経済学者センとケイパビリティ

経済学者センとケイパビリティ|高校倫理1章6節4

このブログの目的は、倫理を身近なものにすることです。
(高校倫理 新訂版 平成29年検定済み 実教出版株式会社)を教科書としてベースにしています。
今回は
高校倫理第1章
「現代に生きる人間の倫理」
第6節「社会参加と幸福」
4.経済学者センとケイパビリティ
を扱っていきます。
前回は、自由な経済活動によって引き起こされてきた格差や不平等に立ち向かう対策を考えたロールズ(1921-2002)をやりました。
ロールズは原初状態(無知のベール)を説き、正義の原理を導きました。
それに対して経済学者セン(1933-)は、この議論を受け入れつつも一部を批判し、人間のよき生(福祉)の条件について提示します。
センは経済学者とは言っているけれど、多くの分野を学んでいる人物で倫理と経済学の架け橋をした人物。
ノーベル経済学賞を受賞
センは主に機能潜在能力(ケイパビリティ)という考え方を導入しました。
  • 機能⇒人の福祉(暮らしぶりの良さ、well-being)を表す様々な状態(〇〇であること)や行動(〇〇できること)を指す。
  • 潜在能力(ケイパビリティ)⇒人が善い生活や善い人生を生きるために、どのような状態にありたいのか、そしてどのような行動をとりたいのかを結びつけることから生じる機能の集合
    例:「よい栄養状態にあること」「健康な状態を保つこと」「幸せであること」「自分を誇りに思うこと」「愛する人のそばにいられること」「人前で雄弁に話せること」など
ケイパビリティを例でしか示せないのは、個人の多様性を尊重しているから
ブログ内容
  • 経済学者センとロールズとの違い
  • 経済学者センの説くエージェンシー
  • 経済学者センのケイパビリティの具体例

参考文献 「貧困の克服」(アマルティア・セン、大石りら訳)、「不平等の再検討‐潜在能力と自由」(アマルティア・セン、池本幸生・野上裕生・佐藤仁 訳)

経済学者センとロールズとの違い

セン(1933-)はインドに生まれました。

当時のインドはイギリスの植民地支配下にあり、1947年に植民地支配に終止符がうたれます。

ロールズはアメリカ生まれの文化で正義論を説いたのに対して、センは異なる文化背景からよき生の条件について考えたのです。

特に、ロールズに対し、ロールズの平等論は物神崇拝的(フェティシズム)な特徴を持っていると批判しました。

ロールズに対する批判⇒モノ=財の分配が中心的な役割をはたしているので、その配分された財が人のために何をしてくれるのかという問題に気付いていない
例えば、配分された財が同じでも、ある差別を受けている人は出来ることが限られてしまうということ。
財がたくさんあっても使えない、という状況があるのです。
ロールズが社会契約説を参考に原初状態を出発点にしたのに対して、センはロールズよりさらに人の多様性を前提にして考えました。
社会契約説の出発点であるホッブズは人間を「どんぐりの背比べ」的に、みんな同じようなものだと考えた。
だから、あの人が望むなら私も望めるはず、という「万人の万人に対する戦い」状態から出発していた

何の平等か

センが問題にしたのは、「何の平等か」という視点です。

例えば、冷戦時代に資本主義諸国と社会主義諸国では、「自由」と「平等」で争ったという簡略化でよく説明されます。

しかし、これをセンの議論に当てはめるならば、「自由」と「平等」というのは次元が違うもので、対立できないと考えます。

  • 「自由」⇒追求すべき価値を認めるものの一つ。
    自由主義者は自由の平等を求めている。
  • 「平等」⇒「自由」の分布を指している。
    「平等」はある思想が多くの人々に受け入れられるために必要なものであり、まともな思想に備わっているもの。

つまり、「自由」には平等が含まれているし、「平等」は思想につきものな性質を持つのです。

センは「何の平等か」についてあらゆる視点から考察しました。

ロールズが優先順位や特定の原理を決めたのに対して、センはある社会課題の平等を求めることは周辺のものの不平等を受け入れることを意味する、と考えたのです。

良い点があると悪い面があるというのはわかるけど、そうなると何かを決めるということは出来るのかな

平等の中身

センが重要視したのは、「なぜこのシステムでなければならないか」という問いに答えられる、ということです。

  • トーマス・スキャンロン
    「自分の行動を正当化するためには、他の人々がそれを理性的に拒否できないということを条件とすべきである」という要件の妥当性と説得力の必要性を主張。
  • ロールズ
    「公正」の条件は、人が理性的に拒否できることとできないことを決めるための、ひとつの枠組みを提供している。
    (平等の再検討p26参照」

