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「哲学を学ぶ方法」の補足。学ぶと勉強するを分ける。

おはようございます。けうです。

 

昨日はブログで、哲学を学ぶ方法という記事をUPしました。

私は哲学用語を知って、それを具体例を用いて自分の身近にして考えることだと述べました。

そして、ただ哲学を学ぶということは難しいことなんだということを心理学実験から述べました。

>>「哲学を学ぶ方法」

 

哲学用語を知るには

私はまず哲学用語を知って、と言いました。

では、哲学用語とはなんだろう、と。

実は哲学は原書に当たるとその哲学用語といわれるものがなかったりします。

まだその用語になっていない原型があったりする。

では、どうやって哲学用語が作られるのかと言えば、読者が読んでその本に出ていた用語を引っ張り出してきて、これを哲学用語にしよう!という形が一つ。

または、読者が読んでこういう言葉が当てはめられると考えてそれに対応させることがもう一つ。

では、原書にはなかった哲学用語を知ることとはどういうことなのだろうか、という問いですよね。

 

そして、私はこの哲学用語を覚えることを正当化するために学問をだしてきました。

例に出して、

数学なら数学の知識が必要。

文学なら文学の知識が必要。

というように、

哲学なら哲学の知識が必要。として、哲学の知識を哲学用語、としています。

 

私は哲学用語図鑑を哲学用語を知るのにいいよ、とおすすめをしたわけですけど、これも具体例なんですよね。

 

だから、私はこのブログ記事を、ほぼ具体例だけで書いているんです。

 

そして、哲学の定義も私は哲学を学んでいく中で、意味を確定させないほうがいいのかもしれない、とも思っているんですよね。

1つにはそれでも「過程(プロセス)」は一つある。

知を愛する面はある、といくつか述べられるんですけど、確定したとたんにそれは他の学問になってしまうかもしれない。

 

なので、私は実践が哲学なんだといって、哲学用語を使って、具体例をだして自分で考えてみよう、と言ったんですよね。

そして、それをすることが自分が哲学をしていることだと思っている。

でもなんですけど、私はいまだに考えるということの定義も定まっていないし、実は最近は学ぶとはなんだろう、という問いが強く発生しています。

なので、哲学を学ぶ方法に限定させて、ただ具体例だけを書いているんです。

そこで疑問になってきます。

学ぶとは何か、と。

 

学ぶと勉強するの違い

 

社会人になると学ばなくなると言いますよね。

日々の勉強時間が数分だとか。

だから、勉強をしている人は偉い!なんて文言で使われえることがよくありますが、ならば逆に学ぶとは何か?という問いが私にはたちました。

この学びに対しては、学校の教科をおそらく多くの人が思い浮かべて、それでその教科についてはやっていないから、やっていない、としたのだと私は考えます。

では、学校の教科に哲学は入っていなかったのですが、大学に行くと哲学が学問として成り立っています。

その成り立っている学として哲学がそこにある。

でも、大学の学問を勉強とはあまり言わなかったりすることもあるな、と思いませんか?

哲学を勉強する、よりも、哲学を学ぶほうがしっくりくる。

それはなぜなのか、と。

 

勉強と学びの違いをネットから引用してみました。

「私が考える勉強と学びの定義とは『勉強』=教えに従って『身につけるべきこと』を身 につけること。『学び』=自分から『こうありたい』自分になること」(佐伯胖(ゆたか)教授参照)

勉強とはやらなくてはいけないこと。与えられたものをこなす作業。

学びとは好きなことに没頭すること。

 

大学に入った目的の一つが自分のありたいことをやる、というモチベーションだったとすれば、大学の教科は学びになるんです。

 

では、哲学をやっている自分がこうありたい自分だった場合で、でも、やり方がわからなかったら?という問いがでます。

それには勉強から入るしかない。

私がこういうのが哲学を学ぶことですよ、という押し付けをまずしているんですよね。

それに従うことはまずは勉強になってくる。

でも、初めになんらかの情報を仕入れないと、自分で知識にすることは難しいと「不知の自覚」で扱いました。

>>「不知の自覚」とは

そのためには、学ぶ前に勉強がくるのかもしれません。

 

勉強をやっていくと、学びになっていくことがあります。

こうありたい自分になるために、まずは教えに従うために勉強をする。

勉強と学びは相互関係にあります。

でも、こう思うなら、勉強はしていない、ただ学んでいるんだよ、という意味でアンケートでは勉強をしていないという回答をした可能性が浮かびますね。

そうなるとあの社会人になってからの勉強時間は6分という用語は何を表しているのか、わからなくなる。

でも、学ぶ前の前提を勉強としている可能性もある。

用語を情報として捉えて身につけるべきこととするならば、やっぱり学びの前に勉強はくる。

学前の勉強はあっという間かもしれないですよね。

その勉強と学びの区切りもあやふやにはなってきます。

学びを伝えることの違和感

昨日のブログ記事を書き終えた違和感を書いていきました。

私はブログ記事で哲学を勉強する方法を書いている。

用語を知ることだし、哲学者の考えを知ることだし、自分で実践してみることだ、と。

私が示唆することによって、まずこれは勉強でしかないのかもしれません。

私の押し付けがまずある。

これがきっと「無知の知」の方になってしまっているかもしれません。

知らないことを知れといっている。

でも、私のブログ記事から私はそのことをよく知らなかったのだと読者が自覚してくれて、その人が哲学を学ぶ可能性もある。

だから、勉強する方法ではなくて、学ぶ方法としてもいいのかな、と思っています。

 

そして、学びは自分から興味をもってやっていくこと。

私は提示したものをやる、やらないはその人の自由であって、哲学をする自分でいたいからその実践を守ってやってみようと勉強をしだす。

そこからなりたい自分になろうとしているとき、そのものにのめり込んでいるときには学びになっているのかな、と。

昨日の記事の補足として、このラジオをつけておこうと思いました。

 

では今日もお聞きいただいてありがとうございました。

 

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