「日本人としての自覚」
第4節「西洋思想の受容と展開」
②中江兆民(なかえちょうみん)と自由論
>>①文明開化と福沢諭吉の「学問のすすめ」
天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり(学問のすすめ)
「哲学」「自由」「理性」など、この頃に翻訳語として登場
- 自由論とは
- 中江兆民の思想
- 自由民権運動
参考文献 哲学用語図鑑、自由論 (J.S.ミル著 山岡洋一訳)、三酔人経綸問答 (中江兆民著 桑原武夫・島田虔次訳)、一年有半(中江兆民著、鶴ケ谷真一訳)
自由論とは
明治以後に翻訳された「自由」という言葉は、福沢諭吉によって再定義されて広まったと言われています。
- 今まで⇒自由は「わがまま」というイメージ
- 福沢諭吉訳⇒自由は「自らをもって由となす」
好きなように振る舞う代わりに、言動の責任も自分で取れるのが自由
つまり、福沢諭吉は人々が互いを妨げることなく自分自身を幸福にすること、といった意味を自由に持たせました。
他者の自由を尊重しつつ、他者の意志にではなく自己自身の意志に従って行為することが自由です。
J.S.ミルの思想
J.S.ミル(1806-1873)の有名な言葉。
満足した豚であるより、不満足な人間である方がよい。
満足した愚か者であるより、不満足なソクラテスの方がよい。
ミルは肉体的快楽よりも精神的快楽を質の高いものであると考えました。
精神的快楽は他人の幸福によって得られるはずだと信じます。
J.S.ミルの「自由論」
ミルの「自由論」は市民的自由、社会的自由を説いた本です。
ミルは自由論を要約するとこのようだと述べます。
- 個人は自分の行動が自分以外の人の利益に関係しないかぎり、社会に対して責任を負わない。
- 個人は他人の利益を損なう行動について社会に責任を負い、社会はみずからを守るために必要だと判断した場合、社会的か法的な処罰をくだすことができる。
「自由論」p210
この注意点として、細部が議論されるようにならなければいけないと述べます。
例えば、危険な橋を渡ろうとする人を引き留めるのは、その人の自由を侵害したことにはならない。
それは、自由とは本人が望むことをすることであり、その人は橋から落ちることを望んでいないから。
さらには、自分を売るということも批判します。
それは、自分を売ればその一回の行動の後には、その人に自由がないから。
自由論と中江兆民の思想
中江兆民(1847-1901)は、24歳のときにフランスに留学。
帰国後にルソーの「社会契約論」を漢文訳したり、自由民権論を展開するなど、”東洋のルソー”と呼ばれました。
中江兆民の「三酔人経綸問答」(さんすいじんけいりんもんどう)
中江兆民の著書「三酔人経綸問答」は、酔った3人が対話をするという物語です。
「自由」にはさまざまな議論が必要。
それを表現するかのように、3者がおのおのの主張を語っていきます。
登場人物は「南海先生、洋学紳士、豪傑君(ごうけつくん)」。
洋学紳士は啓蒙主義思想家です。
西洋の哲学を取り入れ、カントやルソーなどの平等・自由・平和を説きました。
>>カントの道徳論
二人の意見に対して南海先生はどう唱えたんだろう
進化の神の憎むところのものはなにか。それは時と場所をわきまえずに言い、行なうことにほかなりません…いや、間違えました。‐昔から今まで、実現せられ得た事業はすべてみな進化の神の好むところのものであったのだ、ということです。それでは一方、進化の神の憎むところのものはなにか。その時、その場所において、けっして行ない得ないことを行なおうとすること、にほかなりません。
「三酔人経綸問答」(p96)
民権論
南海先生は民権には二種類あると説きます。
- 恢復(回復)的民権⇒人民が下から自分で勝ち取った英仏などにみられる民権
- 恩賜(おんし)的民権⇒政府の憲法制定によって与えられた日本にみられる民権。
日本国民は明治維新によって、政府から民権を与えられた状態。
つまり、英仏のように自らが勝ち取った民権ではないと述べます。
与えられた民権を歴史が育て上げていくことで、恩賜的民権は回復的民権と肩を並べるようになると南海先生は述べます。
紳士君、紳士君、思想は種子です、脳髄(のうずい)は畑です。
あなたがほんとに民主思想が好きなら、口でしゃべり、本に書いて、その種子を人々の脳髄のなかにまいておきなさい。
そうすればなん百年か後には、国じゅうに、わさわさと生え茂るようになるかも知れないのです。
「三酔人経綸問答」(p99)
中江兆民は対話の形で本を書くことで、人々に「自由」と「民権」の思想を提示しました。
日本に哲学なし
余談になりますが、中江兆民と言えば「日本に哲学なし」と述べたことでも有名。
その言葉は、中江兆民がガンで余命一年有半という宣告を受けた時に残した日記(「一年有半」)に書かれています。
日本には古くから今に至るまで、天地万物の普遍的な本質について明らかにする哲学がない。
さらに、国学、古学、仏教、西洋諸国の真似、は純然たる哲学ではない、と語ります。
海外諸国と比較した日本人の特徴
- 日本人はきわめて道理をよくわきまえ、ときどきの必要に順応し、少しも頑ななところがない
- 宗教上の争いがなく、血を流さない革命をなしとげる
- 独自の哲学を持たず、浮かれやすく軽薄
- 利害にさとく、理念に暗く、考えることの嫌いな国民
- 深いところまで徹底するということがない
このように外国と比較をした日本人の特徴を述べました。
中江兆民は哲学を好ましく思っていたので、このような哲学的土壌のない日本人への批判をしているのです。
自覚しながら説いた本心(『一年有半』が真の私だと説く)も、思想の種子となっていったのかな
自由民権運動
当時、薩摩(さつま)と長州(明治維新で活躍した藩)出身を中心とする藩閥が強かった政治。
その政治に対して、1870年代なかばから、参政権を要求して国会開設を求める自由民権運動がおこりました。
当初は官民調和を説くイギリス系の穏健な民権思想(福沢諭吉やミルの「自由論」からの思想)が説かれます。
しかし、次第にフランスのルソーなどの影響を受けた急進的な民権思想がでてきました。
>>ルソーの社会契約論と一般意思
- ホッブズ
>>リヴァイアサンとは|「社会契約説」の発生 - ロック
>>抵抗権と経験論 - ルソー
>>社会契約論
という流れがあります。
土佐藩士の家にうまれた植木枝盛(うえきえもり 1857-92)は、国とは政府や君主によってできたものではなく、民によってできたものだと論じ、社会契約説的な考えを説きました。
彼の考えは抵抗権・革命権の主張をも含む、民間調和を説く明六社流の民権思想を乗り越えるものだと言われています。
今回は自由論と中江兆民をやりました。
次回は内村鑑三とキリスト教の受容を取り扱います。