空想的社会主義

空想的社会主義とは何か|高校倫理1章4節6

このブログの目的は、倫理を身近なものにすることです。
(高校倫理 新訂版 平成29年検定済み 実教出版株式会社)を教科書としてベースにしています。
今回は
高校倫理第1章
「現代に生きる人間の倫理」
第4節「社会と個人」
6.空想的社会主義とは何か
を扱っていきます。
前回は、プラグマティズムとは何かをやりました。
プラグマティズムは有用主義、道具主義というように、知識を生きていくために活用しようという思想からなりたっています。
19世紀アメリカの荒野では生きるために知識を活用した
19世紀は資本主義経済が出てきた時代。
人が生きるための競争はいつしか、生きる必需品や欲求をみたすものではなく、お金もうけが目的になるという弊害をもたらしていきました。
貧困や失業、経済格差。
社会そのものを変革して新たな社会をつくろうとする思想が社会主義です。
社会主義⇒資本主義の弊害を、社会そのものを変えることで変革しようとする思想
資本主義が前提で、それを変えようとするのが社会主義
社会学者デュルケームは、「資本主義の矛盾を乗り越えようとする近代的な発想」を社会主義と呼んだよ
社会主義の発生した頃の思想は、空想的社会主義と言われています。
後に社会主義を説いたマルクスは、自分たちの思想と分けるために空想的社会主義と名付けた。
でも、それを高く評価していたみたい
ブログ内容
  • 空想的社会主義の発生
  • 空想的社会主義を説いた人々

参考文献 「社会主義前夜」中嶋洋平、「社会主義の誤解を解く」薬師院仁志

空想的社会主義の発生

資本主義の問題点。

‐資本主義的な生産様式は、自給自足型の生産様式から区別される。

その違いは、製造技術の次元にあるのではない。

重要な点は、生産活動が、自分たちの必要や欲求を直接的に満たす行為ではなく、カネ儲けの手段と化すということである。

-資本主義社会において、生産活動の主役は、カネ儲けを行う人間であって、生産活動を担う人間(労働者)ではないのである。
(社会主義の誤解を解く p18-p19)

資本主義の問題点は、人間よりもその手段が主役になってしまうこと

19世紀は変化の時代。

今まで支配されていた市民が主役となる民主主義の思想になっていきました。

財産の私有と自由競争に基づく市民社会(資本主義)。

しかし、ここで問題がおきます。

生産活動の主役が「カネ儲け」になることで、人間が疎外されてしまったのです。

疎外⇒人間が、自分のうみだしたものによって支配され、人間らしさを失うこと

空想的社会主義者

人間らしさを失う、とはどういうことか。

  • イギリスの産業革命(1760-1830)でのマンチェスターの労働者の平均死亡年齢はわずか17歳だったという資料。
  • 1840年のフランスでは全人口の約6分の1(約600万人)が何らかの救済を必要としていた
  • 1834年の新求貧法では、生活保護が姿を消し、貧民の処遇は労役場への懲罰的収容だけになった
    (以前の求貧政策は貧困層の保護と救済目的もあったが、治安維持目的でもあった。浮浪者や犯罪の増加の抑制)
  • アメリカ南北戦争(1861年)が奴隷制度で争ったように、南部アメリカで奴隷の使用は経済に大きく関わっていた
  • 「羊が人間を喰う」がキャッチフレーズになった。
    (羊毛を生産して、労働者を使って織物に変えていく過程が過酷だった)
    (資本主義の誤解を解く 参照)

19世紀は、市民革命によって身分支配は後退したけれど、貧困層は保護を失った時代でもありました。

1830年頃のイギリスでは、「貧困は、国家や社会の問題ではなく、個人の道徳的責任だという考え方が台頭」(資本主義の誤解を解くp52)。

その結果、奴隷身分よりもひどい環境に置かれることもあったのです。

道徳的責任や自己責任はときに悲惨な状況をまねく

こんな中、初期に社会主義を唱え始めたのがオーウェン(イギリス・1760-1825)、サン=シモン(フランス・1760-1825)、フーリエ(フランス・1772-1837)です。

