ソクラテスといえば、以前ブログで「無知の知」について扱いました。
問答法によって「無知の知」の自覚を促したソクラテスは、実は対話を信じていなかったと言われています。
実際には、ソクラテス的な対話など存在しない。
ソクラテスは対話を消滅させるために対話を借用する。
対話それ自体が消え去ることを望んでいるのだ。
ソクラテスは対話が自分にとってどうでもいいものであることを分かっている。
ソクラテスは対話を信じていない。
「基礎づけるとは何か」ジル・ドゥルーズp54p55國分功一朗/長門祐介/西川耕平 翻訳
では、彼の対話にはどのような目的があったのでしょうか。
対話から生み出されるものに焦点を当てていきます。
ソクラテスが対話から引き出す「知」とは
ソクラテスの問答法は別名で産婆術ともいいます。(哲学用語図鑑 参照)
なぜ産婆術というかと言えば、相手の「知」を生む手伝いをするからです。
例えば、ある人が美しいモノが好きだ、と言ったとしましょう。
すると、美しさとは何か、という問いをソクラテスは相手に投げかけます。
美しさは人によって、地域や時間やそのときどきによって変わっていくものだと相手は気がつきます。
そして、美しさという言葉を使っていたのだけれど、実はその美しさそのものを説明できないことに相手は気がつかされます。
問答法という対話の中で、美しさについて知らないという「無知の知」をまずは生み出します。
さらに、対話を続けていくことで、ほんとうの美しさとは何かを相手に考えさせます。
ここで、対話が消滅したときに二人が思い浮かべる何か。
それをソクラテスは「知」だといいます。
ソクラテスの「知」の意味
ソクラテスの「知」は語られる言葉ではありません。
対話によって言葉は消滅してしまうからです。
では何かというと、自分の魂を磨くものだと言うのです。
正しく知れば知るほど、自分の魂が優れたものになるとソクラテスは考えました。
「知」を最も優れたものとする考え方を主知主義と言います。
ソクラテスは主知主義です。
ソクラテスは自分の人生の意味をこのように捉えています。
もっと滑稽な表現をすれば、私は文字どおりこの国ー(それはまるで、大きくて血統も良いけれども、大きいために鈍感で、アブか何かによって目を覚まさせられる必要のある馬のようなのですが)ーに神によってくっつけられたものなのです。
まさにそのようなものとして、神は私をこの国に付着させたように私には思えるのです。
「ソクラテスの弁明・クリトン」(プラトン)(三嶋輝夫・田中享英 訳)p53
国を大きな馬に例えて、それを目覚めさせるアブをソクラテスは自分のこととして例えました。
アブは馬を刺すことで刺激を加えます。
それは、一対一の関係であり、馬なら刺す行為だったのが、人なら言葉だったのです。
- 馬への刺激⇨アブによってさされる刺激
- 人への刺激⇨言葉によって対話から得る刺激
ソクラテスは問答法により人に刺激を与えて、「知」を目覚めさせます。
彼が問答法によって、みんなに正しい「知」を知らしめようとするのは神からの使命だと捉えているのです。
自分の使命は「知」を知らしめること。
つまり、「汝自身を知れ」と民衆に述べる彼の有名な言葉です。
言葉は手段であり、到達させる「知」は魂を磨くという行為になります。
…あれ、これって「良い」こと!?
