「日本人としての自覚」
第2節「日本の仏教思想」
⑦無常観と日本文化
1052年に末法に入ったと信じられた。
- 無常観とは
- 無常観、わび、さび、幽玄
無常観とは
仏教と芸術は結びついてきた点もあれば、否定されてきた点もあります。
例えば、極楽浄土のイメージをつくりあげたのは僧源信(942-1017)だといわれています。
>>末法思想と浄土宗
源信は観想念仏(かんそうねんぶつ)をすすめました。
観想念仏は心に極楽浄土のイメージを築き上げることが必要。
それは、地獄や極楽の絵が多く描かれたり、美しく整った庭を作り上げたりと、貴族による浄土教芸術につながりました。
しかし、貴族だけが浄土へ行けることに反対したのが法然。
イメージを抱かなくても浄土に往生できると説きます。
他にも、親鸞(しんらん)は「もののあわれ」を自分の残した書にはあらわさなかった。
道元にいたっては「文筆詩歌」や仏教芸術をしりぞけた。
さらに、日蓮も死の間際に偶像を見せられても関心をみせず、「法華経」の文字や経典には体を向けた、と言います。
無常観を描いた有名作品
では、どのような人物が仏教と芸術を結びつけたのか。
仏教の無常をあらわした文学として有名なのが『方丈記』と『徒然草』です。
まずは『方丈記』における無常観をみていきます。
無常観の定義(「方丈記」解説p17)
- 無常観⇒仏教用語。
非情な宇宙原理を容認。
「観」は心眼をもって対象に向かい合う態度 - 無常感⇒文芸用語。
「あきらめて涙する」感情。
「感」は対象に情緒的に感応する態度
つまり、感情的なのが「無常感」、俯瞰的なのが「無常観」です。
普遍的な法則としてみんなにあると思うのが「無常観」
『方丈記』における無常観
『方丈記』を書いたのは鴨長明(かものちょうめい 1155-1216)です。
鴨長明は名家に生まれました。
7歳のときに授位するなど脚光をあびていたのですが、歴史的にその頃は平家興亡の時代。
その影響をうけて、表舞台からおろされていきます。
30歳になると屋敷を追放。
鴨長明は出家します。
出家するのですが、厳しい修行はせずに仏者と俗人の二面性を併せ持った「隠者」、世捨て人、として生活。
二面性を持つからこそ、鴨長明は無常観を文学としてあらわせたともいえます。
人間の理解をこえた天災や人災が目に見える形で現実になりました。
建物が何度も崩壊したことから、長明の「無常」論には居住環境の破壊というテーマがあると言われます。
方丈記のポイント
内容を取り上げてきましたが、元の作品を音読みしてみると、とても優流な趣を感じられます。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある、人とすみかと、かくのごとし。」
「方丈記」p13
鴨長明は和歌・音楽の道が仏道に通じると考えていました。
「芸術による精神の浄化が悟りに導くのである」
「方丈記」解説p163
鴨長明は47歳のときに藤原定家(日本を代表する詩人の一人)と勝負して四勝無敗!
