外で周りを見渡してみて下さい。
自然物と人工物の違いがわかりますか?
現代ではそれらが一体化していて、私たちは違いを明確に言えないかもしれません。
道は塗装され、外套や電柱がいたるところにあり、木々があるところは限られています。
人の手が加えられていることが人工物だとしたら、今は人工物に囲まれています。
その中で、これは自然物、これは人工物だという明確な違いとは何か?
ショーペンハウアーはプラトンを引用してこう述べます。
「プラトンは、自然にある事物の数だけイデアは存在すると教えている。」
ープラトンの直弟子たちでさえすでに、人工物のイデアの存在を否定していたのである。
「ショーペンハウアー 意志と表象としての世界Ⅱ」p100,101 西尾幹二訳
プラトンは人工物のイデアの存在を否定していました。
- 自然物⇒イデアが存在する
- 人工物⇒イデアが存在しない
なぜプラトンはこのような区分けができたのでしょうか。
自然物と人工物をわけるために、プラトンのイデアを引用します。
まずはプラトンのイデアとは何かを見ていきます。
プラトンの自然物としてのイデア
プラトンの根本的思想を読み解くために、プラトンのイデアから見ていきましょう。
私たちは完全な三角形というものをつくり出すことはできません。
鉛筆の線や紙の凸凹があり、現すことが不可能です。
けれど、私達がそれを三角だとわかるのは、三角のイデアを知っているからだとプラトンは言います。
- 犬を見て犬とわかるのかは犬の理想型を私が知っているから。
- 木を見て木とわかるのかは木の理想型を私が知っているから。
ここにはイデアがあるように感じられます。
しかし、先ほどの条件「人工物にはイデアは存在しない」を当てはめてみます。
- 三角は紙に書くという点で人の手が加わっている。
- 犬は人為的に品種改良されていた品種かもしれない。
- 私達が見ている木々も、その場所に見た目の為に植えられたのかもしれない。
逆に手を加えないことで意図的に残すという点で人為的だと言うこともできます。
では、プラトンにとってどのようなものが自然物なのか。
ショーペンハウアーが考えるプラトンの自然物を抜粋します。
すなわちアルキノスは次のように言っている。
- 「彼ら(プラトン学派の人々)は、イデアとは自然にある事物の、時間を超えた原像であると定義している。
なぜならプラトンの信奉者の大多数の認めるところでは、人工物な生産物、例えば楯とか七弦琴とかのイデアは存在しないし、また自然に反するもの、熱病とかコレラのようなもののイデアはないし、個別的なもの、ソクラテスとかプラトンといったようなもののイデアも存在しないし、さらに取るに足りないもの、例えば汚物や破片のようなもののイデアも存在しないし、関係的なことがら、例えばより大であるとか卓越しているということのイデアも存在しないのである。
なぜならイデアは、神の考えたことで、永遠かつそれ自体として完成したものだからである。」
「ショーペンハウアー 意志と表象としての世界Ⅱ」p101
個別的なものにイデアをみないので、品種改良されたその犬、目的化されて植えられた木々にはイデアを見ていないということになります。
ではどのように、私たちは人工物的な犬を犬、木を木だとわかるようにしたらいいのでしょうか。
このときにアリストテレスの「形相」と「質料」という概念が当てはめます。
(アリストテレスはプラトンの弟子。この考え方はプラトンのイデアを進めた考え方とも考えられている。)
「形相」と「質料」を大まかに言うと、日常の世界の現実に存在する個々のもののなかに、「イデア」が存在すると考えることです。
私達がなぜ犬は犬だとわかるか、というのはプラトンのイデア論にアリストテレスのイデア論がくっついた形で伝わっているのかもしれません。
ここで犬が犬だとわかるのは、一つ一つの形(形相)にある本質(質料)を当てはめて犬だと判断するからです。
- プラトンのイデア⇒イデア界がある
- アリストテレスのイデア⇒形相と質料を使うことで、個別のものにイデアをみられるようにした
話をプラトンのイデアに戻します。
