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おはようございます。けうです。

「自己認識には間違いが生じる余地はない」は間違い

「つながりすぎた世界の先に」マルクス・ガブリエルの話を読みました。

そこに、ハイデガーの論理があり「自己認識には間違いが生じる余地はない」と彼は考えました。

人間の自己認識は正しくもなければ間違ってもいない。

そもそもアイデンティティなど存在しないとハイデガーは考えました。

この論理で考えると、ハイデガーの世界では過ちが生じる余地はありません。

これをマルクス・ガブリエルは間違っていると述べました。

 

では、過ちが生じる余地がない世界とはどのような世界なのかを考えてみます。

私は対話のない世界かな、と考えました。

対話とは

まず対話のある世界を見てみます。

マルクス・ガブリエル式の対話の仕方です。

文章を引用します。

「さて、君は何と言った?なぜそう思ったんだい?その意見を裏付けるものは?君が間違いを犯したと僕が思うのは、こういう理由からだよ。裏付けはこうだ」

それから賛否をリスト化して、最後にそれを二人で眺め、合理的な根拠を検討する。

そのようにして導き出される結論は、お互いの妥協点のどこかに落ち着くでしょう。

 

このような対話が哲学的な対話です。

人格攻撃論法とは

では、対話の無い世界を見てみます。

「あなたみたいな人たちは、いつも同じことを言う」

これは人種の差別化。

さらに、「お前が言うことは間違いだ。なぜならお前が言うからだ」

という考え方です。

マルクス・ガブリエルの根本には、私たちは人間という共通点がある。

なので、その共通点を否定せずに討論をする。

人格攻撃論法は許されるべきでないと言います。

 

では、と疑問になったのは、過ちが生じる余地がない世界との繋がりです。

その場合、この人格攻撃、人種差別につながるような論法が間違いではないとされてしまうんです。

現にハイデガーに人種差別的な一面があったことは歴史的に知られています。

では、その否定しないことが悪い事というのは、あきらかにそれはおかしいだろうと人間として思うことを否定しないことです。

ではもっと具体的に考えてみます。

アイデンティティの否定として考えたいのは、カフカの「変身」から芋虫になった主人公を例にとるとわかりやすいかもしれません。

討論をする前に、相手のことを芋虫だと思う。

そして、芋虫と思うからこそ、相手の言うことはすべて違っていると考える。

まずは虫の言うことと言う決まりがあるとすれば、相手のことを否定も肯定もしないかもしれません。

次の段階に行きます。

相手のことをチンパンジーだと思います。

この場合もまた種族を超えていますよね。

話しているときに共通の部分がまったくないと考える。

その場合に、相手の論理は間違っているとも合っているとも思わない。

ただ相手の世界があるのだろうと考える。

これが相手への否定になっています。

おそらくこれが人格攻撃になる。

自分とその他人をまったく別のものとして考えるから。

そうした場合に差別主義にもなりますよね。

逆に相手を神様だといってあがめる場合も、批判と肯定がうまれません。

批判も肯定もしないというのはこういうこと。

人格批判というのは、批判という言葉が否定しているように見えて、批判と肯定の判断を元が超越してしまっています。

芋虫、神、チンパンジー。

そのように考えた時が人種差別につながります。

でも、人ってどうしても受け入れられない相手がいますよね。

何を言っても話し合いが平行線に感じる時。

自分の価値観というのは生まれながらに育んできて、なかなか変えられないものがあります。

その場合、相手の意見を一つの見方として受け容れる。

そのような生育環境、遺伝子、そのようなものを持つとこう考えて、私とは平行線上の意見になるのだ、と。

多様性を受け入れるとは、意外と大変です。

自分を疑う

大嫌いな相手でも、その嫌悪感をもっているという時点で、もしかしたら私は差別的になっているのかもしれない。

そして、議論をしたとして、私はその人への悪意からそういってしまうことがあるかもしれない。

その場合も自分の中で検討しなくてはいけませんよね。

これは分析的に出た意見なのか、それとも相手を陥れようとしてだしている意見なのか。

私は、議論をする前提として同じ土俵が好ましいなと思います。

まずは人格攻撃をしない。

自分がイラついたからといって、そのいらいらを解消するために話すのはやめる必要があります。

 

私は対話が少ない理由がこんなところからも生じるのではないかと考えます。

この人と話していても仕方がない。

このように思えば、話をしなくなります。

孤独と1人で居ることの違い

本では、2年間だれとも会話をしないことを試みた精神科医がいました。

砂漠に居て誰とも話さなかったらしいのです。

でも、その医師は有能な精神科医になっているとマルクス・ガブリエルは語りました。

孤独と1人で居ることをわけたと。

人とのコミュニケーションもここにヒントがあるのではないかと思いました。

 

人は人といながらも孤独を感じる。

その孤独を感じたときに、自分を異質な存在としてみているのではないか、と。

その場合、自分で自分の人格否定だとか存在否定をしているのかもしれません。

一人でいるとき、それは他の人を想定して、そこには繋がりを感じるかもしれません。

そうした場合、自分を否定する要素はありませんよね。

 

議論について、そこから人格否定とはについて考えました。

お聞きくださいまして、ありがとうございました。

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