「日本人としての自覚」
第2節「日本の仏教思想」
②最澄と空海
>>①聖徳太子と和の精神
西洋哲学におけるカント的立ち位置
- 最澄と空海がでてきた理由
- 最澄の生い立ちと思想
- 空海の生い立ちと思想
参考文献 最澄と空海(梅原猛)
最澄と空海がでてきた理由
奈良時代の仏教は、官寺(国家が運営する寺院)を中心に南都六宗(なんとろくしゅう)が有名です。
鑑真(唐の僧)によって東大寺で戒壇が設けられ、東大寺でのみ公認の僧となるための授戒制度が確立しました。
しかし、問題がおこります。
戒壇が設けられるのは東大寺のみ。
ということは、当時の仏教の権力が東大寺に集中します。
奈良仏教は堕落していた?
奈良仏教では、僧侶が権力と結びついていたことを印象付ける事件が起こります。
46代孝謙天皇が僧侶の道鏡と結びついて彼を法王にして、その後に道鏡が天皇になろうとした事件です。
孝謙天皇は女帝であり、色恋沙汰が道鏡とあったのだとか。
道鏡が天皇になろうとしたとき、和気清麻呂が「天皇の位は昔から天皇家の血を受けている人が継ぐことに決まっている」というご神託をもらってきたことにより、道鏡は天皇にはなりませんでした。
悪人の基準は、「自分が天皇になろうとたくらんだ人々」らしい
政治的遍歴
孝謙天皇は二度、天皇の座についています。
46代孝謙天皇=48代称徳天皇。
48代称徳天皇が退位すると、次にたてられたのは光仁天皇。
光仁天皇自身は何かをやったという記録は少ないのですが、光仁天皇が即位したということに意味があります。
38代天智天皇系と40代天武天皇系というように歴史的な区切りがあり、光仁天皇は天智天皇系です。
最澄は聖徳太子が大事にした仏典を重要視した
光仁天皇の次の50代桓武天皇は、都を長岡京、次に平安京に移しました。
これにより、天皇と奈良仏教との強い結びつきが弱まってきたのです。
ここで登場したのが、最澄と空海です。
彼らは東大寺の戒壇に疑問を持っていました。
最澄は19歳にして東大寺で受戒したのですが、そこから比叡山に入山してしまいました。
今でいえば、大学を卒業した(受戒)のに引きこもっちゃった(入山)イメージ。
最澄は、比叡山延暦寺に戒壇を設けることを生涯の目標としたほどです。
「比叡山延暦寺 戒壇院」
最澄と空海は古い仏教を捨て、南都六宗とは違った仏教へと向かいました。
鎮護国家をかかげながらも、山岳における修行と学問を重んじた山岳仏教です。
最澄の生い立ちと思想
最澄(767-822)の生い立ちと思想から見ていきます。
最澄の思想には悲哀が満ちていて、文章の内容を知ると彼をぐっと身近に感じます。
わが身は、愚かな人間の中でももっとも愚かな人間、狂える人間の中でももっとも狂える人間、頭は丸めても心汚れた生臭い人間、人間の中のくずのくずであります。
これは、上には緒仏の教えにたがい、中には国家の法に背き、下には孝養の礼儀に欠いています。
「最澄と空海」p24
最澄が19歳で既存の仏教を捨て、山にこもったときに書いた論文だと言われています。
全体の内容。
人生ははかなく、どんな人にも死の運命が待っている。
このはかない人生の中で善を積まなくてはいけない。
善を積むことで、次の世ではよく生まれてくるから、次々と生まれ変わる永遠の未来の人生に希望を寄せるべきだ。
釈迦は人間の世界は苦であり、苦の原因が愛欲にあることを知り、愛欲の心を断って涅槃に入った。
だから、私は釈迦のような心になるまで山を下りない。
最澄の書いた『願文』に感動して、ファンになった役人が表れました。
その一人が和気清麻呂らしいのです。
桓武天皇の寵臣だった和気清麻呂を通じてなのか、最澄に注目が集まった
最澄の思想
最澄は天台宗を広めました。
当時の流行は密教だったのですが、最澄は当時にしては古いと思われていた「法華経」を重要視。
>>大乗仏教とは
親が火事だから出てこい!といっても出てこない。
だから親は「ここに最新のゲームがあるよ!」と嘘をつく。
結果、子どもたちは家を飛び出して助かる、っていうような説法がある。
つまり、嘘も方便で、結果が大事なんだね
聖徳太子の伝統の下、『法華経』が日本仏教の中心たるべき経典だと最澄は思ったのです。
天台仏教は、平等を重視する一乗思想です。
一乗とは一つの乗り物という意味で、唯一の真実の教えがあるのみであるとする思想。
差別なくあらゆる生きものには仏となる本性(仏性〔ぶっしょう〕)があるという一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)の教えに通じています。
そして、最澄は法華一乗思想を主張しました。
最澄がだれでも仏になれると主張したのに対して、徳一は「どうしようもない人もいるよ、例えば悪人とか」と主張したみたい
>>神と古事記
最澄と大学
最澄はすべての人に仏性があると言っても、自分に厳しい人でした。