これらを引用しつつ、この妥当性や枠組みとしてセンは平等を用います。

「何の平等か」を議論する際に、平等は一つの一般条件として求められると考えます。

ロールズは所得に重点を置いたのに対して、センは何を平等として見たかということから生じる福祉や自由を考察した
「平等という概念は内容が詰め込まれすぎである」とか、「平等とは内容の空虚な概念」なんて言われるけれど、こう言われるほど「何の平等か」という平等の中身が議論の的になる
例えば、同じ所得と基本財産や資源を持っている二人の間でも、一方は栄養不良から逃れる自由を持ち、もう一人はそのような自由を持っていないという不平等が起こります。
つまり、所有物を平等にしたゆえに、自由が不平等になるのです。
自由のあるないというのも不平等になるし、自由がありすぎて選択に困るという場合でも困った事態が生じる、ということをセンは説きます。

政策による自由の変化

センの議論で言えば、飢餓に対しての平等が有名です。
彼は飢餓は食糧不足から起こるのではない、ということをデータで示しました。
  • 民主主義国家は大飢饉が本格化しない。
    選挙をしたり、政策の妥当性を問いただしたり、農作物の危機を言える報道力があることで、国民が飢饉に備える。
  • 権威主義国家は大飢饉になることがある。
    国政の「働かなければ喰うべからず」というスローガンにより、食料があっても飢饉の対策がおろそかになった例がある。
    飢餓に苦しむのはその人が悪い、とされてしまった。
センは個人の多様性を大事にしますが、全体についても個人の多様性が虐げられる政策を批判します。
個人は何を目的としたり、欲求するのかはわからない。
けれど、飢餓というのはその目的への自由を奪う。
センは自由と平等を考えることで、権利のはく奪が防止可能なものは何か、その為になにをなすべきか、という議論をするのです。
センはすべての人々による普遍的な合意は必要ではない、と主張する。
その代わりに、すべての人々に受け入れられる十分な理由がある、と主張する。
センは全体に焦点を当てるとともに、個人にも焦点を当てます。

個人の自由

センは所得や所有物だけでは、平等にはなりえないと主張します。
例えば、健常者ならばその財を用いて成し得る多くの事を、障害者はなし得ないという事実に対して、配慮すべきだとする点です。
例えば、今植えておけば4か月後にトウモロコシが食べられたとしても、今食べてしまうという行動
この場合、健常者が10の物資で健康的な生活ができるところを、障害者は20の物資を必要とします。
また逆の場合もあります。
100稼げるA君と、10しか稼げないB君がいたとします。
二人の所得を平等とするために、最大値を10としました。
すると、Aは90の犠牲を強いられることになるので、これを不平等だと考えることができます。
10にしたときの平等の指針は「最低限の暮らしができること」であり、それは一方で「持てる能力を十分に発揮できること」の不平等になるのです。
個々人の間の平等も妥当性を議論できる
また、センは個人のエンタイルメントに注目すべきだと考えました。
エンタイルメント⇒食料その他の生活必需品の購買力、突然に起こる権利の剥奪からおのれの身を守るなど個々の具体的な能力のこと
(貧困の克服p43)
センはケイパビリティ(潜在能力)の機能の拡大こそ、発展というものの究極的目標であり、それはまた同時に自由の拡大を意味すると述べるのです。(貧困の克服p169)
自分の状態が「善くなる」選択が増えることをセンは主張した
それでも、このエンタイルメントにも個人の意志が当てはまります。
自分の意志で断食をしている場合、(例えばガンディー)それは飢えない自由という選択肢を個人が持っているので不平等ではありません。
一方で、強制的に断食になってしまっている場合は、不平等なのです。
結果としてある二人が飢えている状態であったとしても、そこに到達するまでに格差が生じていると考えます。
ガンディーにとっては、自分が飢えることより人々の心に働きかけることを重視しました。
結果が同じでも、その過程を見なければ平等かどうかを議論できない
また一方で、自由が増える弊害や、自由の選択を増すことによって人々に課せられる努力についてもセンは考察しました。