(アリストテレスの見方だと、自然物と人工物の区分けをしません。)
プラトンのイデアをまとめると「イデアとは自然にある事物の時間を超えた原像であり、神の考えたことで、永遠かつそれ自体として完成したもの。」のことです。
この定義に当てはめるために、人間の感情から自然物を見ていくことができるのではないかと私は考えました。
ショーペンハウアーがそのようにプラトンのイデアを発展させたと考えられるからです。
(ちなみにショーペンハウアーはプラトンのイデアを現象として捉え、カントの「物自体」の概念とイデアは似ていると述べます。)
感情から自然物を規定していくことを試みていきます。
なぜなら、細かく考えていくと、すべての自然物は人工物に、すべての人工物は自然物になってしまうからです。
- 雄大な山も、人の手が加えられている個所がある。
- 夜から朝への切り替えも、人工的な照明で作り出せる可能性がある。
- ヴァーチャルリアリティ用ゴーグルなどで、現実とは見分けがつかない映像をみることができる。
人が目にするものだけでは、自然物と人工物の見分けがつきません。
なので、感情の部分から現象によって、自然物と人工物を分けていこうという試みです。
イデアは知ではないものと言われています。
「自然にある事物の、時間を超えた原像」を知識で定義することができないからです。
では、議論を進めるために感情とは何か(知ではないもの)を見ていきましょう。
感情と知の違い
まずは感情と知の違いをショーペンハウアーから規定します。
知とほんとうに対立しているものは、情(もしくは感情)である。
ー情ということばが示す概念は、どこまでもネガティブな内容のみをおびている。
意識の中にありありと浮かんでいるものが概念ではないこと、理性の抽象的認識ではないこと、といったネガティブな内容のみをおびている。
「ショーペンハウアー 意志と表象としての世界Ⅱ」p116
ここでは、知でないものが感情だと述べています。
感情が悪いといっているわけではないことに注意
私たちが意識しない状態のことです。
例えば、
- フロイトは人間の行動は無意識に支配されていると述べる。
- ショーペンハウアーは盲目的な意志によって人は支配されていると述べる。
- ドストエフスキーは小説で「理性が知っているものは、知識として知りえたことだけだ」とのべ、「けっして理知的能力だけを、つまり、僕の生きる能力の二十分の一にしかあたらぬものだけを満足させるために生きようなどとは思ってもいない。」(地下室の手記)と述べています。
ここで述べられている感情の部分にイデアは存在すると考えるのです。
では、感情の部分は規定できるのでしょうか。
感情を考えていくと言うこと
例えば、詩人ゲーテは言います。
「考える人間の最も美しい幸福は、究め得るものを究めてしまい、究め得ないものを静かに崇めることである。」
(ゲーテ格言集 高橋健二 編訳)
つまり、明確に知と感情を分ける考え方です。
もしこのように知と感情を分けたままでいれば、最も美しい幸福が訪れるかもしれません。
しかし、哲学者は究め得ないものを究め得るものに変えていきます。
プラトンのようにイデアを考えたり、更にはイデアに似たものを後世の哲学者は考えています。
哲学者は美しい幸福を超えて、知を広げようと求めているのではないかと私は思うのです。
- 詩人⇒知と感情を分けて、極めえないものを静かに崇める
- 哲学的詩人⇒知で感情を限りなく表そうと努力する
知を広げるとは、感情の部分を狭めていくことになります。
感情を規定することで、知にしていきます。
感情であるので不確かなところがあるのは確かです。
- 悲しいのに嬉しい
- 憎んでいるのに愛している
- 楽しいのにつらい
このような表現も可能になってくるからです。
矛盾点が明確になると、その規定した知は感情の部分に戻っていくのかもしれません。
例えば、目に見えないものをあると考えた後に、またないものとして扱うように。
しかし、この表現が生まれることによって説明できる現象は増えていきます。
人工物と自然物から感情をみることで知を広げてみましょう。
人に伝えられるものにしたい!