最澄は真の仏子のあり方を説きます。
それは、「悪事を己れに向かへ、好事を他に与へ、己れを忘れて他を利する」人間です。
‐最澄は一生を通じて、この利他の慈悲の理想を求め、それを実践した人なのです。
(「最澄と空海」p102)
最澄は日本に真の大乗仏教はなく、日本の僧はみな小乗仏教の徒であると言いました。
なぜなら、東大寺の授戒の仕方がいわゆる小乗仏教の戒律であり、それをずっと採用してきたからです。
最澄は比叡山延暦寺に彼が考え出した戒壇を設けることを天皇に請います。
天台宗で修行する学生は、僧になった年に大乗戒を受けさせます。
大乗戒を受け終わったら12年の間、山門を出さずに学問に専念させます。
(「最澄と空海」p107)
自分にできるから、他の人もできるだろうと考えたんだね
最澄によって、日本は一向大乗戒の国となった。(「最澄と空海」p122)
総合的な学びの場になっていたよ
最澄と桓武天皇
最澄は桓武天皇の寵僧でした。
けれど、最澄は権威がなかったので、はくをつけるためにも唐へ留学します。
最澄が帰ってくると、桓武天皇は重い病の床にいました。
桓武天皇は悪霊にも脅かされていたから、それを払って欲しかった
桓武天皇は仏教の霊力でその病気を治すことを望みます。
しかし、その加持祈祷の力を持っていたとされるのは密教でした。
- 密教⇒本当の真理は深く隠れている。空海が本場を学ぶ。
- 顕教(けんきょう)⇒真理があらわになっている。密教以外の仏教。
最澄は唐で密教をメインには学んできませんでした。
ここで登場するのが空海。
空海は「顕教というのは仏が他人のために方便として説いたもので、密教こそは仏が自分のために自分で楽しんで説いた教えだ」と考えました。
空海は最澄と共に唐に留学したのですが、空海の方は密教をしっかりと学んできていたのです。
最澄もしっかりと密教を学びたがった
最澄とともに活躍した空海とは
空海(774-835)は真言宗(真言密教)を広めました。
空海も20歳のときに出家して東大寺で学ぶものの、山にこもっています。
空海は高野山金剛峰寺(こうやさんこんごうぶじ)を拠点にしました。
密教は無常や無我を説く従来の仏教とは異なり、絶対者である大日如来の真の姿(法身)こそ世の中の本体だと主張します。
密教の究極の目的は、その大日如来と自己との一体化です。
空海のいいたいことは、以上のようなことだと思います。この世の中は感覚の世界である。それはきらびやかな色をもっている。その色の世界に溺れてしまう者、それは愚か者であり、溺れることによって、迷いや苦しみが出てくる。しかし、個々の色の世界のとらわれから自由になり、宇宙の本体である大日如来と一体になった人間にとっては、その色の世界がむしろ楽しいとみる。そして個々のとらわれから自由になって、自由な他人救済の行いに遊ぶことができる
(「空海と最澄」)p288
空海を寵僧とした嵯峨天皇は子どもが50人くらいいたのだとか
空海が唐に留学した理由
空海は『大日経』の極意が知りたくて、なんとか最澄と一緒に唐へ留学することに成功します。
20年間は唐で学ぶ予定でした。
しかし、空海は中国最強密教僧の一人である恵果(けいか)に直接教わり、その極意をわずか3か月で身につけてしまいました。
極意を身につけた空海は、2年で日本に帰ることにします。
大天才だったと言われてる
これに対して、空海って何者!?って空気があったのかも。
また、二人の仲違いもあって、空海の元でちゃんと修行しないと密教は身につかない、と空海が最澄にダメ出しする手紙も残ってる
空海と嵯峨天皇
空海は52代嵯峨天皇の寵僧だったと言われています。
50代桓武天皇の寵僧が最澄で、52代嵯峨天皇の寵僧が空海です。
空海と嵯峨天皇とはそういう趣味(文化的教養、筆)を同じくする友であるばかりか、空海は平城上皇(51代平城天皇)一派の人たちの嵯峨天皇を呪詛する怨霊どもの鎮魂をその秘法によってみごとに行い、嵯峨政権を安泰にし、国家の秩序を守ったのである
(「最澄と空海」p339)
空海は高野山を密教修行の道場として賜りたい旨を朝廷に提出しました。
「高野山 金剛峯寺」
高野山は人里離れた幽地だと言われています。
それでも、空海は高野山にいったきりではなく、都でも活躍しました。
綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)という大学をたてたりして、社会活動にも励んでいたのです。
最澄が大学の元をつくったとすれば、空海は私立大学の創始者ともいえます。
最澄と空海をやりました。
次回は、鎌倉仏教を取り扱います。
日本の仏教思想
>>①聖徳太子と和の精神
>>②最澄と空海(今回)
>>③末法思想と浄土宗
>>④親鸞(しんらん)の思想
>>⑤道元の思想
>>⑥日蓮の生涯
>>⑦無常観と日本文化