後鳥羽院は長明の才能を認めて、和歌の選歌委員にもばってきしています。
しかし、長明はそれを辞退して出家。
作歌の代わりに著作に励んで『無名妙』を書きました。
「方丈記」のポイント
- 五大生き地獄をくぐった生の体験が「無常観」の核心をしめている
- 貴族から僧という波乱万丈な人生も無常観に影響を与えている
- 最後は小さな家に住むなど、信念に従って行動している
『徒然草』における無常感
『徒然草』は吉田兼好(1283?-1352?)によって書かれました。
「つれづれ」は暇、退屈、手持ち無沙汰という意味。
序文で登場します。
つれづれなるままに、日暮らしてすずりに向かひて、心にうつりゆく由なしごとを、そこはかとなく書き付くれば、あやしうこそもの狂ほしけれ。
「徒然草p15」
暇なので心によぎることを、なんのあてつけもなく書き付けてみる。
そのような心持ちでこの本は出来上がっています。
しかし、「つれづれ」という意味を転換させるような仕掛けがあります。
暇でたいくつな時間と否定された「つれづれ」もまた、人の世の真理を見つめる時間へと格上げされた。
無常の意味を知るきっかけとして、積極的に活用すべき時間へ、と価値の転換がはかられた。
‐つまり、兼好は『徒然草』を書くことによって、無常を克服しようとしたのである。
「徒然草 解説p276」
ただ、実際は生活破綻の場合もあって、分類が難しかったらしい
「食うのは男の恥」というように、男の意地をみせたみたい
歌人「西行」
平安時代末期の歌人西行(1118-1190)について、『徒然草』で語られている個所がありました。
左大臣の正殿に、トンビをとまらせまいと縄が張ってあった。
西行「トンビがとまっていても、何のさしつかえがあろうか、ないはずだ。
こちらの御主人はその程度の人物だったのか。」
と批判してその家を西行は訪れることがなかった。
あるとき兼好が、とある貴族の家を訪れたところ、同じように縄が張ってあった。
ある人「からすが屋根に群がって、池のカエルを取るので、それを宮様がご覧になり、かわいそうに思って縄をはったのです。」
兼好はそれを聞いて納得した。
あの大臣の場合も何か理由があっただろうに、西行ほどの人物にしては判断を急ぎすぎたのではないか。
「徒然草」p36参照
兼好は西行を慕っていて、西行を批判できるのは自分だけというような自負があったそうです。
西行は『山家集』が有名。
自然観に宗教的なものや美的なものが融合している点に特色があると言われています。
無常観、わび、さび、幽玄
臨済宗をひらいた栄西は宋から抹茶法(お茶)を伝えました。
鎌倉仏教のお茶や坐禅の方法は、武家のふるまいや作法の形成にむすびつきます。
「龍安寺の石庭」
白砂の平地に石をたてた象徴的な庭。
水を用いず、石の組み合わせや高低差によって山水の趣をあらわす庭園様式を枯山水と呼びます。
茶道
お茶の文化は日本独自の発展をみせました。
戦国時代、織田信長は鎌倉政府の御恩と奉公制度の失敗を見て、このお茶がその制度の役割になると考えました。
豊臣秀吉が千利休の庭に朝顔が咲いていて美しいと聞いたので、庭に見にいきました。
聞いたところによると、満開の朝顔がたくさんあったと言うのです。
しかし、行ってみると朝顔の花だけがすべて摘み取られていました。
残念に思った秀吉ですが、そこへ利休が茶室に案内します。
そこには、一輪の朝顔。
これを見た秀吉は同じような朝顔が庭に咲いていたのだと想像できます。
秀吉に空白の庭と一輪の朝顔から想像上の庭を味合わせた、と見ることができるのです。
千利休は権力を持ちすぎたためなのか、最後は豊臣秀吉に切腹を命じられました。
偉大な人物の処刑(ソクラテス、キリストなど)は、その文化を後の世まで広めていく
世阿弥(ぜあみ)
世阿弥(ぜあみ 1363-1443)は能楽の大成者です。
著書『風姿花伝』が有名。
室町時代には日本に「神と鬼」の文化がありました。
神と鬼が人間の世界に入り、人間を脅かして楽しませたと言われています。
雪舟
雪舟(1420-1506)は、禅宗の僧です。
禅宗では墨で絵を描く水墨画が、その精神をあらわす手段の一つとして用いられました。
「冬景山水図(とうけいさんすいず)」雪舟画
雪舟は禅宗の修行のひとつとして、水墨画を学んだと言われています。
最後に日本的な美意識をまとめておきます。
日本的な美意識3選
- わび⇒簡素でおちついた風趣、閑寂な風情
- さび⇒寂しさのなかの枯淡な情趣
- 幽玄⇒幽はかすか・ほのかの意味、玄は深遠の意味。枯淡な美しさや神秘的な優艶さ
今回で日本仏教の回は終わりです。
次回は近世日本の思想を取り扱います。
>>近世日本の思想①林羅山と徳川幕府