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脳科学実験から倫理を考察「完全な人間」とは

おはようございます。けうです。

 

昨日に引き続き、「闇の脳科学」について語っていこうと思います。

昨日の書き方だと、人間の脳に直接メスをいれることの恐さと、それが倫理的欠陥をもたらすのではないか、という怖さの面の主張が強く出ていたと思われます。
>>「闇の脳科学」ロバート・ヒースの物語

 

今日は逆の立場で、論じてみたいと思います。

脳をいじることが肯定される場合です。

脳手術が肯定された場合

今は禁止されているロボトミー手術(脳の一部を切り取る)ですが、ノーベル賞を受賞しています。

では、なぜ賞賛されていたかというところを見ていきたいと思います。

多くは戦場に出ていた兵士で、うつ病の症状や幻覚の症状に悩まされている人に対して行われました。

本人の同意を得て手術が行われています。

そして、なぜ同意しているかというと、本人が他人に対して殺人一歩手前までいってしまっていたとか、自殺手前だったとか、家族に暴力をふるってしまっていたということがあったからだそうです。

自殺を止めるためにやむを得なくする、というときに私たちはその本人に手術をするのを止めるかもしれません。

それは、私たちは本人の気持ちをわからないからです。

気持ちの持ちようで何とかなると自分ならそう考えるかもしれない問題。

そして、手術してその副作用まで考慮する危険性はあるのかと、自分の立場で考えるからです。

 

けれど、こんな場合はどうでしょうか。

戦場から帰ってきてしまった夫が暴力ばかりをふるうようになってしまった。

子どもにも悪影響を与えるし、いつか私も殺されてしまうかもしれない。

暴力が振るわれるときに夫はそれは自分が自分じゃないように感じている。

家族側も、夫本人もなんとかしたいと思っている。

しかも、それが制御できない状態にある。

 

ロボトミー手術の成功例は、このような事態を引き起こさないために役立ったことがあったそうです。

家庭内暴力を止めたり、自殺を食い止めたりする効果です。

例えば、政治家の親が子どもを殺したと言う事件を思い起こされます。

暴力が止められなかったけれど、その状態で世間にだしてしまったら、そのせいで殺されてしまう人がでてしまうかもしれない。

どうしようもできなかったから、その親は子どもを殺してしまうにいたったというニュースです。

 

けれど、脳科学でその暴力症状を抑えることができたらどうだろうか?

という話になるのです。

私たちは犯罪者が施設から出てきたときに、更生がなければ怖いと思います。

心は見えないからです。

でも、そこが可視化されて暴力ができない治療がほどこされていると考えます。

脳電極埋め込み手術とロボトミー手術の違い

ロボトミー手術は脳の一部を切り取ってしまうので、失敗であっても取り返しがつきません。

しかし、ロバート・ヒースはそこに電極を埋め込んだ手術を開発しました。

極端に言えば、人が殺されそうになったときに、相手のスイッチが推せれば自分の一命をとりとめられる、ということです。

しかも、切り取っているわけではなくつけ加えているので、やり直しがきくかもしれません。

 

この本では暴力というのは操作できるものだ、と語ります。

ただ、ここでも倫理的な問題が潜みます。

暴力はだめだというのはその時代によって決められます。

戦争の場面ではその暴力性が受け入れられたり、何かから人を守ろうとしたときの防衛による暴力も受け入れられたりします。

暴力は時と場合によっては、肯定されることも価値観によってあるということ。

遺伝子は時代による違いを考慮しない

遺伝子について考えてみます。

私たちはいろんな遺伝をもっていて、昔の分裂病患者さんは全人類の1%の確率で発生していたようです。

それはなぜかといえば、遺伝子というのはその時代にあわせて人間を生み出しているのではなくて、未来にわたって人類に有利なように構成されているというのです。

 

例えば、未来では食糧難の時代がやってくるかもしれません。

そんなときに、今の時代では敵対視されているような太る遺伝子を持っている人が生存できる状態になります。

さらに、分裂病の人は、因果関係が成り立たないことをよく考えてしまうらしいのですが、妄想とか幻覚、それが人類の発明にとってはとても役立ってきたという人類史もあります。

 

なので、初めから遺伝子操作をしてそのような今の時代に合わない人びとの欠点を操作してしまうのは、人類にとっては良くないことだといえます。

 

でも、人が生れ落ちて、今の環境にそれが合わないとわかったとします。

スリムボディの方がいいと思うし、暴力的ではく知的なほうがいいと思う。

そんなときに、その傾向を脳の電極によって変えることができるのは肯定されるのではないか?と。

「美容整形外科」とおなじような扱いに神経外科もなるかもしれない、と言う話はその意味で肯定される要素を持っています。

今の時代に合わせられないとしたら、それこそが不平等ではないか、という論です。

認知行動療法と脳電極埋め込みの類似性

そして、私たちは手術しないまでも、なんとか自分たちで自分たちを操作しようとしています。

今は認知行動療法が人気だとよく言われています。

本から見てみると、認知行動療法は電極を埋め込むこととよく似ているのだとか。

「認知行動療法は、『無意識の』あるいは『隠された』心理的原因をああだこうだと分析する代わりに、ネガティブなあるいは誤った思考パターンを特定することによってそれを変えていこうとする。患者はどういったときに自分の精神状態が悪くなるかに気づくことによって、それを回避する戦略を習得していく。」

 

では、これがどうして電極埋め込みと似ているのかと言うと、自分が誤った行動になりそうだと思ったときに何とかしようとするからです。

そういう事態がないように電極を埋め込んでしまう。

もしくは、操作できる電極もあるそうなのですが、自分が他人に危害を加えそうだと思ったときに自分の脳内に電極を通すことによって、その行動が抑えられる。

対照実験があります。

電極を埋め込んだとしても、そのあとに電極の不具合がみつかっていたということがあり、それが自分で自分の対照実験を引き起こした例です。

ある患者は自分で機械が壊れているということを発見しました。

機械が自分の暴力を抑えられなかったときに、その機械が壊れているのではないかと疑ったら、本当にそのとおりだった例があったのです。

認知行動療法ができている人だと自分の誤りに気がついてその暴力を抑えることができるけれど、脳に欠陥がある場合、自分でそれに気がついても自分では暴力を抑えることができない、ということです。

そうしたときに、モノに頼るという意味での電極です。

身近な例で脳から倫理を考える

危害、ときくと極端な例になってきますが、それをダイエットとか勉強とかと結び付けてみるとどうでしょうか。

自分がどうしてもケーキが食べたくなる。

でも、これは脳のせいだから、と自分で電極を流すことによって自分の食欲を抑えられるようになる、とか。

 

そして、さらに認知行動療法と似たことに、私たちは運動が頭に良いと聞いて、よく運動をするようになることもあります。

これは、脳的に正しくて、小脳を刺激するのでそこの回路で感情抑制やIQ向上や前向きな性格などが作り上げられます。

知識を得ることで脳を操作しようという私たちの意識です。

悪い症状を追い払えることが出来ると考えられています。

 

私たちは手術なしに自分を良い方向へ変えていこうとするのですが、それが手術の力なしでは出来ない人がいる、ということです。

今の社会の価値観だとか、自分の自分がどうであるかとか、そのようなことを照らし合わせて、自分ならどうするか。

自分なら意識してなにが出来ないのか、ということを考えていくことが倫理になってきます。

 

では、お聞きいただいてありがとうございました。

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