経済学者センの説くエージェンシー

センはエージェンシーという考え方も導入しました。

エージェンシー⇒経済合理性を超えようとするところに人間の自発性や主体性を見出そうとする考え方。
例えば、自分の周囲にいる人たちなどの願いを、自分の使命として引き受けようとすること。
(不平等の再検討p128)

ある個人の「エージェンシーとしての達成」とは、その人が追求する理由があると考える目標や価値ならば、それがその人自身の福祉に直接結びついているかどうかに関わらず、それを実現していくことを言います。(p97)

例えば、ある人が受験に勝つこと(価値あると認めるもの)を達成することを指します。

受験に合格すれば、より役に立つ職(エージェンシーとして)につけるし、合格すれば周りも喜ぶ

また、これと反する概念もセンは考えます。

自分自身の福祉のための自由です。

自分が幸せを享受するには、勉強ばかりしていたり、働いてばかりいることが苦痛になってきます。

ではなぜ、エージェンシーという概念を導入するかというと、飢餓や選択肢が狭まりやすい人は、他の人々のエージェンシーとしての行動に大きく依存している面があるからです。

エージェンシーは多くの人々の選択肢を増やす
また私は他者のエージェンシーに恩恵を受けている

他者の自由を増やすエージェンシーの必要性と、それを達成するために課されるリスクも考えなければいけないとセンは主張しました。

センは様々な概念を導入することで、平等について幅広い見解を持てるようにしました。

また幅広い見解を持てないことにたいして、「合理的な愚か者」と批判しました。

「合理的な愚か者」

経済学では今まで「個人は自分自身の効用を最大化する」と仮定してきたので、ボランティアなどの他者のための行動を「愚か者」だと見てきた。

しかし、人はたった一つの基準で行動しているわけではない。

ホモ・エコノミクスとしての見方をセンは「合理的な愚か者」と呼ぶ。

つまり、たった一つの基準で人間が動いていると決めつけるのは「合理的な愚か者」と主張するのです。

経済学者センのケイパビリティの具体例

最後に、センの説くケイパビリティは潜在能力と区別すべきではないか?という議論を紹介します。

例えば「子どもの潜在能力は無限大だ!」と主張するとき。

ここでの潜在能力の使い方では、子どもに出来ることと出来ないことの両方が含まれています。

政策によって飢饉になっているとしたら、その政策に関わっていない子どもには「出来ないこと」だったと言える
それに対して、センのケイパビリティは今の時点で実際に実現可能なものだけを指しています。(不平等の再検討p313)
潜在能力というと「特別な力」という印象があるけど、それは違うんだね
例えば、断食をする人は「飢えない」という選択肢を持っています。
これに対して断食をしている現実と、現実ではないけれど選択可能な潜在的なもの(飢えないように出来る)とがケイパビリティとして表されるのです。
欲求と欲望を分けてみるとわかりやすいかもしれません。
  • 欲求⇒私が求められるもの、取り込めるもの。
    例えば、食べることが出来ること。
  • 欲望⇒私が望むけれど、取り込めないもの。
    例えば、憧れの人を見つめるなど。

人はエンタイルメント(己の身を守る能力)や、エージェンシー(他人のためにやり遂げる、引き受ける)という欲求を持てるのです。

それでも、ここにもさらなる問題が潜みます。

「私は自身のケイパビリティを過小評価しているのではないか」という自信のなさです。

人々が「欲することのできるもの」に過剰に依存してきたこと、特に、あまりに抑圧されていたり、多くを欲する勇気が持てないほど打ち砕かれている人々の要求を無視してきたことは、功利主義倫理学の短所の一つである。

潜在能力(ケイパビリティ)の勘定において同じような誤りを犯すのは望ましくない。
(不平等の再検討p263)

センの議論は多くを含むから、他の倫理学の議論も含まれる。
なので、批判は批判として受けついて解消していくことが要求される
例えば、本当に欲求がないのか。
求めることができることを欲望だけにしてしまっているのではないか。
このような問いは責任の問題や、ケアの倫理にもつながっていきます。

センは「誰についての話しているのか」をはっきり意識する必要性を示しました。

経済学者センについてやりました。

次回はアーレントについて取り扱います。

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