哲学は何の役にたつのか。
その回答の一つは、アニメや映画を理解するのに役立つから。
数々の作品で受賞をしている虚淵玄(うろぶちげん)さんは、アニメ作品の中で哲学本を紹介しています。
その中には、キルケゴールやニーチェも。
虚淵さんの作品からのキャラクターからは、その思想が読みとることができます。
なので、今回は「fate0」からキルケゴールの思想をみていきましょう。
- キルケゴール哲学の説明
- キルケゴールとキリツグの思想
- キルケゴールとニーチェ思想の対立
初めに大まかなキルケゴールの実存主義を説明し、具体例としてfate0を出していきます。
fate0を見ていなくても、わかるような構成にしています。
キルケゴール哲学とは
キルケゴール「1813-1855」はデンマークの哲学者。
実存哲学の祖とされています。
キルケゴール哲学誕生のきっかけはヘーゲル哲学
実存哲学がなぜこの時代に流行ったのかと言えば、フランス革命に関連しています。
フランス革命は、簡略に紹介すると絶対王政から民主主義への変わり目の革命。
今まで王様が神様で、民はそれに従っているのが良いとされていました。
しかし、この革命がきっかけになり、世界は民主主義をとることが多くなっていきます。
- フランス革命前⇒王様に従う(絶対王政)
- フランス革命後⇒民が主権を持つ(民主主義)
この頃に流行っていたものはヘーゲル哲学。
ヘーゲル哲学は、話し合えば話し合うほど、歴史が進めば進むほど「真理」に到達すると考えました。
キルケゴールの実存主義
キルケゴールはヘーゲル哲学に影響を受けています。
しかし、すべてをとりこんでより正しい「真理」に向かうというヘーゲル哲学に対して、私が必要としているのは「私にとっての真理」だと言ったのです。
- ヘーゲル哲学⇒みんなにとって一般的な客観的真理が真理
- キルケゴール哲学⇒私にとってだけの主体的真理が真理
民主主義の思想にとっては、各個人の権利が主張されます。
私が「正しい」と思ったことに自信を持ち、革命を続けていくには自分自身への信念がなければ推し進めていけません。
例えば、フランス革命を成功に導いた一人にはロベスピエールがいます。
(>>社会契約論についてはこちら)
ロベスピエールは多くの人を処刑していますが、自分の信念の元に革命を推し進めることで、フランス革命の立役者となっています。
ただし、実存主義には絶望がつきまといます。
キルケゴールは人間は誰でも絶望するものだ、と述べました。
キルケゴールの実存主義と絶望
キルケゴールの実存主義には3段階あります。
- 美的実存
- 倫理的実存
- 宗教的実存
これらの実存段階を、fate0の主人公:衛宮切嗣(えみやきりつぐ、以後キリツグ)から見ていきましょう。
(本編のネタバレを含みますが、話を知らなくてもわかるように解説していきます。)
キルケゴールとキリツグの思想
Fate0は「どんな願いでも叶えると言われている聖杯」をめぐる争いの物語です。
キリツグの願いは「世界平和」。
正義感の強い人でした。
①美的実存
魔術師の父とともに小さな島で暮らしているキリツグ。
幼馴染の女の子は、キリツグの父の研究を手伝っていました。
ところがある日、その実験が失敗してしまいます。
幼馴染の女の子がゾンビ化。
ゾンビは人の血を吸ってゾンビを増やします。
女の子は自分の意識があるうちにキリツグに出会い、「自分を撃って行動を止めてくれ」と促しますが、キリツグにはできませんでした。
その後、島はゾンビだらけに。
なぜこのような惨劇が起こったのかと言えば、キリツグの父の研究に原因があります。
父はキリツグと共に自分たちだけ逃げ出そうとしますが、キリツグは躊躇なく父に対して銃を撃ちました。
その後、キリツグは幸せを感じることに罪悪感を覚えるようになります。
美的実存とキリツグの思想
キルケゴールの美的実存は、快楽を追求して感覚的に生きるあり方です。
美的実存⇒欲求や快楽を満たす生き方
キリツグは本能的な快楽を満たすことで罪悪感を招くようになりました。
自分は幸せになってはいけない、と。
好きな女の子を撃てなかったばっかりに島の住民がいなくなってしまった。
父を撃ってしまっている。
自分が幸せを感じると、悲劇を思い出して絶望するようになります。
では、この絶望した者がたちあがるにはどうすればよいのでしょうか。
キルケゴール哲学では、次の倫理的実存に向かいます。
キリツグは自分の正義感のもと、身を粉にしてその正義を実現しようとしました。
②倫理的実存
キリツグの信念は「正義の味方」です。
世界平和を実現しようとしました。
それがfate0本作における聖杯戦争への参加です。
キリツグは世界平和を実現するために、いつも自分で選択をします。
キリツグの選択①
自分の母親の命と数百人の命、どちらを取りますか?