空想的社会主義を説いた人々

オーウェン、サン=シモン、フーリエが何をしたのか、簡単に見ていきます。

60年後に生まれたマルクス(1818-1883)によって空想的社会主義と言われた背景には、その時代では実現が難しい理想論だった、理想になってしまった、という意味が読み取れます。

トマス=モアの小説「ユートピア」(理想郷という意味だけど、どこにも存在しない場所、という意味もある)のイメージ

イギリスの社会主義者オーウェン

オーウェン(1760-1825)はイギリスの産業革命の真っただ中に生きた人です。

彼は工場経営者でもあります。

当時のイギリスでは労働者の権利を語られることがなく、経営者は競ってコスト削減につとめました。

コスト削減の信仰。

それは、宗教的にも労働は苦役であって、来世に希望を託すという宗教観とも一致していたのです。

労働は善いものというプロテスタンティズムもあったのかも

オーウェンの周りでは、16時間労働や子どもの労働、生活できないほどの低賃金が当たり前でした。

彼は、自分の工場ではそこまでコスト削減をしなくても利益を出せる経営をしました。

オーウェンの工場は経営的にも成功

オーウェンは特に子どもには労働をさせたくありませんでした。

1816年には6歳までのこどものための幼児学校、10才までのこどもの初等学校という「性格形成学園」にも力をつくします。

オーウェンは高賃金を保証し、工場の品質向上と増産も達成。

労働者の生き方に関与して、性格自体の改善も試みました。

例えば、お酒を飲んでばかりいる人にお酒を規制する、など。

人間は一生をつうじて囲まれる環境もしくは状況のようになってしまう。
(社会主義前夜 オーウェンの言葉 電子書籍p2683/918)

オーウェンは人間に普遍的な定理(万有引力のようなもの)があるはずだと考えました。

環境を整えれば、社会もよくなると考えたのです。

オーウェンは自分の工場の成功から、他の工場も変えていこうとします。

1819年紡績工場法では、9歳以下の労働禁止、16歳未満は1日12時間労働という制限など。

この時代背景には、ナポレオン戦争終了後の不況もありました。

産業で機械化が進んで、ものがあふれていてもそれを買えない、購入できない、という現実。

オーウェンは、機械に振り回されてはいけないという思想から、アメリカにニューハーモニー村の建設を試みます。

ニューハーモニー村

産業革命以前の農業を中心とした世界を理想化したニューハーモニー村。

1824年、800人からなる村をアメリカに建設したのです。

アメリカ初の社会主義ヴィジョンになりました。

機械化による生産性よりも、自然と人間の調和や人間の生きやすさを重視

村の理想的人数は平均1000人ほど。

財産共有を基礎とする共同社会です。

この人数なら労働者の性格改善という事業もなんとかなると思ったみたい

企業家として工場経営にたずさわるだけでなく、実際に各地の工場の悲惨な状況を目にしてきたオーウェンにとって、資本主義とは財産をもたない労働者の貧困を生みだす根本原因でしかなかった。
(社会主義前夜p2077)

けれど、建設から3年後。

1827年には実験の失敗がつげられます。

オーウェンは村を買い取っただけだったので、住居不足。

当初集まった800人は希望者だけだったので、職人不足。

制度不足。

オーウェンの私有財産から始まった村を、購入できたのは一部の人だけ。

また、人々の特性を無視した強制労働の強制にまで発展してしまいました。

オーウェンは独裁的な運営もやりだしたと言われています。

パターナリズム(管理主義)的になってしまった
洗脳に結び付きやすいという弊害はあるのかも
失敗の後。
世間は選挙拡大運動に積極的でしたが、オーウェンは消極的。
人の意識を変えなければ意味がない、として人々の教育を説いたと言われています。

