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失語症とは-ウェルニッケ失語「聞いた言葉が理解できなくなる理由」

おはようございます。けうです。

 

今日も「言葉と脳と心」を取り扱っていきます。

3章「聞いた言葉が理解できなくなる理由」です。

ウェルニッケ失語症とは

ここでは主に、ウェルニッケ失語症をとりあげます。

このウィルニッケ失語の特徴をあげます。

 

①この失語症では、理解障害が重くても日本語と外国語の聞き分けができる。

 

②話しかけるセンテンスの持つ大きな意味の枠組みは理解できる。

・あいさつをしているとか、「はい、いいえ」と答えるセンテンスがわかる。

「動作命令」「質問」「語りかけ」の3つのカテゴリーは理解している。

 

③動作命令の内容によって理解の差がみられる。

質問が理解できたり、できなかったりするが、からだの軸を中心とするような言葉は理解されやすい。

例えば目をつぶってとか、立って、座って、という指示は通りやすい。

 

④理解能力に差がある。

理解できていない言葉も、会話を続けていくとわかったり、状況によってわかる。

 

つまり、ウィルニッケ失語症とは、言語理解能力が崩壊し、同時に発話能力も崩壊すること。

発話崩壊の特徴は意味のとれない空虚な言葉が流ちょうに生産されることにあります。

 

 

このようなことが特徴で、患者さんは流ちょうに話しているのですが、ところどころ意味が理解できない単語がでてくることが特徴です。

言葉の「聴覚心像」と「視覚心像、触覚心像」との結びつき

言葉は呼称能力と語義理解能力からなっていると一章で紹介しました。

筆者はここでは「聴覚心像」と「視覚心像」「触覚心像」という言葉で説明します。

「聴覚心像」は一回目で紹介した呼称能力のようにものの名前です。

カネとかカタカナでいうような呼称。

「視覚」と「触覚」は見たイメージや触ったイメージです。

この聞いた言葉、カネ、チョウというような発音から想像するイメージが崩れてしまうのはその結びつけが上手くできていない状態なのではないかと説明していました。

 

ウェルニッケ患者がときおり話す意味のとおらない言葉はこの結びつけが繋がっていないので、意味不明として現れてくるのだ、と。

 

全体の会話の枠組みはしっかりしているのに、その人の会話を聞くとところどころ意味不明な語彙がある状態です。

これは障害じゃなくてもよく起こることで、ある人の会話を聞いているとします。

そのときに、その本人が矛盾していることをいっていたりするのに気がつかない状態、ともとれます。

ウェルニッケ症だとわかりやすくわからない単語がでてくるのですが、私たちは会話で相手が理解しているのかわからなくなるときがありますよね。

この文脈でその用語は使われないはずだし、その意味ではないはずだ、と。

でも、会話は成り立っています。

例えば、朝のあいさつでこんばんは!というようなもの。

センテンス的にはおかしいなと思うのですが、その本人は流ちょうに話しています。

流ちょうに話しているので、「自分が相手の言葉を理解できていない」という自覚が欠けています。

こんばんはを普通なものだとして使うからです。

障害でなくても、自分が言葉を理解できていないことには、他人からの指摘でないと理解ができなかったりします。

ただここに「わかる」ことの差が存在します。

 

相手は「わたしのいったことを理解していない」ということになりますが、本人は「わかっている」ということになります。まわりが考える「わかり」と、本人が経験している「わかり」に大きな開きが生じるのです。

 

この度合いが大きくなると障害なのですが、難しい用語の理解の場合は特に障害にはなりません。

ウェルニッケ失語症をトロッコでイメージする

筆者はこのウィルニッケ障害を脳のウィルニッケ領域が破壊されるので、その破壊を受けてブローカ領域が勝手に自走している状態なのではないかと話していました。

例えば、言葉の枠組みはそのとおりなので、挨拶をしようとします。

でも、その挨拶のことばが壊れている状況です。

トロッコをイメージします。

ブローカ領域の言語プロソディ能力(発音にかかわるところ)とセンテンス形式を作りだす形式はウィルニッケ患者において正常なので会話をするのですが、そのトロッコに積まれている荷物が壊れていたり、荷物が積めない状態になっています。

流ちょうに話していますが、空の荷物を運んでいる状態。

 

もう一度整頓します。

・ウィルニッケ失語症では、言語理解能力が崩壊し、同時に発話能力も崩壊します。

(これは積み荷が破損している状態。)

発話崩壊の特徴は意味のとれない空虚な言葉が流ちょうに生産されることにあります。

(ブローカ領域の言語プロソディの暴走、会話はできる)

 

私の場合で当てはめます。

私は一つ一つの自分の使っている単語があっているのだろうか、とそもそもが不安になります。

なので、流ちょうに言葉が語れない。

ということはブローカ領域が暴走するということがない、ということ。

つまずきながらになってしまうのは、その意味をその度ごとに確認しているから、ということになります。

ということは、逆に流ちょうに話す人はブローカ領域だけが発達していてその意味内容が不明だったり、簡単な意味内容を載せて流ちょうにはなしている場合もあるということです。

 

片方の発達のアンバランスがあれば、しどろもどろだけれど意味内容はしっかりしている。
(ただ流ちょうに話そうとすると、意味内容が破壊されてあらわれることもあります)

一方では、流ちょうだけれど、意味内容はちぐはぐしている。

ウィルニッケ、ブローカにアンバランスがあれば、そのどちらかの症状があらわれてくると言うことです。

私はしどろもどろが多いかな、なんて考えました。

おそらくセンテンスとか言語プロソディは社会性を帯びているんですよね。

相手への会話を重視している。

 

かえって、ウィルニッケ領域だけが発達していればトロッコにのせる荷物が多いけれど、それをスムーズに運転することができなくなっているということ。
(ラジオで呼び名を間違えてます。これはウィルニッケ領域の呼称とイメージの結び付けの破壊でもあります。)

相手へ荷物を運び届けられない。

「聴覚心像」と「視覚、触覚心像」は脳の部位が違う

本からおもしろいなと思ったことは、筆者は「聴覚心像」を荷物と捉えていたこと。

だからトロッコの積み荷(荷物が重なったもの)のイメージです。

 

抜粋します。

聴覚心像が消失する理由について、ウェルニッケは、損傷を受けた大脳領域が、聴覚神経路の大脳への当社部分の一部に属するためと考えました。

一方で、物の概念を表す「視覚心像」や「触覚心像」はこの部分に存在しないので、壊れない、というわけです。

 

つまり、呼称とそのイメージは脳の部位が違うんです。

だから、結びつきの問題がでてくる。

 

例えで言うならば、「聴覚心像」に視覚と触覚からのイメージが加わるんですが、その器が壊れている状態だ、と。

朝に流ちょうに「天気のいい日ですよね、こんばんは!」というような呼称とイメージとの破壊が本人に気がつかずに起きていると言うことです。

この器という発想を感情に照らし合わせれば、私という概念形成が上手くいかない場合に、感情が上手くまとまらない、ということもあるのかなと考えました。

 

ウェルニッケ失語症について3章からまとめてみました。

お聞きいただいてありがとうございました。

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