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行動と行為から感情を考察。

おはようございます。けうです。

 

昨日はマックス・ウェーバーの行動と行為についてのブログ記事をUPしました。

内容はどんなことかと言うと、行動と行為は違うということについて話しています。

行動は反射的だけれど、行為は社会的なものと結びついているという解釈です。

 

この記事はずっと前にけうブログで載せていたリライトなんですけど、また考えたときに新しい発見がありました。

行為と行動は違う

ドキドキとかわくわくとか、人間にホルモンによって反射的に起こる行動。

そう、これって行動なんですよね。

それで、ドキドキして嬉しいとか、わくわくして楽しみにという感情を結び付けることは行為だとウェーバーから解釈ができます。

この行動と行為が分けられます。

 

私はたびたび自分の感情がわからなくなるときがあります。

特にストレスは分かりにくいです。

この発言を受けて、私は自分がストレスになって悲しんでいるのかもしれない。

そんなことを後になって発見するんです。

でも、多くの人はストレスに関してはそうかもしれませんよね。

だから、心療内科があって、ただ話を聞いてもらうだけで心が安らいだりする。

それは、言語化することで感情の右脳と言語の左脳を結び付ける作用、さらには社会性を帯びる作業にもなります。

ただモヤモヤしただとまだ感情になっていない。

それを感情に自分でできなかった場合に、話をすることで社会的な感情にすることができます。

語彙が増えたから初めて自分の感情が表現できたとか、されているとか思うことも、感情が社会的なことで後から意味づけられたり、名づけられたりすることと関係します。

 

自閉症の話をだすと、自閉症の人は自分の感情がよくわからなくなるときがあるそうなんです。

でも、人には反射的な行動はありますよね。

ホルモンが放出されるとか、反射的な行動です。

感情がわからない、という現象があるのならば、行動を行為をわけることによって説明が可能です。

「異邦人」から感情を考える

この話がでてきたことで、昔読んだ小説の異邦人を思い出しました。

主人公のムルソーは太陽がまぶしかったから人を殺したといいます。

ここには感情の結びつきがないように思えます。

行動的。

行為にするには社会性をもたせるためになにか理由をつける必要があります。

でも、主人公はその結びつきは嘘だといって拒否をする。

 

私たちの社会を成り立たせているものは、言語による嘘というか、組み立てが多いと言うことをあらわしています。

ムルソーは母親が死んでも、次の日遊びにでかけて笑っていたそうなんです。

ここも、人には喪に服す時のふるまいという社会的な行為の埋め込みがあるからそのように行動しているんだと言うこと示唆しています。

だから次の日遊んでいると、反社会的にとられてしまう。

反社会的という言葉はあまり良い言葉とされてません。

 

もともと人は社会的な動物だということはできます。

自分の行動を説明する時に、社会的な行為にしないと説明が通らなかったりします。

自己形成と社会性

しかも元々の人格形成を見ていきます。

人は赤ちゃんの頃に鏡を見て、自己形成をします。

鏡をみることで自分だとわかっていきます。

第一段階の自己が社会性を帯びています。

 

それでは、鏡を見て自分だとわかる前はどんな状態かを考えてみます。

これはラカンの鏡像段階なんですが、自己がわかる前は感覚だけが断続的に浮かんでくるそうです。

オムツが濡れている。

お腹が空いた。

気持ち悪い。

このような感覚だけがやってきて、ようやく自己を認識することで、

私はオムツが濡れている。

私はお腹が空いた。

私は気持ちが悪い。

というように主語がつくそうです。

 

その自己を認識する前の状態は何か。

そう思うと、私はいそうです。

私を他者認識によって私と捉える誰かが一番先にいるんですよね。

空白の自己とか、無人島の自己だとかいうように、何かから私が認識される。

初めに私でないものがある、とすれば、それは私でない物という意味での他者が存在している。

他者という概念の捉え方

他者と言う概念もどう捉えるかですよね。

他人という人と捉える。

私でないものとして捉える、というような。

他者の定義がたくさんあって、他者がたくさんいる。

 

赤ちゃんの頃は自分と他人の区別があまりないと言います。

私の意志がそのまま相手に伝わっていると思っているから、赤ちゃんは自分の要求が通らないと泣いてしまう、というのはありそうです。

 

私には3歳の娘がいるんですけど、まだ舌足らずで、何か要求を言うんですよ。

この布団がいいとか、この枕がいいとか。

そして、言葉ではわからないと伝えると泣き出してしまうんですよね。

きっと何かしら満たしたいものがあって、それが満たされないから泣いてしまう。

私はそれを当てるのが苦手だなとよく思います。

理論的にはまだ娘は自分が認識できたとしても、意識のところでは母親である私と結びついているとおもっている節があります。

 

この時点で話を戻すと、娘は伝わらないから泣いています。

悲しいから泣くと言うよりも、そんな印象を私は受けています。

 

では、今日もお聞きいただいてありがとうございました。

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