女は論じた。
すなわち、それは政治を破壊する統治形態であり、語り、行為する人間を組織的に排除し、最初にある集団を選別して彼らの人間性そのものを攻撃し、それからすべての集団に同じような手を伸ばす。
このようにして、全体主義は、人々を人間として余計な存在にするのである。
これがその根源的な悪なのだ。
「ハンナ・アーレント」p114『なぜアーレントが重要なのか』からの引用
全体主義とは、個人を余計な存在にすること。
つまり、反ユダヤ主義に適応したことが自分にもかえってくることで、自分自身も余計な存在となってしまうことなのです。
アーレントは「思考」と「判断」と「意志」をわけて考察していきます。
思考と判断と意志
なぜ三つに分けて考察するのかといえば、分けることによって自分自身の存在が明確になっていくからです。
思考と判断と意志
- 思考⇒自分自身との内的対話であり、過去と未来のあいだに生きる人間が時間のなかに裂け目を入れる「はじまり」でもある。
思考のためには自分と自分自身という一者のなかの二者を必要とする。 - 判断⇒つねに他者との関係のなかでおこなわれるものであり、他者の意見や範例を必要とする。
- 意志⇒未来に関わり、「意志する」と「否と意志する」のあいだで分裂や葛藤を経験する。
意志は選択の自由や何かを変えていくという人間の活動に密接にかかわる。
(ハンナ・アーレントp219参照)
アーレントは思考するとき、私は世界から引っ込むのだと述べました。
思考は孤独な営みであり、自己との対話だからです。
しかし、引っ込みっぱなしであれば、世界のリアリティと乖離してしまいます。
大衆主義との関連で考えれば、ただ思考だけしている人は大衆です。
では、行為だけしていればいいかと言えば、それも違います。
人は意志や判断によって行為をするのですが、その行為中の私には無私性という私がいないという特徴があるのです。
思考する者は自己において省察するが、行動する者は自分以外の人々としか行動することはできないのである。
そして思考という活動は、孤独のうちに行なわれ、思考者が行動を開始すると停止される。
反対に行動という活動は、他者がともにいることを求めるものであり、行為者がみずからのうちで思考し始めると停止される。
(責任と判断p516解説部分)
この思考・判断・意志は似ているようでいて、内容は異なるのです。
例えば、アーレントは哲学的真理と政治的真理とを分けました。
哲学的真理はソクラテスに代表されるような絶対的性格をもった一つの真理。
それはソクラテスが真実を主張したことによって死刑になったことからも、ある種の危険性がある真理です。
一方、政治的な真理は多様性を前提とした真理で、時と場合によって変わりゆく真理。
その真理は変わりゆくので、そのときはベストな対応ができたとしても、またいつでも警戒が必要になります。
アイヒマンについて
アーレントはホロコーストにおけるアウシュヴィッツ強制収容所の責任者アイヒマンの裁判について、全体主義の恐ろしさを語ります。
アレントにとってはこの裁判でただひとつ関連のある問題は、「人類全体の」複数性、「人間的な多様性そのもの」を破壊したアイヒマンの責任を明らかにする判断であり(これは究極的には裁判所の判断というよりも、アレント自身の判断である)、「この多様性なしでは、〈人類〉とか〈人間性〉という言葉が意味を失ってしまう」ということにあった。
「責任と判断」p506解説部分
アーレントは「汝殺すなかれ」という他者の顔が、「汝殺せ」に状況によって逆転してしまうという事実を指摘します。
先ほどの区別を参考にするならば、アイヒマンは業務を遂行するという意志や判断を持ち、世界に関わっていきました。
けれど、アイヒマンは自己との思考がなかったために、ただ流されるままに悪を遂行してしまったのです。
アイヒマンの弁護をしているようにとられたから。
でも、アーレントは思考の重要性を主張したかった
アーレントは状況に応じた問いと答えをわれわれに求めてきます。
アーレントの「労働」「仕事」「活動」
倫理の教科書でアーレントが紹介されているのは、労働(labor)・仕事(work)・活動(行為、action)を分けて考察したことです。(『人間の条件』)
- 労働⇒生存のために必要なもの
- 仕事⇒道具や作品をつくるもの
- 活動(行為)⇒他者と言葉をかわしながら、他者とともに共同体を営むもの
アーレントは近代においては労働や仕事が重視される傾向があるけれど、共同体に参加する活動こそが人間の本性を開化させることであると主張しました。
人の人生は本人が生みだした「物語」だが、それを語るのはその人自身ではない。
何人(なんぴと)も自分自身の人生を意図してつくりだすことはできない。
これもまた行為(活動)の「予測不能」な特質のもたらす結果である。
そのような意味において不確実な行為を支えて、一人一人の行為と人生に意味を与えるものこそ、人々の間に形成される「共通世界」であった。
(今を生きる思想p53)
(共通世界⇒お互いに一人の個人として自らの姿を現す「公的空間」。
公的空間⇒「世界」と自分自身のリアリティを保証する場、また私的空間(家族、プライベートな空間)とも区別される)
共通世界は人々の共通感覚を形成し、私が世界の中での善悪を判断できるようにします。
全体主義と共通世界
思考するとき私は閉じこもってしまい、行動するとき私は私ではなくなる。
とすれば、誰かが行動した私をものがたってくれる時に、私が世界(現実的な場)に私として現れます。
「同じ対象を見ているという事実こそが重要」(今を生きる思想p65)
アーレントをやりました。
次回はボランティアについて取り扱います。