「オッカムの剃刀」という言葉を聞いたことがありますか。
オッカムの剃刀とは、説明はできるだけ単純な方が良いという考え方です。
オッカムのウィリアム(1285~1347)によって説かれました。(哲学用語図鑑 参照)
不要な説明をばっさり切り落とすことから「剃刀」と言われています。
オッカムは論証能力がとても高く、他の人から「無敵博士」と呼ばれていたそうです。
オッカムの剃刀の使われ方
オッカムの剃刀は不必要な説明をばっさりと省きます。
必要が無いなら多くのものを定立してはならない。
例えば、私たちは一人一人を「太郎」「花子」「アン」など名前で呼びます。
そのときにその総省をまとめて「人間」と言います。
この総省である普遍の存在をオッカムは認めませんでした。
個々の物だけに使うから、人間も動物もほ乳類も使わないよ。
ただ使えるものは、自然界に存在する一つ一つの個物です。
自然界に存在しない普遍を考える必要はないとオッカムは述べました。
このオッカムの剃刀の考え方から、「私が認識できるものだけを探求していく」という考えが育っていきます。
哲学⇨合理的、個物
個物 神学⇨神秘的、普遍
説明を受けたときに神秘的だったり、普遍を扱っている存在をオッカムは認めませんでした。
オッカムの剃刀の成り立ちを見てから、使用例も見ていきます。
オッカムの剃刀の成り立ち
オッカムの剃刀は普遍論争から出てきました。
普遍が実在するかどうかという中世神学の論争です。
この論争にオッカムは普遍は存在しないと説きました。
つまり、何かを意味したいときはそのものの名前を呼びます。
「太郎」「花子」「アン」というように、ただ名前だけがあるのです。 これを「唯名論」と呼びます。
普遍実在論と唯名論の比較
普遍実在論と唯名論を比較することで、詳しく説明していきます。
例えば、「動物」という普遍は存在するのか、という問い。
動物という言葉には、哺乳類、家畜、ペット、犬、猫といった言葉が含まれます。
すると、疑問になってきます。 そのような「動物」という普遍は存在するのか?と。
普遍実在論では「普遍は存在する!」と言います。
「動物」という普遍があるから「動物である個々」がはじめて成立するという考え方です。
唯名論では「普遍は存在しない!」と言います。
「動物」というくくりは人間が考えた言葉にすぎません。
ただあるのは「太郎」「花子」「アン」などの名前があるのみです。
普遍実在論⇨普遍がまず存在し、個々は普遍があってはじめて成立。
唯名論⇨個々の名前が存在するだけで、普遍のくくりは言葉にすぎない。
中世のその頃、「哲学は神学のはしため」と言われてきました。
オッカムは哲学から神学を剃刀でそり落とし、学問としての哲学に焦点をあてたのです。
つまり、神秘的な部分と具体的な部分とに分けました。
普遍論争は決着がついたわけではありません。
「オッカムの剃刀」はものごとを論理的に説明する際に、普遍と個別を切り離します。
「普遍」を否定してはいません。
そもそも、この論は剃刀で切りとる「普遍」が前提になっているんだね。
そうして、オッカムは私が認識できるものだけを探求すればいいと述べました。
人間が後から考えた言葉は、そもそも自然界に存在しない。
私は「動物」という普遍の実在は認めない。
このようにオッカムなら考えます。
統計学や機械学習の分野では、この考え方が利用されています。
普遍実在論と唯名論が争っていた理由にもふれていきましょう。
それは、教会にとって大きな問題を含んでいたからでした。
普遍実在論と唯名論が争う理由
キリスト教では、最初の人類であるアダムの罪を私たち人間が「原罪」として背負っています。
けれど、普遍が存在しなかったら、私たちは「原罪」を背負う必要はありません。
「人間」という普遍がなければ、それを背負う「人間」がそもそもいないからです。
「原罪」から私たちを救う教会の必要性がなくなります。
唯名論なら「原罪」を背負う必要がないのです。
そして、これは昔の話ではありません。
日本人(普遍)は戦争で悪い事してたっていうけど、僕(唯名)はそんなことしてないよ。
このような普遍実在論と唯名論の争いがあります。
普遍実在論では、その中に含まれるのですべてにおいて責任を負う立場。
唯名論では、その中に含まれないので責任を逃れる立場。
このような対立があります。
オッカムの剃刀を使ってみよう
オッカムの剃刀を使うとどのくらいわかりやすくなるのかを見ていきます。
例をあげていきます。
日本人と言う総称を個人に限定して述べると、具体的になります。
想像しやすいと言う点でわかりやすくなりました。
太郎君と花子ちゃんがゲームを持っているね。 みんなかな?
日本人とかみんなとかいう普遍をばっさりと切り取ります。
そうすると、説明が単純になります。
普遍的な物事をばっさりと切り落として、具体的なものごとだけにします。
こどもはゲームを買ってもらいにくくなるかもしれませんね。
さらに、神秘的なことへの議論もみていきます。
こびとみたいな小さい人間っていると思うよ!
この前、小人を本当に見たんだ! 桃のようなかぶりものをしていた。
普遍を取り除いたオッカムの剃刀で、このような神秘的に思えることを説明してみましょう。
あっ!桃ちゃんここにいる。 桃ちゃんに自分を語ってもらおう。
神秘的なものも、それが神秘的なのかどうなのかわかりません。
ここでは普遍の存在を認めないので、この「桃ちゃん」が神秘的な存在なのか、こびとなのか、はたまた人間なのか、わからなくなります。
実際に見てみなければわからないのです。
実際に見たときにわかりやすく実感できるのが唯名論ですが、そのものを見ない場合には話が掴みにくくなります。
こびとというような大まかな想像ができないからです。
オッカムの剃刀ーまとめ
「オッカムの剃刀」は合理的にものごとを考えるきっかけになりました。
成り立ちは普遍実在論と唯名論の「普遍論争」です。
今でも、単純に物事を説明したいとき、この考え方をすると伝わりやすくなります。
話すものがより具体的になるからです。
その論に必要のないことをばっさり切り落とすと、論文でも読む人にとっては単純になるね。