キリツグは数百人の命を助けることにしました。
母親が乗るゾンビに支配されている旅客機を爆破。
キリツグの選択②
聖杯戦争に勝つためには、他の参加者を再起不能にしなければいけません。
参加者がどのような信念を持っているかはわかりませんが、キリツグにとっては敵です。
参加者を再起不能にするためには、ビルを爆破したり、人質もとります。
聖杯による「世界平和」を実現するため、相手にとっては「悪人」であるような行動をとっていくのです。
躊躇なく、再起不能にしていきます。
キリツグの選択③
200人が乗る船と300人が乗る船、どちらを助けますか?
キリツグは300人が乗る船を助けます。
すると、その300人がまた分岐しました。
200対100、100対50・・・・。
5対2。
その2には自分の妻と子供がいます。
キリツグは自分の信念に従っていけば、妻と子供を手放さなければいけませんでした。
選択することが、後に誰も残らない悲劇になることも。
結果、キリツグは聖杯を壊すことにするのですが、その選択によってその周りにいた499人がいなくなってしまいました。
倫理的実存とキリツグの思想
あれか、これか。
選択していくことによって、自分の正義とは違う何かになってしまいました。
「あれか、これか」と選択することによって、その後に絶望を味わいます。
自分の選択は間違っていたのではないか?
私が世界に関与したことは、ただの自己満足にすぎなかったのではないか?
私が信じていた「正義」は何だったのだろう。
聖杯によって実現できるのは、実現可能なことでした。
世界平和は抽象的な思想で、具体的なことをキリツグは想像していませんでした。
キルケゴール哲学では倫理的実存に絶望した後に、宗教的実存へと向かいます。
③宗教的実存
聖杯が爆発しました。
シーンはある少年の回想になります。
周りは焼け野原。
建物も原形をとどめていないほど。
ただとどめているのは自分だけ。
酸素が足りなくなってきて、少年は倒れこみます。
「空が遠い」
そう手を伸ばした先に、キリツグの手がありました。
「目に涙を溜めて、生きている人間を見つけ出せたと、心の底から喜んでいる男の姿。
それがあまりにも嬉しそうだったから。
まるで、救われたのは俺ではなく、男の方ではないかと思ったほど。
男は何かに感謝をするように、ありがとう、と言った。
ーこれ以上ないという笑顔をこぼした。」(fate0 6 p220)
宗教的実存とキリツグの思想
- 宗教的実存⇒神の前にたった一人で立つ単独者であること。
- 単独者⇒自分だけの価値を守る存在として、自分が信じるものの前に一人で立つもの。
キリツグは少年を助けた日を境に、ただ優しいままに月日を過ごしました。
喪うばかりだった人生なのに、それ以後はキリツグの前から去っていった人物はいません。
ただ少年に「爺さん」と言われるほどにはキリツグは老け込んでいました。
聖杯には呪いがあり、キリツグはそれを浴びてしまっていたのです。
しかし、穏やかな月日は幸せとも感じられるものでした。
もっと早くに「正義」の矛盾に気が付いていたならば、「正義」をあきらめていたならば。
母親、最愛なる妻、子ども、数多くの貴い命、それらを失わずにすんだかもれない。
しかし、初めに「正義の味方」に憧れてしまった自分がいる。
キリツグは最後まで「正義の味方」に憧れていました。
「ヒーローは期間限定で、オトナになると名乗るのが難しくなるんだ。そんなコト、もっと早くに気が付けばよかった」
そうキリツグは少年に語りつつも、今でもたった一つ変えられなかった信念を持っています。
少年はキリツグの信念をついでやる、と言います。
「うん、しょうがないから俺が代わりになってやるよ」
「そうか。ああー安心した」
こうしてキリツグは34歳で生涯を閉じます。
キルケゴールはその年を超えたことが信じられなかったみたい
宗教的実在とキルケゴール
キリツグの価値観は「正義の味方」を信じることです。
多くの人はその価値観に完全には同意できないものを見出します。
キリツグも絶望を味わいました。
しかし、爆破が起こった後、キリツグは生き残っていた少年に救われています。
キルケゴールは「絶望の中、神と直接対話するこの生き方で、初めて人間は本来の自分を取り戻せる」と考えたのです。
自分だけの価値なので、私たちが同じような場面にであったとしても、宗教的実存にはいたることができません。
「自分だけの価値」が必要なのです。
キルケゴール解説の多くは、宗教的実存とはどのようなものなのか理解が難しいと述べます。
キルケゴール哲学とニーチェ哲学の対立
実存主義の祖はキルケゴールだと言われています。
「汝の信ずる如くに汝になれ」、換言すれば、「汝の信ずる如くに、汝はある」、信仰が存在である。
(死に至る病 斎藤信治訳 p152)