こんな思いがショーペンハウアー哲学から読み取れる
自然物から感じるものの具体例
ここでは、私が自然を感じた体験を具体例にとってみます。
自然が美しい理由
私たちは自然に従う
夜から朝になる切り替えを、肌身で感じる
これは変えられない
頭では因果関係の否定を考える
人工物ならば、そのあり方を変えられると思う
自然は変えることができない
辺りが明るくなる
従うことに美しさを感じる
なぜ美しいと思ったのかを突き詰めていくと、私は自分のちっぽけさを感じたからです。
(パスカルの「人間は一本の葦」を想いました)
宇宙と対峙しての人間、世界と対峙しての人間、死にゆく存在としての人間。
こういうものに従わされている。
どうしようもできないものに従わされているという感情を、夜と朝の切り替えの時に感じました。
完成されたものとして自然法則として知られている、夜から朝への切り替えに。
イデアの定義を再度確認します。
イデアとは自然にある事物の時間を超えた原像であり、永遠かつそれ自体として完成したもの。
一番わかりやすく定義されているのは、人間が生から死に向かう存在だということです。
人間が思考できたとしても、どうしようもできない圧倒的な自然がある。
自然に手の平でおどらされている。
それを人間はわかりつつ、そのおどらされているもの自体に圧倒的な敗北や圧倒的な崇高観をいだきます。
私はこのように体験できるものを自然物だと感じました。
言葉で表されないのならば、感じるしかないからです。
自然は私の現象によって明らかになります。
私はここでは「美しさ」と表現していますが、自然に対しての「崇高な感情」とも言い換えることができます。
美しく思いつつ、崇高さも感じていると言うことです。
では、これを説明しているショーペンハウアーの区分けを見ていきます。
美しい感情と崇高な感情
自然物と人工物を見たときの感情を知によって区分けしてみましょう。
(思考実験的に)
- 「崇高な感情」⇒自然物
- 「美しい感情」⇒人工物
この感情以外のものを感じるとは思いますが、上記のようなに感情で区分けをしてみます。
ショーペンハウアーは崇高な感情を抱かせるものがイデアを感じさせるものだとしています。
ショーペンハウアー「意志と表象としての世界」から「美しい感情」と「崇高な感情」をまとめました。
「美しい感情」とは
まずは「美しい感情」を見ていきます。
自然が私に歩み寄るように、個別化されたイデアが私に話しかける。
花が咲き誇っている。
ダイナミックな絵画。
話しかけられることで、それを美だと私は思う。
私に働きかけてくる客観は美しいもののみであって、ただ美しいと思う感情。
過去の幻想を呼んでくれる単に客観的な美しいもの。
感情を現象として捉えているので、感情はどこまでも私の主観にはなります。
どんなに客観性を帯びていても、私が見ているからです。
私が「美しい」というとき、私はそれを私の主観だと感じます。
では、この客観的なものをどのように捉えたらいいのか。
現象学では主観・客観の区分けはないので、社会学の「主我」と「客我」を応用します。(社会学用語図鑑 参照)
ミード(1863~1931)は「アイ(主我)とミー(客我)」を唱えました。
社会的な自我がミーで、主体的な自我がアイだと説いたのです。
主観の中に主我と客観をになう客我が存在します。
- 社会的な自我⇒客我
- 主体的な自我⇒主我
客我は一般化された他者から取得する役割を果たそうとする社会的・客観的な自我です。
これは自分の中にすでに一般性があることを示しています。
この客我を客観として、私に話しかけてくるものだとします。
私に一般性があり、それが主我に語りかけてくると想像します。
「美しい」にはどうしても主観が入ります。
人によってそれを美しいと感じたり、そうではないと感じるからです。
その判断を主我がにないます。
感情は認識に至る前なので、客我と主我のやり取りが認識される前にされています。
私達は誰でも美しいと思うことができます。
それは客我が主我を通して私に語りかけることによって、「美しい」とわかるのです。
では次に「崇高な感情」を見ていきます。
「崇高な感情」とは
「崇高な感情」
人間の意志に対して、圧倒的な力によって意志をおびやかす。
その大きさは、人間の意志を無にするほど小さくする。
私はからっぽになる。
でも、それを受け入れている。
意志を欠いた観察者になる。
自分がなくなる。
自分を越えている感覚を味わう。
私は高揚された状態になる。
こちらも主我と客我で説明します。
私が「崇高な感情」になるとき、私の主我は消えています。
段階はあるかもしれませんが、イデアに近づけば近づくほど主我がなくなる。
「崇高な感情」には主観があるのですが、その中身に対しては主我がない、という説明です。
私は以前、天才性を説明しました。
天才性とは私の中の理解を超えた部分です。
