「日本人としての自覚」
第4節「西洋思想の受容と展開」
⑪西田幾多郎と日本哲学
>>⑩平塚らいてうと大正デモクラシー)
理⇒「自然に関する科学の総称」
- 西田幾太郎と日本哲学
- 西田幾多郎と時代背景
- 西田幾多郎の絶対無とは
参考文献 禅の研究(西田幾多郎著)、絶対矛盾的自己同一(西田幾多郎著、kindle版)、西田幾多郎 無私の思想と日本人(佐伯啓思)、反・幸福論(佐伯啓思)、続・哲学用語図鑑
西田幾多郎と日本哲学
西田幾多郎は、西洋近代哲学を学ぶとともに、熱心に坐禅の修行にはげんでいたと言われています。
つまり、西洋哲学の思想と日本古来からの思想を合わせることで、「西田哲学」を作りあげました。
「知と愛は本来同一の精神作用である」
「善の研究」p259
- 普通の知⇒非人格的対象の知
- 知(愛を含む)⇒人格的対象の知識
まず普通の知は、人格的対象であっても、非人格的にみる知です。
例えば、目の前の人をデータ的に捉えます。
次に、愛を含む知は、非人格的対象であっても、人格的にみる知です。
例えば、私の母親、私の数学、私の子ども、というように無私となればなるほど深くなる知(愛)。
子どもを助けようとしてとっさに体が動いたり、数学をやっていたら時間があっという間に過ぎていたり、という経験です。
無我夢中になっているとき
西田幾太郎の「純粋経験」とは
「我思う、ゆえに我あり」というように、主体(認識するもの)と客体(認識されるもの)に分けて考えたんだね
主客身分⇒我を忘れて主観(私)と客観(対象)が一体となっている状態
- 何かをボーっと見ているとき、私と対象の区別はない
- 何かに没頭しているとき、私と対象の区別はない
- 美しいものに見とれているとき、私と風景の区別はない
- ふいに良い香りをかいだ時、私と香りの区別はない
というように、この直接的な経験を純粋経験と呼びました。
善とは
西田幾多郎が純粋経験や主客未分を説いているのは『善の研究』という本の中です。
あなたは主客未分状態を考えたとき、ふと思うかもしれません。
「暇を持て余してボーっとしているときも純粋経験だけど、好きなことに打ち込んでいるときも純粋経験。
これって同じなの?」と。
西田幾多郎は各個人に合った善があるとしました。
自分にとっての最高な主客未分状態が善
例えば、あなたは子どもが獣におそわれているときに足がすくんで動けなかったとします。
そこにヒーローが現れて子どもを助けました。
あなたは「ヒーローが善だ!子どもを助けられなかった私は善ではない」と、思い込むかもしれません。
しかし、西田哲学によれば、個々人にあった善があるのです。
子どもを無心で助けたヒーローの善は、そのヒーローにとっての善。
あなたはあなたの特性を知って、あなたが無我夢中になることをしたときに「あなたの善」が現れるのです。
得意と呼ばれるということは、この社会においてそれが求められているということだから善になりうる
個人に最高なものを善と呼んでるから、個々人がそれ(個人の善)を追求できる
西田幾多郎と時代背景
西田幾多郎(1870-1945)の生まれた時代は、戦争の時代です。
- 1894年日清戦争
- 1904年日露戦争
- 1914年第一次世界大戦
- 1939年第二次世界大戦
西田が亡くなった年に、戦争が終結しています。
人生全体を通して、西田は親しい人との別れが多かったそうです。
日本の精神には、どうも人との別れや死の経験から「無常」を知り、「無常」を通して、「私」などをこともなげに翻弄する大きな運命を感じとり、そのまえに自らを消滅させてゆく、という心の動きがあります。
「西田幾多郎」p242
日本の精神で言われている「無常」は、死が「常」だから、生が「無常」になるのだと言います。
(「反・幸福論」p104参照)
つまり、死んでいる状態が普通(日常)ということ。
末法思想もそんな時代に流行した
「哲学の『動機』は驚きではなくして深い人生の悲哀でなければならない」
「西田幾太郎」p36
- あなたはなぜ親しい人に先立たれたら悲しいのか
- あなたはなぜ「ヒーローは善だ!」と思い込んだのか
- あなたはなぜ悲しいのにお腹が空いているのを感じたのか
でも抱いてしまう。
抱いてしまうから悲しい。
なぜ抱いてしまうのか、悲しんでしまうのか、ということを「意志」とした
以前の理想が無意識に変わっていることもある
そんな気持ちを西田は論理的に説明していったんだね
西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」
純粋経験の状態は、自己がいない状態です。
西田の哲学は、人生の悲痛や苦痛や楽しみに一喜一憂している自己を消し去ってしまう、という様子がみてとれます。
その「自我」を捨てなければならない。
「無」の方へ押しやらなければならない。
そして、「無」こそが本当に「私」がいる場所なのです。
‐純粋経験の方が、根本的実在(真実在)なのであって、「私」などというものは根本的には存在しない、あるのは、ただ様々な経験だけだ、というのです。
「西田幾太郎」p64
我々の生命は自己の作ったものに毒せられて死に行くのである。
「絶対矛盾的自己同一」p19
スーパーヒーローとか超美人とか!
もしその理想が変化しないとしたら、私は自分が惨めな状態にずっとなっていくだけ
その理想は自分にとって違う、というように、自己が目指せて流動的なものを設定。
例えば、仕事時間を削るのは怠けてるのではなくて、自己を守るためだとか。
またそれでも苦しくなる時は、またその設定を作りかえたりする
さらに、西田幾多郎は純粋経験が真実在だとする理論をうちたてるために、「絶対無」という概念をうちたてます。
西田幾多郎の絶対無とは
西田の「絶対無」という概念の登場は、日本哲学の幕をあけることになりました。
抽象的な概念のため、さまざまな哲学者が自分の理論をうちたてたのです。
今回はその一つである、西谷啓治が述べたという一文から「絶対無」にせまってみます。
「眼は眼をみず、火は火を焼かず」と。
眼が眼を見れば眼はほかのものを見ることはできない。
つまり、眼ではなくなる。
だから眼が眼であるのは、根本に「見ない」(不見)があるからである。
すなわち「眼は、眼でないがゆえに眼である」ということになるでしょう。
「西田幾多郎」p211
火の場合も、火はものを焼くという作用があるけれど、火自身は焼かない。
「火は、火でないがゆえに火である」
この論理を私にもあてはめます。
「私は、私でないがゆえに私である」
詳しく述べれば「私は社会的な役割をもっているときは私ではない、けれど、私でなければその役割をできないから私である」となります。
僕は子どもじゃない!って言いたくなる時ある。
でも、子どもという属性なくして今の僕ではないということ。
子どもという属性をはがすと、それは僕なの?なんか違うよねってなる
個性とは
西田幾多郎は私に属する「個性」と「個物」を分けて考えます。
- 個性⇒社会的な役割
- 個物⇒もの
西田は個性を社会的意識に現れる多様なる変化にすぎない、と述べます。
「私は日本文化の特色と云うのは……何処までも自分自身を否定して物となる、物となって見、物となって行うと云うにあるのではないかと思う。」
「西田幾多郎」西田幾多郎の言葉の抜粋からp172