ソクラテスの説く「知徳合一」
ソクラテスは「知」と「徳」は同じものだと語ります。
「徳」とは善と悪とを理性的に判断する知識のことです。
このことを表したのが「知徳合一」です。
人は道徳的な生き物だから、その「知」に基づけば正しい生き方ができるとソクラテスは説きます。
ただ良い事を言っているからといって、それは「知」ではありません。
良い事を言う人が優れているとは限らない、と彼が述べている個所を抜粋します。
そういう次第で、私は短時間のうちに、作家たちについてもまたつぎのこと、つまりかれらがその作品を創作するのは知識によるのではなく、ある種の生まれ持った資質によるのであり、ちょうど神託を告げる者や預言者がそうであるように、神がかりの状態で創作することを悟ったのです。
実際、かれらもまた多くの立派なことを口にしはするのですが、しかし、その口にすることの何一つとして知ってはいないのです。
「ソクラテスの弁明・クリトン」p25
ここでは立派なことを言う作家を例に挙げ、口にはしても、何一つとして知っているわけではないと述べています。
「知」を正しい生き方にまでつなげて捉えているのです。
「知」が言葉だけでは表せないことを、現代の心理学からも見ていきます。
自己中心性からみる「知」
心理学者ジャン・ピアジェ(1896~1980)は自己中心性という概念を唱えました。(心理学用語大全)
これは2歳から7歳ごろの子どもは、自分と他人をはっきり区別できないため、自分が見えているものを他人も見えていると思い込むことです。
7歳を過ぎていくと自己中心性から離れて、客観的に答えられるようになるといいます。
私がここで何を言いたいのかと言えば、大人になるにつれて言葉そのものよりも、その奥にあるものを見るようになる、ということです。
例えば、子どもを見ているとき、子どもは相手の言葉に過剰に反応する傾向があります。
「バカ」と言われたらそれだけで逆上してしまったり、その言葉にある背景を推測するのが苦手です。
この傾向が、7歳頃まであるというのが自己中心性の概念です。
自己中心性から離れた人は「バカ」と言った表情に着目するかもしれません。
成長するにつれて、言葉の背景を学びだします。
そうしたとき、私たちは言葉以外の何かをみているのです。
視点の多い人の対話は、会話以外の物を多分に読み取っています。
目の動きだったり、表情だったり、仕草からも推測するようになります。
文にある顔文字をみたり、その人の過去を調べたり、そのときの感情など見えないものを見ようとしています。
そうしたとき、言葉では述べられないものがあるのです。
今までの言葉で言えば、言葉にならない感情や直観などで「知」を捉えようとしているのです。
「知」を捉えていく最中にも、言葉によらない視点を持っています。
このことは、私たちも対話を信じているわけではないことを物語ります。
ソクラテスの想起から哲学を生み出す
対話によって想起されたものはイデアといわれています。
ソクラテスはロゴスが現実そのものの表現であることを求める。
もはや魂と魂の間にではなく、魂とイデアとの間に関係が見出される。
ソクラテスが想起と呼ぶものがそれである。
これは、イデアがすでにそこにあったものとして姿を現すと言うことだ。
「基礎づけるとは何か」p55
つまり、この文章からは「知」はイデアの想起として扱うことができます。
ソクラテスは生涯を通じて徳、美、真を追い続けました。
追い続けるということは、消滅した対話を何度もよみがえらせることです。
哲学の元祖ソクラテスにとって哲学は真の「知」を生み出す過程。
対話により対話を消滅させてイデアを想起する。
ただ想起しているイデアをもっと近くで見ようとして、また対話をする。
そこから、また対話の消滅になり、という繰り返しが起きているのではないかと考えられます。
ソクラテスも生涯を通して信用していない対話をしてきた背景には、「知」への愛があったのではないかと推測します。
哲学の語源、フィロソフィーは知恵を愛するという意味です。
生涯を通しても到達できなかった真の「知」を求めていたと捉えられます。
ソクラテスの対話の目的ーまとめ
ソクラテスは対話を信じていませんでした。
「ソクラテスは対話を消滅させるために対話を借用」してきたのです。
その背景には、問答法によって「知」を生み出すことが目的にありました。
知を最も優れたものとするこうした考え方を主知主義といいます。
知を徳に高めるために、対話を消滅させてイデアの想起にまでもっていくことを彼は試みていたのです。
ただ言葉にして知を語ることは「知」を知ることになりません。