なぜ私は一般性を理解しているのかといえば、この回答はイデアによってわかっているとしか言えません。
すべての人は天才性を具えていて、それは客我の中にあります。
(主我が私の意識だとすると、私の意識を超えているものが客我だからと考えます)
そして天才性が私たちに自然物を教えてくれます。
>>天才性とは
私はここに人工物と自然物の違いを見ます。
ここでショーペンハウアーのイデアに対する考えにも触れていきます。
ショーペンハウアーは「崇高な感情」を呼び起こすものを表現できるものが芸術だと言います。
イデアを表現できることが天才なのだ、と。
ショーペンハウアーの「イデア」論
人はいつも感情的になってしまうとショーペンハウアーは言います。
「大多数の人間は客観性すなわち天才性をまるきりもっていないから、おおむねいつでもこの立場に立っていると考えてもいい。」
「意志と表象としての世界Ⅱ」
人は客観性をもっているときに、天才性がでてくる。
天才性が特定の個人にしかない、というのはショーペンハウアーなりの皮肉にすぎないんじゃないかなぁ。
世間は感情論が多い!という訴え。
プラトンはだれしもイデアを感じられると言うし。
ショーペンハウアーは「天才性」をこのように定義しています。
天才性とは、純粋に直観的に振舞い直観に自己没入する能力のこと、がんらいが意志への奉仕のためにのみ存在する認識に対し、この奉仕をさせないようにする能力のことである。
「ショーペンハウアー 意志と表象としての世界Ⅱ」p42
ショーペンハウアーは客我から認識までのプロセスを得ることを「天才性」と述べていると捉えることができます。
人が感情ではなく自己を忘れているときに、客観性をもっているときに、天才性がでてくるのです。
段階にしてみます。
- 天才性にいたらない感情 ⇨ イデアを感じる
- 天才性 ⇨ 客我からイデアを認識する(主我をとおらない)
- 天才⇒イデアを作品として何度も表わせる人
ショーペンハウアーが言う天才はイデアを何度も体感して、それを作品や言葉にできる人のことを述べています。
「天才性」と「天才」について本の個所から抜粋します。
イデアはいっさいの欲念といっさいの個体性とを超え出て純粋な認識主観へと高められた個人によってしか認識されない。
だからイデアに到達できるのはただ天才か、それともせいぜいのところ、天才の作品がきっかけとなって自分の純粋な認識力を高めて天才的な気分になった人にかぎられる。
「ショーペンハウアー 意志と表象としての世界Ⅱ」p150
ショーペンハウアーは天才か、天才性を持つ人にしか自然のイデアは認識されないというのです。
しかし、特定の人ではなくても、人は自然物の感覚をもっているようにも感じられます。
それでも、人が夕日を見て感動したり、山の山頂で感動したりといったときに、多くの人が自然を味わうのではないかと私は疑問になったのです。
なので、「天才性の前段階 ⇨ イデアを感じる」という段階を私は入れました。
知でないもの(認識していないもの)が感情です。
なので、認識しなくてもただ自然物を味わうことができます。
ショーペンハウアーの「天才性」の段階に前段階として感情を入れると、多くの人が自然物を感じられます。
知によって規定されていない感情には未知なる部分がたくさんあります。
そもそも、私が人工物と自然物をわけて考えようとおもったきっかけは、私の周りが人工物だらけになったと思ったことです。
未開の地にいて自然物が多い場所ではこの問い自体を持たないかもしれません。
日常的に人工物が少ないところに住む人もいるからです。
そして、自然物に触れたときに自分では認識していなくても、「崇高な感情」を味わっていることの否定はできません。
これがプラトンの言う自然のイデアかな
では、その私が天才性を2つの段階に分ける理由をもう少し詳しく見ていきます。
天才性の段階を2つに分ける理由
知でない部分が感情であり、その部分にイデアがあると述べました。
人は子どもの頃から学ぶことにより知を増やし、年を取ると知を忘れていくと一般に言われています。
知は認識をになっています。
- 天才性にいたらない感情⇨ イデアを感じる
- 天才性⇨ 客我からイデアを認識する
もし認識力が弱かったとしたら、イデアは感じられなくなってしまうのでしょうか。
よく、痴ほう症にかかった人は怒りっぽくなると言います。
子どもは感情を抑えることが難しいともいいます。
しかしこのような場合、感情の部分が発達していると捉えることも可能です。
例えば、涙を流したり、怒ったり、浮かれてしまったりといった感情は、意識すると消えてしまうことがあります。
意識することで自分が冷静になり、その感情から離れてしまうのです。
意識する前にしか現れない感情があります。
- 本を読んだ後に残る説明しずらいような高揚した感覚
- 何かとてつもないことに触れているはずなのに何も表現できない感覚
