NO IMAGE

「はじめてのウィトゲンシュタイン」を読んだ感想

おはようございます。けうです。

 

「はじめてのウィトゲンシュタイン」を読んでいます。

彼の生い立ちや、前期の論理哲学論考の意味することを私が解釈したときに、ちょっと涙がでてきました。

ウィトゲンシュタインの区分け

ウィトゲンシュタインは論考で「語りうること」と「語りえないこと」に分けています。

そしてこれが目的で、その基準をアプリオリ、経験に先立つ認識、生まれながらにもつものによっていることを示します。

 

私たちは私が私だとわかります。

感情だってわかります。

でも、なんで私はこんな好き嫌いがあるのかというのは生まれながらの部分もあるし、私が私だと気がついたときにはそう認識しています。

アプリオリな認識、少し区分けは着きづらいですが、アプリオリな認識はあります。

「語りうること」とは

そして、「語りうること」を彼は「世界に生じうること」と捉えました。

私たちは世界に生じうることを語ることができます。

想像でもよくて、富士山には3億本のペンがささっている、でもいい。

「語りうること」は現実の像かつ、現実の模型でもあります。

 

では、その現実の像かつ現実の模型が「語りうること」と決めたときに、そのことを語るこの言語は語りうるのか?という問いがまず立ちます。

論理は語りえない

私たちはこの言葉の形式を、もっとも単純な記号でさえ、示されていてそう理解しています。

感情が元からあるのと同じく、この論理も元からあるのだとウィトゲンシュタインは言います。

どこまで論理はこうだ!と示していっても、記号で示しても、私たちはそう示されているものをそのように受け取っていることがわかるし、証明されるんです。

論理で論理の証明ができない。

 

私の感情を考えてみます。

私がこれが嫌いだと思った。

もう嫌いだと思ったと言う事実がある。

そこからいろんな論理を言ってその原因を探っていこうとするけれど、それは推測であって、事実としての嫌だと思ったことは依然としてそこにある。

その嫌だと思ったことを説明できない。

説明できた!と思っていても、そこにはその論を信じなければいけないということがある。

私はそう思い込んだから嫌いなんだという納得とか、関連付けを自分でしているということ。

 

このアプリオリに生じるものを語りえないとするとき、「個別の具体例の一切をとるに足らない物として捉える」

嫌いなんだから嫌いとして捉える。

アプリオリなものがあるんだと思う。

語ることが出来ない。

そこに価値を生じさせない。

 

そうしたときに、逆に希望が生じるのだと本では書かれています。

世界に何が起ころうとも、どれほどの苦難を被ろうとも、それとは無関係に満たされる可能性を彼は考えます。

 

ただアプリオリなものがあって、それによって私たちは自分たちで必死に価値を作っている。

でも、その価値が苦しい時がある。

その価値が苦しくなったとき、その苦しいと言うこと自体を疑う、と私は思いました。

 

例えば、私はきのうツイートでこのようなことを呟きました。

「語りえないこと」を語ってみる

「あなたは自分を人と違うと感じる。

それを否定する。

同じだよ、となった場合、あなたの直観を否定することになる。すると、あなたは自分が信じられなくなる。

それを肯定する。

その場合は世間一般の物事が自分には違って感じられるのだから、自分なりの定義をしなければいけなくなる。

どちらも・・・・」

 

というツイートをしました。

 

これって、アプリオリ的(経験にもよっているかもしれなくて、そこは言えないんですけど、思い浮かんできたということでのアプリオリ的に)に私は人と違うと感じてしまった。

これを否定しても肯定しても、そこに価値をつけてもどちらも説明できなくなってしまいました。

そのとき、初めの感覚が間違っていたのではないか、と思うのですが、思ってしまったことがしょうがない、とも言えます。

論考が実生活で役立つとき

例えば、自殺を食い止めるときに言葉で食い止めると言うことがあります。

人はなぜ言葉でくいとめられるのか。

そこに価値があって、それを信じられるから。

人はその価値を信じている。

 

でも、逆にその価値を信じられなかったら、そこに希望はないのか?という究極のとき。

その言葉がけがなくて、人に死んでくれとか、嫌いだとか言われた。

自分の価値観が世間ともずれている。

では、自分でも死のうかと思っている。

でも、本能がそれを否定する。

それはその元の価値をうたがうしかない。

カウンセリングを必要としない。

すべて無意味なんだと思いこむ。

じゃあ、その語っている言葉はなんだろうか。

私はそこに価値や意味をつけているだけではないか。

このように語ることに意味はあるのか。

自分の価値観では死んだ方がいいと思っている。

でも、語りえない本能では死ぬのを拒絶する。

私のこの語っていること、この価値観が肯定も否定もすべきものではないんだと気がつく。

語ることは自己中心性の発露になったり、私がどんどん意味付けをしていくことになる。

 

最後の一文。

「語りえないことについては、沈黙しなければならない。」

 

これは、本では一つの倫理的な態度の表明だと言っていました。

本で語ることによって、彼の価値観を私たちに植え付けるからです。

だから、自分の論考をはしごと表して、読者は私の諸命題を葬り去らなければいけないといいます。

そのとき読者は世界を正しく見ると。

 

人は鬱におちいるときに、言葉がずっとやってきます。

言葉の価値観が自分を襲います。

それに発狂しそうになる。

でも、その元を疑う。

私の感覚はあるけれど、言葉は私が作っているにすぎない、と。

そこに価値観を生じさせない。

今のところ私はそう解釈して、そう解釈したからこそ、涙がでてしまったのかなと思いました。

今回は内容に踏み込まず、ただこの論考を書いた動機について推測してみました。

今日もお聞きいただいてありがとうございました。

NO IMAGE
最新情報をチェックしよう!
>けうブログ

けうブログ

哲学を身近に