例えば、キリスト教がないソクラテスの時代には罪というものがなかったと本で述べられています。
信仰があるから、罪が存在するようになる、と解釈できるのです。
つまり、何か信じるものがなければ、絶望することは難しいと取れます。
(信仰があるから罪が存在して、罪があるから絶望が存在する。)
それゆえに、キルケゴールの哲学には「信じるもの(神)」が必要だと解釈できるのです。
(信仰が存在という思想は、実存主義を確立したサルトルの「実存は本質に先立つ」が連想されます。
>>サルトルの実存主義とは)
キルケゴール哲学に対して、ニーチェ哲学も実存主義だと言われています。
ニーチェ哲学も既存の価値にとらわれない新しい価値を肯定するからです。
>>ニーチェ哲学とは
けれど、違っている点としては、ニーチェは「神は死んだ」と述べました。
- キルケゴール哲学⇒神との直接的な対話で真の実存になる
- ニーチェ哲学⇒神は既存の価値観で、新しい価値を生みだしたものが超人
この哲学の対比もfate0から読み解いてみましょう。
ニーチェ思想と言峰神父
聖杯戦争では、キリツグのライバルとして言峰神父がいます。
言峰神父は家系が神父さんなので後を継ぎました。
教養としてのキリスト教は叩き込まれています。
しかし、言峰神父はキリスト教に対して本能的な理解ができませんでした。
例えば、言峰神父には死にそうな妻がいました。
妻は病弱で、いつも苦しんでいます。
一般的な思考から言えば、妻への愛情から悲しくなるし、それゆえに愛が深まるかもしれない。
しかし、言峰神父は妻が苦しむその姿に愛を感じました。
妻「あなたは私を愛している」
言峰神父はわかっていました。
苦しむ妻がもがく姿に愛を感じているのだ、と。
対象が違っている、と。
妻そのものを愛しているのではなく、妻が死にそうになっている姿に愛を感じている。
キリストそのものを愛しているのではない。
キリストへ懺悔して苦しむ人々に愛を感じる。
当たり前に思うには、当たり前に思うことができる心情が初めに必要なのです。
キリスト教とは違う本能が自分にあるという違和感を、言峰神父はいつも抱いていました。
ニーチェ哲学と奴隷道徳
ニーチェ哲学は信仰そのものを疑いました。
多くの人がキリスト教を信じているのは、キリスト教を信じるようにすれば都合がいいから。
キリスト教では強いものを悪に、弱いものを善という価値観にしてくれると、ニーチェは述べました。(ルサンチマン)
ニーチェはそのように広がった教えは奴隷道徳だと述べたのです。
だから天国に行ける、と考えたんだね
ニーチェは、神という価値観に縛られることがなくなった現代に対して「神は死んだ」と言いました。
その背景には、人々の信仰の対象が「科学」に移ったということも表しています。
キリスト教(神)をそのように理解するとしたら、生涯信じ続けられる価値にはなりません。
ニーチェは自分自身が作り出す新しい価値観を肯定したのです。
キリツグと言峰神父の対決
言峰神父は神父でありながら、信じる対象を持っていませんでした。
人々が信じる対象を、そのように信じきることができずに、いつも疑問を持っていたのです。
新しい価値観を探し出そうとすることは、ニーチェの実存主義的な思想。
そこで言峰神父は、キリツグに目を付けました。
何か自分と似たものを持っている。
キリツグと対峙すれば、自分の問いの答えが見つけ出せるかもしれない。
そう思って、言峰神父はキリツグの前に立ちはだかりました。
言峰神父は聖杯への願いはなく、自分が何を望んでいるのかを知るために、聖杯戦争に参加したのです。
言峰神父の中身は信じる対象がないので空虚です。
それに対して、キリツグは信じる対象で満たされています。
キャラクターによってキルケゴール思想とニーチェ思想を分けることによって、その思想の違いが明らかになっていきます。
言峰神父の答え
言峰神父は何が自分にとって価値を持っているのかを聖杯戦争で知りました。
実はわかっていたのですが、知りたくなかった事柄に目を向けたのです。
新しい価値を創造する。
「この世全ての悪」(アンリマユ)を実現させるという新しい価値観です。
ニーチェ哲学では新しい価値を持つことを超人として肯定します。
ニーチェ哲学もヘーゲル哲学を否定しました。
歴史は進化しているのではないのだから、自分が作った新しい価値が肯定されるのです。
だから、「正義vs悪」という構造ができるんだけど、小説だとそうしたほうが読者にとってわかりやすいからそうしているとも解釈できるかな
キルケゴールの実存主義ーまとめ
キルケゴールは実存主義の祖と言われています。
革命が多かった時代、「主体的真理」に多くの人が賛同しました。
キルケゴールの実存主義は信じる対象がいます。
- 美的実存
- 倫理的実存
- 宗教的実存
これらの段階において絶望することによって、真の実存になるのだと考えました。