そのようなものを体験しているからこそ、多くの人が芸術の良さをわかったり、人工物と自然物を見分けられるのだと考察できるからです。
ではなぜ人はこのような感覚を味わうのでしょうか。
次に天才性とエロスの関係を見ていきます。
天才性とエロス
天才は他人からの評価からでしかわかりません。
他人が作品を「天才の作品」とわかるのには、そのことに通じた人がその理解を超えることを表すからです。
さきほどのイデア認識の間違いを述べたように、私が感じるものはどんなに客観性が高まっていても主観が入ります。
なので、他人がみて天才だという完全な客観性も必要になってくるのです。
絵画なら絵画、彫刻なら彫刻といったものに通じることによって、どんな人も良い作品か悪い作品かの判断が向上していくのではないかと私は考えます。
それはショーペンハウアーが「自分の純粋な認識力を高めて天才的な気分になった人」のことを現したように、どんな人も認識力が高まっていきます。
高まっていくからには自分の中の「客我の一部=天才性」と表しても通じるのではないかと私は考えています。
「客我の一部=天才性」とは自分の中に社会的な客我があるけれど、それが主我の理解をこえているものだと見ることです。
つまり、客我が快不快の感情をなぜ判断できるのかわからない、と主我が思うということです。
プラトンのイデア
プラトンは人がイデアをわかるのは、この世に生まれる前にイデアを見ていたからだと語ります。
そして、この世に生まれるとイデアを忘れてしまう。
ただ魂の記憶として純粋にイデアに憧れることをプラトンはエロスと言いました。
認識に至る前のただの感情の部分、その部分にこのエロスを当てはめることで、天才性を一般化して捉えます。
無意識に自然物に「崇高な感情」を持つことができるのはエロスがあるからです。
このことから、感情によって人工物と自然物をどんな人も区別できるようになるのではないか、と私は考えました。
さらに、プラトンのイデアに対して、人工物でも「崇高な感情」が生じるのではないか、と疑問が出てくるのではないでしょうか。
このような疑問にもショーペンハウアーは答えています。
ショーペンハウアー「個別のイデア」
ショーペンハウアーは「個別のイデア」を唱えることで、人工物にも「崇高な感情」をみられるようにしました。
芸術作品に自分を忘れて没頭することを「個別のイデア」として、このとき「崇高な感情」であるということができます。
芸術作品は人工物です。
そうなると、崇高な感情と自然物が結びつかなくなってしまいます。
そんなときに登場するのがショーペンハウアーの「個別のイデア」になります。
そもそも芸術作品は自然物の素材を使っています。
全部が人工物だと言っても自然物から作るからです。
そして、その自然物の素材である「個別のイデア」が私に「崇高な感情」を与えるとショーペンハウアーは言います。
この定義からすれば芸術作品全体ではなくて、芸術作品の「個別のイデア」が私に影響を与えていると言うことになります。
- 芸術作品全体=製作者の人柄+芸術作品そのもの
- 芸術作品の自然物の部分⇨「個別のイデア」が現れる
芸術作品全体だと製作者の人柄も入ってきます。
しかし、その作った人のことは忘れ、ただその作品自体と対峙するときに「個別のイデア」が現れることになるとショーペンハウアーは述べます。
芸術作品は、イデアを感じた人がそのイデアを現そうとして制作しています。
なので、私たちは芸術作品から「個別のイデア」を感じることができるとショーペンハウアーは言うのです。
芸術家が最高度のイデアを感じるときは自分がなくなって、純粋な客観状態になったときです。
なので、その作品自体もイデアを表すには製作者を思い出させないことで、イデアを感じやすくさせるのです。
その場合、作品全体というよりは、芸術作品そのものの「個別のイデア」に触れられたとき、私たちは「崇高な感情」を体感することになります。
人は芸術作品から「個別のイデア」を感じやすいとショーペンハウアーは言います。
自然物と人工物まとめ
プラトンの定義
- 自然物⇒イデアが存在する
- 人工物⇒イデアが存在しない。
このようなプラトンの論から出発しました。
イデアは感情にあるので、感情を規定しました。
そこから、プラトンの「イデア」を「美しい感情」と「崇高な感情」に思考実験的に分けました。
- 崇高な感情⇒自然物
- 美しい感情⇒人工物
プラトンの「イデア」は自然物に対してだけ発動しますが、ショーペンハウアーは「人工物」にも個別のイデアを見ました。
イデアを見たとわかるときに、人は「崇高な感情」を感じます。
そしてその感情はどんな人にも起こりうることを天才性で説明しました。
人はエロスを持っているのでイデアを意識せずにわかります。
でも、イデアは語ることができない。
ならどこで見分けよう?
感情を規定していって、自然物に「崇高な感情」を抱くように仮定。
というような、哲学の思考実験的ブログ!