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失語症-空回りする言葉「脳の右半球と左半球のふしぎ」を紹介

おはようございます。けうです。

 

今日は5回目「言葉と脳と心」について、脳の右半球と左半球のふしぎをとりあげます。

副題は空回りする言葉です。

右半球と左半球の分離

脳科学などでは、左右の半球の接続がたたれると、右半球で認識したものが意識できなくても左半球ではいい訳のようなことをする、という「作話」作用があるということを話していました。(別の本「わたしはどこにあるのか」でインタープリンターと述べた物語作成装置です)

 

右半球が認知したもの、例えば「笑う」と書いた紙を右脳でみた脳分離患者は笑うのですが、その笑ったことを理由がわからない。

なので、左半球で笑った理由をでっちあげるという物語作成です。

研究装置がおもしろかったから笑ったのだ、とか作話するそうなのです。

 

この分離に関して、患者は自分の言語の整合性に気がつかずに話しているので、この左右分離の作用をつきとめることができたようです。

ハイパーラリア‐右半球損傷の例

筆者はこの症状に対して、ではそもそもの右半球損傷ではどのようなことが起こるのか、というのを考察しています。

右半球欠損患者にどのようなことが起きるのかアンケートを取ると、意欲欠損、饒舌・多弁、愁訴が多い、50例のうち6例では独語がみられたそうです。

そして、医師はこのおしゃべり傾向を「意欲欠損・饒舌症候群」とまとめたようです。

 

この本の筆者は患者がよくしゃべるということを取り出してその意味を「ハイパーラリア」と呼びました。

どのようなものかという例をあげます。

・意識はしっかりしていても、無感動・無表情にみえます。

・自発的にはしゃべらないけれど、語りかけたり相槌をうつとえんえんと話し続けます。

・話の内容にまとまりがありません。

・声は低く、単調で独り言のような感じですが、会話形式は崩れません。

・夜にひとりしゃべりをすることがあって、夜間多弁がある。

・この症状が続く場合もあれば、なくなる場合もある。

 

筆者はハイパーラリアを軽い意識障害、軽い思考混乱状態と表現して、言語機能が自走している状態ではないかと考えます。

さらに、右半球損傷者は自己の病気の状態や周囲の状況を正しく把握することができなくなっており、その結果、自分の障害に関する対象物をひとつの言語的カテゴリーにまとめることができなくなるから、という見解をしめします。(非失語性呼称障害)

 

今までの言葉の仕組みを考えていくと、一番初めに私たちが抱くイメージに支障が生じたときに、わけがわからないような物言いをすることになる、と考えられます。

 

この現象を受けて、筆者は認知(入力情報の高次処理という広い意味)と言語と意識という3種の心理過程は、それぞれ分離しうるものだとあらわします。

認知と言葉と意識は分離しうる

例えば右脳で認知したものが言語や意識にのぼらないことがある。
(「笑い」という文字だったりを見て笑っているけど、意識には上っていない)

文字で言葉をかけても、音声にだしていえないことがある。
(意識しないものを言語的に表現できなくても、文字で表現できる例がある

意識は今までとりあげてきた失語症に関することです。

これら3つは三位一体ではなく、それぞれ分離しうるものだと言うのです。

 

今までの右半球損傷性言語行動の特徴から言われてきたことはこのようなことです。

・左は対象を正確に表現し、右は自己をあいまいに表現する。

・右半球欠損は言語的コミュニケーション能力にかなりの障害を生じる

・「生物学的に言うならば、右半球欠損に見られる数々のふしぎな言語行動は、右半球損傷が引き起こす意識の枠組みの欠損を、自動化して勝手に活動し始めた左半球性言語過程が、その欠損を意識できないまま、手持ちの言葉でいい加減に穴埋めしている状態なのです。そのために事実と作話が入り混じったわけのわからない言葉が生み出されてしまう」

これは筆者がまとめている個所の引用になります。

 

以上が右半球と左半球のふしぎ、空回りする言葉のまとめになります。

空回りする言葉の感想

これを書きつつ、右脳損傷の症状がすこし自閉症と重なるなとも思いました。

そして、筆者はたびたび自走する、とか自動化すると述べます。

イメージ的に、脳の一部が欠損すると、脳は他で補おうとするといいますが、まさにそのことが勝手に引き起こされているのかな、と考えました。

右半球が作用しないから、イメージがわからないから言葉が増して、その分物語を作ろうとするというのは意外でした。

事実をただしく認知(入力情報の高次処理)できないのに、多弁になるとか、独語をいうとか、脳はその機能によって認知を補おうとしているのかな、とも考えられます。

ただし、正しい入力が入ってこないとなれば作り話になってしまうのですが、一度一つの正しい入力が訪れれば、物語作成がそれと結びついて正しい推理や物語ができるかもしれない、というのはありますよね。

 

私たちは正しいと言われている知識がないと、正確なことにはいきつけない。

でも、その知識を得れば意識が回りだす、というイメージをしました。

 

認知と言語と意識が別なのではないか。

このことは哲学にも影響を及ぼすだろうな、と思います。

私はこの別という言葉を聞いて、ヒュームの人間とは知覚の束だ、というのを思い浮かべました。

哲学者って意外と脳科学で分かってきたことに関して当てはめて理解できることがあったりします。

カントのコペルニクス的転回という人の認知の仕方も、脳科学でわかってくる100年前にカントは考えていたようです。

こうやって結びつけられるのも、興味深いなと思いました。

 

そして、このような医学の実験結果を私は体験することはできず、聞くだけなので、知識として取り入れていくと、客観的なヒト理解が進むのかなと思いました。

 

では、お聞きいただいてありがとうございました。

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