フランスの社会主義者サン=シモン

1789年にフランス革命がおこりましたが、産業革命はまだでした。

フランスはイギリスと違って、製造業よりも農業が重視されていた時代です。

サン=シモン(1760-1825)は、封建貴族。

貴族階級だったのですが、フランス革命では革命家として動き出します。
(貴族階級にとっては革命前の制度のほうが利益的)

フランス革命での関与。

しかし、関与しただけで、その後は独自に投資事業に乗り出して投資に成功。

サン=シモンはいろんなことをやっていた

1783年にはロベスピエール率いる革命派に逮捕されますが、ぎりぎりで処刑されずにすみます。

サン=シモンは、科学的発展によって人間精神が知的に進歩すれば、社会が変わっていくという初期社会学者的な思想を持っていました。

彼は資本主義を悪魔化するのではなく、資本主義の中で資本家と労働者の融合を図ろうとしたのです。

サン=シモンとフーリエは、資本主義を否定していない
フランス革命後の混乱した社会。
サン=シモンは明確なビジョンが見えているわけではなかったので、ヨーロッパ社会の再組織について論文コンクールを実施することを提案。
サン=シモンは自分をサン=シモン公爵(偉い他人)の緑戚と偽って、ナポレオンに自分の改革案を読ませようとしていた
サン=シモンはフランス革命は市民が産業によって力をつけて起こったのだから、産業に力をいれるべきだと考えて雑誌『産業』を刊行。
産業を通じて資本家と労働者がコミュニケーションをとって融合すればよいと考えたのです。
さらに、宗教の欺瞞を批判。
(宗教の欺瞞⇒労働は苦行で彼岸に行けば救われるという発想)
労働者は搾取されるだけではないとして、自由社会を目指しました。
昔ながらの宗教に共感できない人々が増えてきていた
サン=シモンは寓話から、王侯貴族がいくら死んでも誰も困らない、ということを示して身分制度を批判。
また、宗教的欺瞞は批判したものの、最終的には「神は言った。汝ら互いに愛し合い、助け合え、と」という愛の人類教に傾いていきます。
サン=シモンも制限選挙を支持していて、人々の啓蒙を説いていた
後にマルクスとエンゲルスが徹底的に批判したといわれる皇帝ナポレオン三世(在位1852-1870)は、サン=シモン主義を語っていました。
馬上のサン=シモンとも呼ばれ、『貧困の根絶』を出版。
資本家と労働者の融和や、革命の防止という点で、マルクスが説く時代の流れによる革命思想が起こらなくなったからです。
皇帝の命令によって労働環境がよくなったりした

フランスの社会主義者フーリエ

フーリエ(1772-1837)はフランスの社会主義者。
フランス革命の啓蒙思想は、野蛮しかもたらさない、と考えます。
さらに、古代ギリシャ以来の哲学者たちの無能さを批判。
プラグマティズムのデューイも、古代からの哲学は観察者的視点であって、住民目線ではなかったと説いたよね
フーリエは人々の多様性があればあるほど、人々がひきつけあって全体の調和がうまれる、と説きました。
多様性の肯定という現代的視点
フーリエはオーウェンと同じく、共同体を唱えます。
フーリエの唱えたのは「ファランジュ」という農業共同体の構想。
800人ほどからなる共同体で、みんなが多様性を発揮しながら生きていける理想的な社会です。
フーリエはオーウェンのニューハーモニー村に共感して手紙を書きますが、結局は無視されてしまい決裂。
オーウェンは村を買いとったのに対して、フーリエの構想は住人配置まで考えた学園的なイメージ
フーリエは管理主義的な主張には反対。
人々の能力差を認めて、人のもつ競争心や自負心は共同体の維持に不可欠だと説きました。(資本主義前夜p1248)
オーウェンは明確に資本主義社会に反対したけど、サン=シモンとフーリエはそうではなかった。
また、みんながみんな管理主義というわけでもなかった
社会主義といえばマルクスが有名ですが、そのマルクスにつながる空想的社会主義を見てきました。
次回はマルクス主義を取り扱います。
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