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脳科学から「なりたい自分」になるにはどうしたらいいのか。

おはようございます。けうです。

 

脳科学から、なりたい自分になるにはどうしたらいいのか。

そんなことを考えていました。

「わたしはどこにあるのか」も読み終えて、また新たに脳の知識が入ってきています。

意志によって行動は制御できない

そのせいもあって、より強く、私は意志するだけではその行動をとれない、ということがわかってきました。

例えば、目の前の欲望、例えば甘いモノへの誘惑は耐えられそうにない。

 

それは、人間の本能と、おそらく私は過去になにかストレスを感じたときに甘いものを食べることによってストレスを緩和してきたんですよね。

だから、脳への報酬として結びついている。

 

この考え方は行動心理学にも当てはまります。

人が何かその行動をとって欲しいとする。

例えば、子どもの場合だと勉強をするとかお手伝いです。

その時に、それを目的というのではなく、それをやったときに脳の報酬系や快楽が働く。

勉強をしてその答えを言うと、みんながびっくりして、それに対して嬉しくなったとか。

なぜかわからないけれど、いいことがあった。

理由をつけさせてはいけないんですよね。

無意識レベルに誘っていく。

甘いものを食べたことから、無意識的に報酬系が働くようになる。

そんな脳の無意識の判断を鍛えていく、ということ。

 

そうなると、無意識的に行動を起こすので習慣になります。

私も習慣は獲得できるんですが、何か意志によってこれをしない!とすることができない。

意識によってしないことが出来る人は、その「しない」という習慣を取り入れられたのかもしれません。

しないことを出来る能力。

意識から習慣をつくる

では、どうしよう、と考えたときにまた新たに習慣を取り入れるしかないんだなと思いました。

なので、その健康と脳の回路のよさにと思って、ジョギングは取り入れるようになっています。

ジョギングと朝のラジオの原稿を書くことは、賢さにはつながるのかもしれないなと思っています。

では、健康に対して、まだたりないと思います。

では、どうしたらいいのか。

何か取り入れられそうな習慣を獲得するしかない。

例えば、水を飲むのを習慣にするとか。

 

でも、ここではまず意識がかかわってきます。

水を飲むという意識的な行動が続くことによって、やっと無意識的な行動に移行できる。

習慣を獲得するには2週間くらいか期間が必要です。

習慣を獲得するのは脳の可塑性

脳科学の本を読んで行くと、その習慣の獲得が可能なのは、脳の可塑性によるのだとわかります。

脳というのは自分で形を変えることができるんです。

だから柔らかくて、イメージとしては粘土。

ジョギングをするとか、水を飲むだとか、脳を変えられる。

 

でも、その分、人って変わらないといいますよね。

それは、きっと脳の柔らかさが反対にも左右するからなのかなと思います。

 

例えば、習慣になっていないうちにその意識的に取り組んでいたものごとをやめると、脳はあっというまに元に戻ってしまいます。

それも脳の可塑性の変化です。

 

おそらく、人によって意識的に習慣にできる度合いは違ってくるし、生まれながらにもつ性質によって何を習慣化しやすいか、しやすくないかもある。

 

その獲得しやすいものは脳の可塑性によって、脳は習慣と獲得するまでになれるのだろうけれど、その意識的に行動しているときに、逆にこれをやるのが嫌だな、という回路が働いてしまったら、いくらやっても習慣化しない。

これも無意識な好き嫌いの反応なのでしょうがないんですけど、その場合はそのことをやろうとする良い回路が育たないから、習慣化できない、ということになります。

 

そうしたら、なりたい自分になるには他のアプローチ方法を探さなければいけないということですよね。

 

発達障害と薬

昨日、発達障害と薬について考えていました。

脳の本の話では、脳のスキャンが法廷に持ち込まれて、そのスキャンによって判決がくつがえったという事例があるそうです。

この部分が弱いから、この人は精神異常によってその行動を起こしてしまったんだ、とか。

それほど脳が信ぴょう性をおびてきているんですが、注意しなくてはいけないのが脳の個別性です。

 

日常レベルで言えば、私はこの習慣は獲得しやすいけれど、この習慣は獲得できないというような個人的な差。

他には、発達障害で脳が変だとしたら、統計学的な脳のデータとは違っている部分があるという結果でしかない。

だから、個人の脳を見なければ、絶対的にそうだとは言えない。

例えば、脳の左脳と右脳をつなぐ神経の伝え方、そのようなあまり目に見えないところが人と違っている場合があって、それは脳スキャンでは見えないところだから、スキャンだけでは確実な個人と言うのはわからない。

さらに、薬によって行動を抑制する。

これはいいんですけど、その意味はどこにあるのか、という問いの発生があると考えていました。

その社会イベントをスムーズにすませるために薬を飲むのか、本人の脳の可塑性に期待して良い行動が習慣化することを目的化するのか。

薬一つとっても、社会のためなのか、自分のためなのか、という使い分けができるんだなと考えていました。

生まれながらの性質と習慣

さらに個人差で思ったことがあります。

人は生まれながらに道徳心をもってうまれてきているという実験結果があるそうです。

一歳の赤ん坊でさえ、敵味方を判断する能力があるのだとか。

それに逆らうような習慣は、その人にとってはなかなか習得にしづらいですよね。

元々生得的なものを脳の可塑性によって変えると言っても、粘度は粘土です。

その変わらないものと変わるものの差はどこにあるのか。

そういう違いを調べるためにも、脳科学はさまざまな実験を繰り返しているそうです。

個人の場合は個人で日々実験や自己発見をするしかないのかもしれません。

「<わたし>はどこにあるのか」を意識する

本を読んでいて、おもしろいなと思ったのはトロッコ問題などで道徳的な問題を扱ったときに、人は右脳で道徳を判断しているそうです。

だから、その右脳に損傷がある人は道徳的な良心に関わらない合理的な判断をしやすい。

でも、不思議なことに、脳分離患者の人が左脳だけで物事を判断して道徳的にはひどくても合理的な判断をしたとする。

そのときには声で自分の合理的な部分にしたがって判断をした後に、道徳的な判断を働かせるそうです。

 

このことに関して、私が無意識にやっている行為は意識と何かしら関係があるのではないか、ということを強く意識しました。

独り言をなぜ言うのか、なぜ動くのか、なぜ手を合わせるのか。

この文章を書いてるときに、私は無意識で手を止めて、手を左右合わせる行動をとっていたみたいなんですよね。

で、子どもに、ママはどうして手を合わせるポーズをとっているの?と聞かれたんです。

私は考えていたんだよ、と言ったんですが、それと手を合わせるポーズは理由としては合っていない。

これが左脳が理由をつくり上げると言うインタープリンターなのかな、と。

もしかしたら、こんな無意識な行動も私にとって合理的な判断をしているのかもしれませんね。

私が意識では気がついていない無意識的な行動の理由がある。

それは何かを発見するのは楽しいだろうな、と思いました。

 

では、今日もお聞きいただいてありがとうございました。

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